青春の吸い殻

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「あっちぃなあ。もう夏じゃねこれ」  僕のベッドに寝っ転がりながら、達哉(たつや)がスマホを片手に愚痴った。もう片方の手で彼は制服であるカッターシャツの首元を煽って、なけなしの風を身体に送っている。  そもそもクーラーなんて高尚な物がない僕の部屋では焼け石に水だろう。  がなりたてる扇風機が今にも壊れそうになりながら首を振り、開けっ放しの窓の横のカーテンを揺らす。  窓の外には、ムカつくぐらい青い空が広がっていて、五月とは思えない熱気を生み出していた。  僕と達哉の煙草から立ち昇る紫煙。それはふわりふわりと漂い、扇風機の風に乗って空へと消えていく。  僕と達哉の煙のように無意味な会話が続く。 「そもそも煙草吸わなきゃいいんだよ。そしたらリビングでクーラー使える」 「何の為にお前の部屋に来てると思ってんだよ。つうかお前のお母さん、リビングで煙草吸ってなかったっけ」 「吸ってるけど、自分の煙草以外の匂いは嫌なんだってさ」 「大して変わらないのにな」  違いないと、僕は小さく笑った。  達哉とは去年、高校二年生の時に出会った。同じクラスでたまたま席が前後になっただけ。彼は持ち前のコミュニケーション能力で、僕や周りの子に話しかけ、僕は鼻持ちならない奴だと一方的に嫌っていた。  金に近い色に染めた髪にピアス。自由な校風が売りの我が母校でも、達哉ほどハジケている奴はいないと思う。黒髮で、今でも元美容師の母に髪をカットしてもらってる僕とは大違いだ。  だけど、たまたま駅近くの喫煙所で出会ってしまって、僕らは仲良くなった。煙の縁だ。田舎の為、高校生が隠れて吸える喫煙所は限られている。出会ったのは必然だろう。 「あーあ。しっかし良いよなあ佑樹(ゆうき)は。俺も自由が欲しいよ」 「なんだよそれ。小遣いいっぱいもらえて、何でも買って貰って、羨ましいのはこっちだよ。うちみてーな貧乏アパート暮らしのどこが自由だ」 「金持ちの息子にはそれはそれで苦労があんだって。俺からすりゃあよー、小難しい本はある癖にwifiもねえ、クーラーもねえ、テレビすらねえこの暑くて狭っ苦しい部屋の方がよっぽど自由を感じるよ」 「小説は小難しくないよ。どうせ煙草吸いたいだけだろ?」 「まあなあ」  僕は吸い終わった煙草を机の上にあるコーラの缶に押し付け、中へと落とした。 「佑樹さ、3組の羽山絢香(はねやまあやか)ってお前のトモダチだろ」  僕がもう一本吸おうか迷っていると、達哉が唐突にそんな事を言いだした。  まるで煙が質量を伴って、殴りかかってきたような気分だ。僕は一瞬動揺するが、悟られないように煙草を取り出した。  煙草で誤魔化せる物が沢山ある事を僕は知っている。    僕はゆっくりと落ち着いて煙草に火を付けた。深く煙を吸い込んで肺を満たす。頭の中で粘つく泥のような記憶ごと、僕は息を吐き出し答えた。 「別にトモダチじゃない。おんなじ団地に住んでて母親同士が仲が良いだけ。それ以上でもそれ以下でもない」 「そっか。こないだの日曜さ……絢香とヤッたよ」  達哉は目をスマホに落としたまま、そう呟いた。それはきっと僕宛の言葉なんだろうが、僕はそう認識できなかった。    少し震える手でまた煙草を吸って、煙を吐き出した。何ともない。ダメージはない。 「狙ってたんだ」 「正確にはそのうちの一人、だったけどな。びっくりしたよ。向こうのほうが乗り気で結局終始リードされちまった。男のプライドがズタズタだよ」 「へえ」 「一時期年上の男と付き合ってたって噂もあるし、手取り足取り教えてもらったんかねえ。まあ、気持ちよかったから俺はいいんだけど」  きっと、僕の声は震えていなかったと思う。 「……ん? ああ煙草切れちまった。佑樹一本くれ」 「……」  僕は無言で机の上にあった緑色の煙草の箱を投げた。達哉がそれをキャッチすると、嫌そうな顔をした。 「忘れてた。そういやお前吸ってるのコレだったな。よくこんなキツイ煙草を吸うよなあ。メンソールってEDになりやすいらしいし変えたらどうだよ」 「こだわりがあるんだって。達哉と違って何でもいいわけじゃない」 「かはは、女も煙草も、ってか」  僕が吸っているのは、ハイライトのメンソール。その香りは略奪者の象徴だ。 「僕は、奪われる側はもう嫌なんだ」 「は? なんだそれ」 「なんでもない」  動揺が収まるのを待ってから、僕はゆっくりと空へと視線を移した。煙を吐きながら思う。  四ツ谷七星(よつやななせ)は今何をしているのだろうか、と。 ☆☆☆☆☆☆☆  英語教師が眠そうな声で過去完了形について語っていた。  僕は、ノートも取らずひたすら前を見ていた。斜め前では達哉が突っ伏して眠っている。授業をろくに聞きもしないのに、テストの点はいつも学年でも上位なのは軽く理不尽だと思う。  だが、そんな事はどうでもいいのだ。僕の目の前で揺れる物に比べれば。  黒く長い髮が、窓から吹く風で揺れている。  そのまっすぐな濡羽色の髪は、陽光の当たり具合で色が変化し、僕の心を掴んで離さなかった。  その揺れる髪の向こう。夏用の薄いブラウスにはくっきりとブラジャーの線が浮かんでいた。薄くて細い彼女の背中の反対側。ブラジャーが優しく抱えているであろうモノを僕は想像し、下半身に血液が集まってくる感覚に悶々としていた。    「現在完了形と過去完了形の違いわかるやついるかー」  教師のやる気のない質問に、僕の前に座る四ツ谷七星が手を上げる。その動きと共にふわりと広がる髪に目を奪われた。  髪に光の粒が乱反射して、まるで万華鏡のようにきらめく。その幻想はしかし数瞬後にはまた綺麗な直線に戻った。 「現在から振り返って考えるか、過去から振り返って考えるか、です」  四ツ谷さんの声が心地よい。意識するまでは、全く気にした事なんてなかったのに。  「その通り。つまりBe動詞が……」  過去から振り返って……か。僕は寝ている達哉を見て彼の言葉を思い出す。絢香との関係。僕は頭を振った。これ以上考えちゃいけない。思い出してはいけない。  “よお下手くそ君。絢香から聞いたぜ。ヤってる途中で拒否られたんだってな。ダサすぎだろ。まあガキが調子乗るからだ”  頭の中で嫌な声が響き、ハイライトメンソールの臭いがどこからか漂う。  僕はポケットに隠し持っていた煙草の箱を握りつぶした。  “あはは……佑樹君もしかして初めてだった? いいよ気にしなくて”  甘く優しい、でも呆れた声が耳元で聞こえる。粘っこい汗が拭っても拭っても額に浮かんでくる。  くそ、何が過去完了だ。何も、完了しちゃいない。僕はまだ、あの時の続きのままだ。  いつの間にか授業が終わっていた。四ツ谷さんが爆睡している達哉の脇をちょんちょんと突いている。彼女が横を向いたせいで、大きなおっぱいが視界に入ってきた。  四ツ谷さんは決して美人ではない。不細工だとは思わないが、一重だし可愛いとも言いがたい。でも、泣きぼくろが妙に扇情的でよく笑って愛想も良いせいか、意外と人気がある、と僕は信じている。 「おーい達哉君。授業終わったよ」 「んあ? おお、終わってたか。佑樹ぃ、トイレいこーぜー」 「僕はいいよ。一人で行ってこい」 「んだよ連れねえなあ……ん? あれ、絢香か?」  達哉の視線を追うと教室の後ろの扉から、一人の女子が顔を出していた。茶色に染まったショートボブ。大きな瞳。化粧は控えめのようだが、それでもその顔は多数の男子の視線を集めるには十分なほどに可愛い。  それは絢香だった。身長は低く、おっぱいもちっちゃいが、ブラウス越しでも分かる腰の細さが妙にエロい。 「失礼しまーす!」  絢香が大きな声でそう告げると、ずかずかと教室に入ってきた。  大股でまっすぐこちらへと近づいてくる絢香の、短いスカートが翻った。見えそうで見えない短さで、無駄にこちらをドキドキさせる。  僕の机の前まで来た彼女が紙袋を僕に向かって差し出してきた。その様子を達哉が見ているのを感じる。四ツ谷さんも見ているに違いない。   「佑樹、これうちのママから。ユリさんに渡しといてって」 「ん? ああ。分かった」 「渡すまで開けちゃだめだよ。お客さんから貰った北海道土産だって」 「開けないって」 「そ。じゃあ。七星ちゃんもまたね」 「うん、絢香ちゃんも」  手を上げ、僕の前の二人にそう声をかけると、絢香は颯爽と去っていった。 「なにそれ」  達哉が絢香に無表情で手を振り返しながらそう聞いてきた。 「白い恋人だってさ」  僕もなるべく表情を動かさずに紙袋の中身を答える。 「白い恋人かーベタだね」  予想外に四ツ谷さんが会話に参加してきた。どうやら彼女は絢香と知り合いのようだ。  化粧っ気もなく髪も染めず、スカートも校則通りの長さの四ツ谷さんと絢香はまるで正反対のように思えるが、少なくともお互いを下の名前で呼び合うぐらいの仲らしい。 「じゃがポックルのが良かった」 「白いブラックサンダーのが俺は嬉しい」 「私はバターサンドが好きだなあ」  その後、短い休み時間の間で、僕たち三人は北海道土産について議論していた。僕の嫌な気持ちはいつの間にか消えていた。 ☆☆☆☆☆☆☆  帰宅部の僕は学校が終わると、自転車でアルバイト先である居酒屋に向かう。  僕は遊び代と生活費を稼ぐためにアルバイトをしていた。母親が僕にお金をかけてくれているのは教育費とアパートの家賃だけだ。まあ感謝はしているが、大学へ進学するつもりがない事を僕はまだ言い出せずにいた。 「おはようございます」 「佑樹君おはよう。いつも早い時間にありがとうね」 「いえ。今日、人少ないんでしたっけ」 「大丈夫。今日は予約少ないし」  店長の小川(おがわ)さんが優しく猫みたいに目を細めながら僕に声をかけてくる。もう四十歳は越えているはずなのだが、癖のある黒いロングヘアーを後頭部でまとめていて、化粧も薄いせいか実年齢よりも若く見える。身体の線が細い割に出ているところは出ていて、エプロン姿が妙な興奮を掻き立てた。小川さん目当てに常連さんが毎日やって来るのも納得できる。  もちろん今も美人だと思うが、若い頃はもっと綺麗だったと思う。  店内にはまだ誰も来ておらず、僕と小川さんだけだった。僕は急いで掃除を始める。僕の脳裏にあの夜の情景が蘇った。  小川さんは、元々旦那さんと二人でこの店を始めたらしい。だけど、お店が軌道に乗り始めた頃に旦那さんが交通事故で亡くなったそうだ。幸い料理は小川さんがほとんど作っていたので、お店自体はアルバイトを雇いながら何とか回せたらしい。  そんな話を小川さんはビールを飲みながら話しはじめた。お店が終わって僕が賄いを食べている最中だった。そうして話しているうちに泣き始めた小川さんを僕は放っておけず慰めていた。    気付けば、僕達は小川さんの部屋で裸になって抱き合っていた。そして僕は、人生二回目のセックスも失敗したのだった。  僕は無心で掃除を終わらせた。他に誰かいれば気にならないが、二人っきりだとどうしても意識してしまう。小川さんは流石大人なだけあって、あの夜以来もそれ以前と全く態度が変わらなかった。  逆にそれが辛かった。結局僕は、彼女に何の変化も影響も与えられなかった無力な子供だ。  分かっている。あれはただの気紛れで、僕ができなかったのはたまたまだって事。  分かっていても、恐怖が僕を優しく包んでいく。    最後にカウンターを掃除し、僕は時計を確認した。時計の針は午後五時半を差している。もうすぐ開店時間だ。  早く誰か来ないかなと僕は思い、特に意味なく圭太(けいた)へと愚痴混じりのLINEを送った。彼は、いつも僕の悩みを聞き、そして解決に導いてくれる大切な友人だ。  気紛れな彼から返信が来ることを期待せず、僕は仕込みに取りかかった。  結局その日の夜はさして忙しくなかった。  小川さんと僕と、後から来た先輩との三人でなんとか店は回せた。 「すみません、上がります」 「うん。ありがとう。気を付けてね」 「はい。お疲れ様です」  僕は少し重くなった足で自転車を漕ぎ、アパートへと急ぐ。無性に煙草が吸いたかった。  信号待ちをしていると、スマホの通知が鳴った。見ればそれは圭太からの着信。  いったん自転車を止め電話を取ると、前置きもなしに圭太がまくしたてた。 「君は本当にどうしようもないな。悪い事は言わん、さっさとアルバイト変えろ。店長と二人きりになるたびに愚痴られて僕も迷惑だ」 「いや、悪かったよ。間が持たなくて」 「まったく……結局だ、君はまたセックスを失敗するかもしれないと、恐れているわけだ」 「まあ、そうなのかも」  圭太は中学校からの友達でクラスは違うが同じ高校に通っている。彼は背が小学生並みに低く、顔も歪んでいた。僕と出会った頃に重い病気になり、その後遺症としてそうなったらしい。今でも薬の影響で肥満体質だ。  だが、彼は明るいし、何より賢かった。 「くだらん事で悩むなよ少年。僕なんざ一生童貞だぜ。だが、他の奴が時間を恋愛にかける分、僕は前に進める。今は大差ないかもしれんが将来的には遥か先に行ってやる」 「圭太なら行けるよ」 「結局、お前はどうしたいんだよ。四ツ谷の事やらバイト先の店長やら羽村のことやらさ」  僕はなぜか圭太にだけは全て話せていた。だから彼の前では煙草を吸わずに済む。誤魔化す必要も逃げる必要もないからだ。まあ煙草を毛嫌いしている圭太の前ではどちらにしろ吸わないが。 「トラウマになってるんだって」 「あほか。そんなもんはトラウマでもなんでもないね。ただ、初体験を失敗して年上のクズ男に彼女を寝取られただけ。そんなもんこの世の中にごまんと転がってる」 そう。そうなんだ。くだらない事なんだ。 「谷口が目立つから分からないが、お前もお前で結構隠れファンが多いんだ。てきとうな女捕まえてさっさとやっとけ」 「隠れてないで出てきてほしいよ」 「情けねえ奴だな。谷口と羽山が付き合ってるんだろ? だったらダブルデートでもしろよ」 「ダブルデートってなんだ」 「学がねえなあ。4人でデートする古典的な手法だよ。一組はカップル、もう一組はそれぞれの友人。まあその友人同士をくっつけるのが目的だな」 「四人か」  達哉と絢香と僕と四ツ谷さん。  それは、なんだかとっても素晴らしい光景に思えた。 「圭太」 「なんだよ」 「愛してるぜ」 「キモいなお前。切るぞ」  冷たい奴だ。だけど圭太のおかげで僕は何かすっきりした気分になった。ダブルデート。いいじゃないか。  僕はようやく、一歩先に進めるような気がした。 「あと、とりあえず煙草は止めとけ。糞みたいに臭い」 「うるせえほっとけ」  高揚感を感じながら、僕は帰宅した。  誰もいない部屋で僕は煙草を吸って、窓を閉めた。  その夜、僕はオナニーをした。僕の脳内に浮かぶ彼女は、顔は絢香で身体は小川さんだった。 ☆☆☆☆☆☆☆  達哉に協力してもらい実現したダブルデート当日。  僕は待ち合わせの二十分も前に集合場所である駅前に着いてしまった。する事もなく、出る直前まで悩んでいた今着ている服をチェックするも、やはり納得がいかない。きっと何を着ても納得いかなかったと思う。  駅前のしょぼい噴水の前で僕は、どうしようか悩んでいた。空は曇天。雨が降らないだけマシだろう。 「おーい沢田君」  誰かが僕を呼んでいた。声の方を見ると、四ツ谷さんがベンチに座っていた。 「四ツ谷、さん?」 「そうだよ? 何その顔、おっかしい」  四ツ谷さんが笑っていた。ほんのり化粧をしており、睫毛が長くなっている。腰の部分にベルトが巻かれた青と白のストライプのワンピースに、足下にはなんだか複雑な編み込みの入ったサンダル。あの綺麗な髪の毛はアップにされていて、いつもは見られないうなじに僕は一瞬で惹かれた。  圭太の声が蘇る。“いいか、もしデートで女が髪を上げていたらチャンスだ。ガンガンいけ” 「あ、いや、いつもと雰囲気が違うから」 「褒め言葉、だよね?」 「そうだよ」 「良かった!」  四ツ谷さんの笑顔に僕も釣られて笑ってしまった。僕は四ツ谷さんが小さな鞄をどけたのでその横に座った。 「なんかね、妙にそわそわしてて落ち着かなかったから来ちゃった」 「あー僕もそう。ダブルデートって初めてだし」 「絢香ちゃんが、今時する!? って笑ってたよ」 「確かに」 「私は誘われた時嬉しかったけどね。相手が誰かちょっと怖かったけど、沢田君だって聞いて安心した」  四ツ谷さんが体をこちらに向けてそう言ってくれた。僕は、嬉しさと恥ずかしで飛んでいってしまいそうな体を落ち着かせるのに必死だった。視線が四ツ谷さんの顔と大きなおっぱいを往復する。  それから僕らは待ち合わせ時間まで、くだらない事を喋りながら過ごした。少しぎこちない会話も、数分もしたら滑らかになり僕も調子が出てきた。 「そういえば、今日は煙草の匂いしないね」  クンクンと鼻で嗅ぐ犬のようなわざとらしい仕草をする四ツ谷さん。 「臭いだろうし昨日から吸ってない。服もファブリーズした」 「そうなんだ。私嫌いじゃないけどね、あの匂い」 「へえじゃあ後で吸おうかな」 「忘れているかもしれないけど、沢田君未成年だからね?」 「だからいつも半分までしか吸ってないんだ。それなら十歳以上ならおっけーなんだよ」 「またそうやって嘘ついてー」  くるくると表情の変わる四ツ谷さんは控えめに言って可愛かった。愛嬌があるとはこういうことを指すのだろう。 「そういえば、遅いね二人」 「ん? ああ本当だ。もう十分も過ぎてる」 「まあ二人とも時間にルーズそうだし。もう少し待ってみようか」  その時、僕のスマホに通知が表示された。LINEを見るとそれは達哉からだ。“健闘を祈る”、ただそれだけ。僕はすぐにどういう事か理解した。 「連絡あった?」 「うん。二人、今日は来れないって」 「ええ!? そうなんだ。体調崩したとかかな?」 「さてね。急に二人でディズニーランドに行きたくなったのかもしれない」 「あの二人ならあり得るなあ……」  さて。ここからだ。こういったトラブルは想定済みだ。さりげなく、自然に二人っきりのデートへと移行させるのだ。 「じゃあ行こっか」 「うん——っていいの!?」 「え? だって二人来ないし。ふふふ、沢田君変な顔してる」 「あ、うん。よし、行こうか」  くすくすと笑う四ツ谷さんに僕は拍子抜けした。なんだよ、簡単じゃないか。  僕と四ツ谷さんは予定通り、隣の駅前にあるイオンモールへと行き、ランチを食べて、映画を見た。その後、彼女の提案でカラオケへと移動した。    カラオケボックスの密室で二人っきりになり、僕はまた少し緊張しはじめた。僕から一人分の隙間を空けて、四ツ谷さんが座る。僕らは大人しくソフトドリンクで乾杯をした。僕はコーラで、彼女はレモンソーダ。  僕と四ツ谷さんは、結局最後まで曲を入れなかった。その代わりに、僕と彼女は笑いながら学校の事を話した。話題は少しずつ達哉と絢香の事にシフトしていく。  いつの間にか四ツ谷さんが僕のすぐ隣に移動していた。  何度となく今日嗅いだ四ツ谷さんの匂いが濃くなっていた。汗と微かに香る香水の匂いが混じって僕の脳髄と下半身を刺激する。 「君、さ。昔、絢香ちゃんと付き合ってたんでしょ」  僕は、咄嗟にテーブルの上の煙草に手を伸ばそうとするが、その手に四ツ谷さんが自分の手を重ねた。そのひんやりとした感触に、僕はそれ以上手を動かせなかった。 「絢香ちゃんから聞いたんだ」 「それだけ?」 「うん、それだけ。付き合ってたけど別れた。お互いに引きずってないし、今は何もないって。フェアじゃないからって話してくれたの。絢香ちゃんそういうとこあるよね」  そうか、それだけか。 「僕は、フラれたんだよ。それからは誰とも付き合ってない。絢香の事は別になんとも思っていない」 「そうなんだ。良かった」  四ツ谷さんが、僕を上目遣いで見ながら、笑みを浮かべた。その顔を見て、僕はもうどうにかなりそうだった。 「今日、凄く楽しかった。デートとか久しぶりだったし」 「僕も楽しかった」 「ダブルデート、結局ただのデートになっちゃったね」 「それ、実は、僕が達哉にお願いしたんだ。来なかったのは予想外だったけど」 「そっか。じゃあデート相手に私を指定したのも佑樹君?」 「うん」 「そっか」  四ツ谷さんが僕の手を取って、そのまま自分の胸の辺りに持ってきた。触れるか触れまいかの微妙な位置。僕は緊張して体も、下半身もガチガチに固まっていた。 「嬉しい」 「うん」  四ツ谷さんが目を瞑った。僕は手を彼女の細い肩へと置いた。そのまま、まるでガラス細工を扱う職人のように、僕はゆっくりと彼女を抱き寄せて、唇を合わせた。  四ツ谷さんとのキスは、ほんのりとレモンの味がした。 ☆☆☆☆☆☆☆  それから、僕と四ツ谷さんがセックスをするようになるまでさして時間は掛からなかった。  僕の恐れを笑うかのように四ツ谷さんとのセックスは上手くいった。何より、四ツ谷さんは処女ではなかった。 「幻滅した?」 「いや、安心した」 「良かった。でも佑樹君とするのが一番気持ちいいよ?」  そう言って笑ってくれる彼女が愛おしかった。  僕は段々煙草を吸わなくなった。だってもう必要がなくなったから。  秋の途中で、達哉と絢香は別れた。達哉は強がっていたが、どうやらフラれたらしい。絢香が時々年上らしき男性と歩いているのを見かけるようになったので、それはそういう事なんだろう。  僕は、四ツ谷さんと関係を悩みながら、いつも通り圭太のアドバイスを受けつつ僕なりに精一杯の青春を過ごしていた。  夏が過ぎ、秋が過ぎ、冬が過ぎた。そして僕たちの卒業が近づいてきた。  近付くにつれ、反比例するように四ツ谷さんとのデートの回数が減っていった。僕と違って彼女には受験があるから仕方がない。  そう、僕は思い込んでいた。 「佑樹君、卒業したら就職するんだよね」 「うん。大学行くほど余裕ないし。母親の知り合い、多分元カレだと思うけどその人の整備工場で仕事する」 「そっか」 「そっちは、東京の大学だっけ」 「うん。叔父が東京に住んでいるから、そこから通う」 「東京か……遠いな」 「遠いね」 「免許取ったらバイク乗って会いに行くよ。就職祝いに買ってくれるらしいし。まあ中古のおんぼろだから、それを直すのも修行みたいな感じだけど」  僕は、前向きだった。  ばかみたいに前向きだった。  四ツ谷さんの笑顔が少なくなっている事に気付かないぐらい、前しか見えていなかった。  結局、僕は何も変わっていなかった。  その日は寒く、珍しく雪の振る夜だった。  僕の部屋で、僕が四ツ谷さんに身体を求めた時に、彼女はそれを拒否した。 「ごめん、あのね。佑樹君とね、別れたいと思ってる」 「……は? 待って、どうしたの? 僕が何かした?」 「違う……違うの……分かってよ」  四ツ谷さんが、目に涙を浮かべていた。僕は、ただおろおろするだけだった。煙草に手を伸ばそうとするが、そういえばもう数ヶ月吸っていないことに気付いた。くそ、肝心な時になんでないんだ! 「佑樹君、無理だよ。東京とここじゃ遠すぎるよ。私だっていっぱいしたいことがあるし、佑樹君は仕事でしょ? バイク直して来るっていつ? 一ヶ月後? 半年後? それからどうするの?」 「いや、それは……でも休みの日とかに」 「私の休みはどうなるの? アルバイトだってしたいしサークルとかにも入りたい。無理だよ……」 「そんな……だって」 「だから、これが最後、ね?」  泣きながら、四ツ谷さんが笑った、それからまるで母親のように僕を抱きしめた。きっと僕がひどい顔をしていたからだろう。  僕は結局、四ツ谷さんを抱いた。彼女は泣いていた。  僕も泣いていたと思う。  こうして、僕は高校を卒業した。   ☆☆☆☆☆☆☆ 「先輩、同席いいっすか」 後輩の宮田(みやた)が頬に油を付けたまま喫煙所にやってきた。工場の横にある小さな喫煙所、僕の楽園。 「それ、化粧のつもりか?」 「ふぁい? あー油ついてました? うへー肌が荒れる」  元バレー部で背がひょろりと高く肌が黒い宮田が、ゴシゴシと袖で頬を拭っていた。余計に汚れが広がっているが、指摘はしない。 「そういや、先輩、煙草持ってません? あたし忘れちゃって」 「しゃあねえな。一本百円な」 「ええ、高いっすよー」 「じゃあ後で飯奢れ」 「それならいいっすよ。あ、美味しい焼鳥の店知ってるんでそこ行きましょ」 「女子ならもっとオシャレな店とか知らないのかよ」 「そういう店は苦手なんすよ」  僕は、煙草を一本宮田に放り投げた。器用にキャッチすると宮田はそれに火を付ける。どうやら吸い慣れてないのか、宮田がむせた。 「これ、なんすか」 「セブンスターだよ」 「そっすか。あたしメンソールのが好みっす」 「知らねえよ」  ゆっくりと、煙草を吸う。色んな気持ちはまだ疼いている気がするが、少なくとも煙草はそれを誤魔化してくれる。  僕はときおり、あの長い髪とおっぱいを思い出す。もう顔もおぼろげだが、確かに存在した僕の思い出。  その確かなはずの思い出は紫煙と共に春風に揺れ、そして散っていった。
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