3人が本棚に入れています
本棚に追加
(とりあえず、いったん帰るか……)
徹夜組のもう一方、沖野の仕事には、なんとかめどがついた。沖野は一度小さく伸びをして、パソコンの電源を落としにかかる。
熊さんの席からは、まだマウスの音がする。
「熊さん、俺、そろそろ上がります」
「んー」
挨拶がてら、モニタ越しに向かいを覗くと、カチカチ、マウスの音と一緒に熊さんが答えた。目は画面から動かさず、また、カチカチ。
「熊さんのやってる案件、なんですか?」
「んー。今日納期の、16pもんの会社案内。あと居酒屋の改訂メニューと、A4のペラもんふたつあるけど。いいの? そんなこと聞くと手伝わせちゃうよ」
「うわ。すいません、帰ります帰ります」
「冗談だよ」
熊さんはのんびり言う。カチカチ。
気が変わらないうちに帰るぞと、沖野は出入り口に向かいかけたが、
「沖野、ごめん。今すぐ帰りたい?」
熊さんが呼びかけてきた。
沖野はぎくりとその場に固まり、ロボットのようにぎこちなく振り返る。
「え、えっと、その……や、やっぱ手伝います?」
「あー違う違う。そうじゃないけど、ちょっと疲れたんで気分転換したくてさ。急いでなかったら、5分だけ話し相手してもらえん?」
「……ああ、いいですよ」
それくらいなら、よくあることだ。沖野はタイムカードをピッとやってから戻ってきて、熊さんの隣のデスクに腰を落ちつけた。
熊さんはひとつカチ、とやってから、マウスを離す。その手で眉間をごしごしこすり、ふうーと息を吐いて背もたれに身体を預けた。
「やー、助かるわ。いや実はさぁ、ちょっと変な体験しちゃってさ。誰かに話したいなと思ってたんだよね」
「え、え? なんですか、変な体験って。怪談ぽいやつっすか?」
「まあ、変な体験としか言えないんだよ。実はさぁ」
熊さんは真剣な顔になって、少し乗り出す。メガネの奥の小さい目がきらりと光った。
最初のコメントを投稿しよう!