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「もう6時です。今日は帰りましょう」
「え? おいおい沖野、俺の話、信じてないでしょ? あと俺、やんなきゃいけないことあるから。まだ6時だし」
「熊さん、言っときますけど、この6時はPMじゃなくてAMです。それと熊さん、今の話、この前帰ったときの話ですよね?」
「そう、三日前ね。んで、その日また出社して、そのあとずっと会社にいんの。仕事多くて帰れないんだよね、わははは」
熊さんの髪は脂でべとついているし、着ているシャツはよれよれとして汗じみている。足元には半分脱いだ靴下がひっかかっており、机周りはコンビニの袋とペットボトルでいっぱいだ。
沖野はひとつ息をついた。
「熊さん。熊さんは疲れてるんですよ」
「おいおい! 本当に体験した話なんだぞぉ? ひでえな沖野、信じろよぉ」
「信じてますよ、間違いなく熊さんがほんとに体験したことなんですよね。だからやばいんですよ」
沖野は、赤黒い隈をへばりつかせている熊さんの目を、真正面から見た。その肩に手を置いて、まくしたてそうになる彼を静かに押しとどめる。
「あのですね。良く聞いてくださいね。まず、熊さんが言ってたペンギンは、たぶん、ただのスーツのおっさんです」
「……ほぇ?」
「彼らは確かに白黒にみえるけどペンギンじゃないです。このへんに飲みに来る、仕事帰りのリーマンです」
「……」
「それと、部屋から見える校舎が横倒しになったのは、熊さんが横になったからです。横になって見たから横に見えただけなんです。その証拠に、立ち上がったら縦に見えたでしょ」
「……あー……」
「わかりますか? 要するに、熊さん、疲れてやばい状態だったんです。俺も実は、そういうのありました。徹夜明け、そのまま仕事してたら、上司の説教がなぜか桃太郎の昔話にしか聞こえなくなったんすよ。つまり、人間は眠らないでいると、現実に夢がかぶさったり、判断力がおかしくなったりするんです」
熊さんは目を泳がせて、ばりばりと頭をかいた。どうやら、自分の体験を疑い出したらしい。沖野は噛んで含めるように言葉をつないだ。
「で、熊さん。熊さんはその日一度帰って、また出社してからもう三日、ここでずっと仕事してます。てことは、今の熊さんはたぶん前よりもっとやばい状態です。だから、もう仕事しちゃいけません。今すぐ帰りましょう」
「でもさぁ、また9時から始業じゃん? 帰るのも……」
「じゃあそのへんの満喫でいいから、シャワー浴びて少し寝てください! とにかくいったん退社しなきゃだめです!」
沖野は熊さんのマシンの電源を強引に落とし、ぶっくり太った彼の身体をほとんど無理やり引きずるようにして外に出た。
外に出て光に当たると、頭がくらくらする。徹夜明けの朝は、いつも光が痛くて、吸血鬼になったみたいな気がする。ちらっと振り向くと、熊さんも朝日に向かって目をしょぼしょぼとさせていた。
「うーん。ペンギンはいないな……」
「朝ですからね。まだこのへんにスーツの人がくるには早いっすよ」
「そういう意味じゃなくて、ちゃんと人は人に見えてるってこと」
「そうですか? ならいいんですが」
ふたりは、まだ起き出さない繁華街を何となく駅に向かって歩いたが、途中で熊さんが「じゃあここで」と立ち止まった。
「満喫ですか」
「ん。近いとこ行くわ」
「そうですか。じゃあ、お疲れっした」
「おう。おつかれー」
***
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