長雨の間に

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私が乗る地下鉄は、途中で地上を走る。高校も大学もバスで通っていたから、結婚してこの町に来るまで、地下鉄に乗ったことがなかった。 初めてその光景を見た時はとても驚いて、興奮気味に主人に話したのを覚えている。けれど、主人が驚いたのは私が地下鉄に乗ったこともない人間だということの方だった。 「そんな人、初めて見た」その声や言い方に自分の顔が強張るのを感じた。そして、そんな場所は他にもあるとスマホに画像を表示して、だらだらとスクロールして見せられてからは、私は馬鹿にされる程世間知らずで、自分の日常に起こったニュースはつまらないことなのだと口を噤んだ。 いつだって、その方が主人は機嫌がよかった。「まあ!そうなの?」と相槌があれば、なお彼の声は弾んだ。そうして聞かされた雑学や講釈を、私は一つも覚えてはいないけれど。 それから何度あの場所を通っただろう。何度雨が降って、主人の知らない外出を重ねただろう。もう驚くこともない代わりに、今は地上を走るたった数百メートルの景色を楽しみにしている。やっと出られた地上なのに、ビルとビルの谷底みたいなそこに、雨が落ちてくる様子を。 車内のアナウンスに耳を傾けて、駅を数える。もう少しだ、来るぞ、来るぞ……。 見えたのは、いつもと同じ景色。いつも通り、雨に濯がれる仄暗い、けれど待ち侘びた光のある世界。それなのに、酷く違和感を覚えた。新しいお店の看板?通り掛かった派手なラッピングバス?そんな物が目に入ったのは帰りの電車のことだ。 その時私の目を奪ったのは、“赤”だった。見慣れた景色の中、宙に浮いたまま微動だにしない赤。息を呑み、目を凝らす。それは、真っ赤な傘だった。勿論、浮いていたわけではない。その鮮烈さに、そんな気がしたのだ。 正体が知れると、視野が広くなる。私の興味は既に、傘ではなく、その持ち主に移っていた。傘で隠れた首から下、スーツを纏った男の体が、こちらに向かって立っている。
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