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プロローグ
新月を背に遥か遠くを見やる女神は、その細腕に不釣り合いな銀の長弓を引き絞り、中天を射らんとする。銀月と狩猟の女神ルーネは銀の弓矢とともに描かれる。
ルーネのレリーフの向かいには、満月を背に梨型の楽器を奏でる男神の姿がある。彼の周りには動物達が描かれることが多い。そのレリーフにも鹿や兎、狐といった動物達が寄添い、彼の演奏に耳を傾けている。金月と森の神セシェル。ルーネの夫である。
ベッドに仰向けに寝転がり天蓋の中に彫られた二柱の神々の神話に思いを馳せてはみたものの、部屋のドアを叩く音は激しさを増し、現実に引き戻される。
「セリアルカ! 良い子だから出てきなさい! 断るにしても会って話さなければ、あちらも納得しないよ!」
父の古い友人である、オクシタニア伯の息子らしいから、きっと良縁なんだろうなとは思う。
オクシタニアはシュセイル王国の南東にある深い森と山に囲まれた土地で、確か高級ワインの原料であるブドウの名産地だったはず。
そのため首都から遠く離れた辺境の地にも関わらず、オクシタニアを治める伯爵家は経済的に豊かで、中央の政治にも強い発言権を持っているとか。
その大貴族の息子が、貴族の令嬢でもない平民の娘の私と婚約したいと、十年近く前から何度も何度も何度もしつこく、ほんとなんなの? 怖いんだけど? というぐらいに恋文やら花やらプレゼントを贈ってくるのだ。
プレゼントを送り返したり、返事を書かないと恋文の厚さが倍になるので、仕方なく毎度丁寧にお礼とお断りの返事を書いている。
手紙は季節の挨拶から始まり、体調を気遣い、近況を報告し、さりげなく私の好みを聞き出し、オクシタニアは良いところなので是非来て欲しいと招待し、その間に巧みに会いたいとか婚約したいだとかを挟んでくる隙の無い構成で、全文読んで返事を書くのも一苦労である。
好意的な返事を書いて期待を持たせてはいけないと、事務的にお礼状のつもりで書いているのだが、手紙が一カ月以上絶えたことはない。彼はめげないその心の強さを、もっと別の方向に生かすべきだと思う。
転校を機に家を出て、春からは寮生活となるので、今までのようにやりとりはできなくなる。絆されてずるずると先延ばしにしていたが、きちんと断ろうと手紙を出したのが五日前の話である。
『伯爵様は父のご友人と聞いておりますので、父の事情をご存知のことと思います。であれば、私がどのような事情を抱えているかもお察しいただけるものと信じております。何度も申し上げた通り、私は、それらの事情から生涯結婚する気はありません。これ以上やりとりをして貴方の大切な時間を奪うことは本意ではありません。誠に勝手ながら、この手紙を最後とさせていただきます。今までお付き合いいただきありがとうございました。』
結果はこの通り、手紙の代わりに本人が来た。
結婚させたいのは親同士のはずなのに、彼は何故そこまでするのだろう? 親の期待に応えたい? 私の体質への憐れみ? そうでなければ、わざわざ私のような狼女を選ぶはずがない。
ベッドから起き上がり、鏡台の前に座ると、腰まである長い黒髪を後ろ手で三つ編みにした。
黒髪は、このシュセイル王国においてとても珍しい。
そして、生まれながらの狼女は、この世界において非常に珍しい。
私の価値、私でなければいけない理由を考えれば、それしか思い浮かばない。
珍しいものをみると欲しくなるということだろうか。金持ち貴族様の考えることは理解できないし、トロフィーやコレクションのように扱われるのはまっぴらだ。
立ち上がって、乗馬用のブーツを履き、ベルトにレイピアと短剣をさげてダウンの入った上着を着る。鏡の中の自分を睨むと、尻尾のような長い三つ編みを上着の上に出した。
迷ったのは一瞬だった。
短剣を抜くと、三つ編みを掴んで首の後ろでバッサリと断ち切った。毛先がバラついて不恰好だけど後で綺麗に切ってもらおう。若い頃の父さんそっくりでなかなか良いじゃないか。
切り落とした三つ編みを掴んだままドアに向かい鍵を開けた瞬間、外側からドアが開かれた。
ドアの前で待ち構えていた父は、小言を言おうと口を開いたまま沈黙。目を白黒させている間に、その手に切り落とした髪を渡すと、私は床を蹴り全速力でその場を離脱した。
「セ、セリアルカーーーー!! なんてことをしたんだーーー!!」
父の悲鳴を背中に受けながら、階段を駆け降りて屋敷の裏口から外に出ると、ちょうど馬具をつけた馬が馬房にいたので拝借して背に跨った。雪のように白い背中を撫でると、ピンと立った耳がパタパタと動いた。
「帰ってきたところ悪いけど、一走りよろしくね!」
踵で腹を蹴ると、白馬は嘶いて駆け出した。馬房を出ると正門が閉められようとしているのが見えて、白馬は速度を上げた。正面玄関に降りてきたらしい父の悲痛な叫びが聞こえる。
「だ、誰かセラを止めてくれー!」
ごめんね父さん。セラに結婚は無理です。
閉まりかけた門の隙間を駆け抜ける瞬間、振り返ると、屋敷の前に横付けされた上等な馬車から、男が出てくるのが見えた。白金色の髪に白い肌、写真で見たよりもずっと…………
顔を上げたその目を見てはいけない気がして、私は慌てて前を向く。そのまま街道を抜けて街まで逃げ延びた。
それが、私が覚えているアイツとの出会い。……いやこれ、会ったと言えるんだろうか?
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