5人が本棚に入れています
本棚に追加
へぇ、男の人なんだ。偏見かもしれないけれど、赤い傘を差すのは女だという思い込みがあった。だからだろうか、その意外さに私はじっと彼を見た。
雨で深みを増したチャコールグレーのスーツは、晴れていればもう少し明るくて私好みの色だろう。形も程よく体に沿っていて……きっと裸も好きな感じかもしれない。特に、手がいい。傘の柄を握る右手がとても綺麗だった。
嘘、そんな細かい所まで目えるわけがない。私は走る電車の中に居て、彼はそれと平行に動く往来に立っている。そこまで観察する時間も、2.0の視力もないのに、随分と評価が高い。やだ私、また男の人を値踏みするような真似をしている。
最近の私は、よくそれをしてしまう。テレビや雑誌、近所の商店街。其処此処で目にする男の人を、恋愛を含んだ妄想で性格やセックスまで決め付けてアリとか、ナシとか。
何度だって言う。今の暮らしは、私には少し退屈なの。一日中することはあるのに、なんだかつまらないのよ。悪いことではないはずだ。私はそのことを誰に言うわけでもないし、男達は私を抱いたことも知らない。想像は無罪だ。相手が誰でも、私が結婚していても。
その私から見て、赤い傘の彼は“アリ”だ。首から下だけでこれほど好みなのだから、相当いい。顔や性格は頭の中で補えばいい。傘の色はどうかと思うけど……私がすぐに見付けられるように選んだのなら、可愛い。そんな想像が顔を綻ばせた時だった。
うそ……。不意に現実が押し寄せて来た。あるはずがない、けれど現実が。
男が手を振っているのだ。傘の下で、照れくさそうに左手が揺れている。そのことを理解出来ないうちに、電車はまた私を連れて地下へ潜ってしまった。窓に映る自分と目を合わせて呟く。
「そんなわけ、ないわよね」その一言は、一日中頭の中に残った。図書館で読んだ本はタイトルも覚えていないし、いつものコーヒーショップではカフェ・モカのミルクを豆乳にするのを忘れた。
久々のミルクの味を感じながら、私はずっとあの男のことを考えていた。確かに彼はこちらに向かって手を振っていた。少なくとも、電車の中の誰かに向かって。その光景を何度も思い起こして、彼の視線を仮定し、辿る。夕食のカレーを煮込んでいる頃には、彼は私に手を振ってくれたのだと思い込んでしまっていた。雨の度に見掛ける私を、あそこで待っていたのだと。
最初のコメントを投稿しよう!