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***
結月は黒い廊下に立っていた。
見慣れたそこは、天方家の一階の廊下だ。玄関からまっすぐに伸びて、両側には居間や台所がある。
家の中は静まり返っていた。電灯はついておらず、昼間だと言うのにやけに暗い。玄関扉に嵌め込まれたガラスの窓から入る光の四角が、くっきりと闇に浮かんでいる。
いつか見たような光景だ。ぼんやりと光を見ていた結月は、はっと我に返った。
どうして自分はここにいるのだろう。確か、さっきまで二階にいたはずだ。そう、二階の……客間に。
脳裏に映像が浮かぶ。
白い花。白い蚊帳の中に横たわる閑子。
呪詛を掛けられた閑子を助ける手助けをと、涼と共に客間にいた。
そして閑子の手に触れた、そのあと、は――?
結月は閑子に触れた手を見下ろした。
指の先に、何か汚れのような物がぽつりと付いている。赤黒いそれを拭おうとしたが、消えるどころか汚れは広がり、どんどん色が濃くなっていく。
「な……」
じわじわと指先が赤黒く染まっていく。まるで虫が這うように、細い線となって手の甲を覆っていく。
「いやっ……!」
もう片方の手で払うものの、消えることは無い。
ああ、これは良くないものだ。
分かったところですでに遅く、手の部分を赤黒い文字がすっかりと覆っていた。腕の方へと少しずつ広がっていくそれを、結月は為す術もなく見つめることしかできなかった。
***
「――此く加加呑みてば気吹戸に坐す気吹戸主と云う神、根の国底の国に気吹放ちてむ、此く気吹き放ちてば根の国底の国に坐す速佐須良比売と云う神、持佐須良い失いてむ、此く佐須良い失いてば罪と云う罪は在らじと、祓い給い清め給う事を天つ神、国つ神、八百万神等共に聞こし食せと白す……」
長い大祓詞を唱え終わった涼の額には、うっすらと汗が滲んでいた。
大祓詞は、奏上すればあらゆる罪や穢れが祓われ、どんな悪いものも落とすことができると言われている、もっとも強力な言霊だ。
だが、見下ろした先の結月の手を見て、涼は眉根を寄せた。呪詛は消えることなく、気配は濃厚になっていくだけだ。
確かに、今まで閑子の呪詛を祓おうと祓詞は幾度も口にしたが、うまくいかなかった。結月の身体に移せばあるいは、と考えていたが……。
涼は、知っている神道系の祓詞――三種祓詞、伊吹法、呪詛返しの秘言を試すが、結果は変わらなかった。
……他にも試していくか。もしくは、呪詛の正体を見極める方がよいのか。
結月に呪詛を移した今、調べる時間は十分ある。涼は結月の向こうにある、閑子の身体を見やった。
痩せ細った死人のような身体。今度は、あそこに結月が寝ることになる。
これもまた、涼が考えていたことだった。呪詛を祓えなかった場合、閑子の身体を回復させるために、結月に呪詛を移して封じておく。その間に解決法を探すのだ。
非情な考えだとはわかっている。しかし閑子を助けるには、これしか――。涼が拳を強く握った時だ。
「――涼さん」
哀しい声が、襖の向こうからした。
***
「涼さん、もうやめてちょうだい。お願いよ」
閑子の声だ。
涼は少なからず動揺した。
――なぜ、閑子が。
涼は、祓いを始める前に閑子の霊体を眠らせて、一階のある場所に隠しておいた。二階の客間に近づけさせれば、呪詛の影響を受けてしまうからだ。
眠らせて封じておいたから、閑子が自力でここに来られるはずがない。だとしたら――
襖の方を呆然と見やる涼の耳に、閑子の切々とした声が届く。
「漣くんが私を見つけてくれたわ。そして、全部教えてくれたの。……私、何も知らずにいたのね。あなたにずっと、守られていたのね。ごめんなさい。あなたにすべてを背負わせて、気づけなくて、本当にごめんなさい」
「閑子……」
「お願いよ、涼さん。結月ちゃんを私の身代わりにするのはやめて。……大丈夫よ、きっと他に方法は見つかるわ。だからここを開けて」
「……駄目だ」
「涼さん!」
「私が、君を死なせたくないんだ。君に……生きて、側にいてほしいんだ……!」
「……」
涼の声は珍しく感情に揺れて、掠れていた。
閑子がはっと息を呑んだ。やがて、震える声が答える。
「私だって、死にたくはないわ。もっと、ずっと、しわくちゃのおばあちゃんになるまで、あなたの側にいたいわ。……でもね、涼さん。たとえ生きていても、悲しい思いを抱えたまま、あなたの側にいたくないの。結月ちゃんを犠牲にして助かったって、そんなのちっとも嬉しくないわ!!」
ドンッ、と襖が鳴る。母さん、と漣が宥める声が聞こえてきた。
結界を破ろうとしているのか。弱った身体から切り離された霊体で、無謀なことだ。下手すると霊体ごと掻き消えてしまう。
「閑子、やめなさい」
「やめるもんですか! 涼さんのわからず屋! おたんこなすっ!! もうっ……一人で何でもかんでも背負って終わらせないで! 少しは私と漣くんを信用なさいっ」
ドンッ、とまた襖が鳴った。
びしりと一番外側の結界に罅が入るのが分かる。これ以上は、閑子の霊体に影響が出る。涼は咄嗟に結界を解いた。
直後、襖がばんっと開く。そこには、怒り顔の閑子と漣が立っていた。
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