242人が本棚に入れています
本棚に追加
/93ページ
依坐は、神霊の依り代となる人間のことをいう。たいていは子供や女性が用いられ、神霊を乗り移らせて託宣を述べさせたりするものだ。
だが、ここで涼がいう依坐は、祓いの儀式に用いるものだった。依り代になる人間は、神霊が依りつきやすい性質を持つ。それを利用して、悪霊や穢れを一時的に「つける」……元々憑かれている人間から霊を移すのだ。そうして依坐の身体に移した後で、悪霊調伏、祓いを行う。
涼は、閑子に懸けられた呪詛を、穢れを結月に移したのだ。
「結月くんは梓巫女の家系だそうだよ。これ以上ないほど適している人間だ」
「だからって、そんな危険なことを……」
いくら巫女の血筋とはいえ、穢れをその身に引き受けるなんて危険だ。死に至る可能性もある。
睨む漣に、涼は苦い笑みを見せた。
「いろいろ試したんだよ。閑子の呪いを浄化できないかと、より清められた紙で力を込めた護花を大量に作った。別の物に移せないかと、強力な人形を幾つも作った。……けれど、駄目だった。全て壊れてしまったんだ。ならば、もっと大きな器を、耐えられる器を用意しなくては」
訥々と涼は語る。
「この二か月、結月くんを観察してきた。彼女は優秀な霊媒だ。一度、言伝で彼女の身体を使わせてもらったが、操りやすい反面、自我が残っていた。これは珍しいことだ。元々、彼女自身の力が強いのだろうね。その割に、力の使い方を知らないようだ」
「だから父さんが使うって言うのか。彼女の許可なしに、勝手に……」
「勘違いしないでくれるかな。結月くんの方から協力を申し出てきたんだよ。閑子の役に立ちたい、助けたい、とね。彼女の思いを無下にしろと?」
涼の反論に、漣はぎりっと拳を強く握った。
確かに、結月は漣に対しても言っていた。
『閑子様に、何かあったのですか?』
『何か、私にできることがあれば――』
閑子を慕う結月が、閑子を助けるためにと動くのは分かる。だが――
「……父さんが、そう仕向けたんじゃないのか? 母さんのことを教えれば、結月さんがそう言いだすと分かっていて、あえて教えたんでしょう?」
「……」
涼はわずかに目を眇めた後、すました顔で頷いた。
「ああ、そうだね」
あっさりと涼は肯定する。その余裕の態度が――結月を騙して利用しようとする父が、漣は許せなかった。
「こんなこと……彼女に何かあったら、母さんが悲しむだけだ! 助かったところで、母さんが喜ぶとでも思っているの!? 結月さんを傷付けて、母さんに恨まれても、それでも父さんは――」
「わかっているよ。けれど……それでも私は、閑子を死なせたくない」
すうっと涼の表情が変わる。切れ長の目に冷たい光が宿った。
「話は終わりだ、漣。邪魔をするなら、お前でも容赦はしない」
「っ……」
びりびりと肌に伝わってくる霊気。自分よりもはるかに強い力に漣の肌は粟立ち、足が竦んだ。
その一瞬の隙を突かれた。
突然宙に現れた白い梟が、ばさっと大きな羽を広げて、漣めがけて勢いよく飛んでくる。鋭い爪が眼前に迫り、避けるために漣が一歩下がった途端、目の前の襖が音を立てて閉まった。
涼と結月の姿が、白い襖の向こうに消える。
「なっ……」
急いで取っ手に手を掛けて引っ張るも、襖はびくともしなかった。押してみても、蹴破ろうとしても、まるで岩戸のように固く閉ざされている。
「くそっ……父さん!」
だんっ、と襖を殴りつけて怒鳴るが、返事は無い。
廊下に降り立った白い梟が、金色の目で漣を見やる。
『漣殿、無駄ですよ。すでに結界は張られました。あなたの力では敵いません。大人しく引き下がりなさい』
梟――涼の式神からの忠告に、漣の式神である二号や三号がぶわりと羽を膨らませて殺気立つ。
『貴様、よくも偉そうに……!』
『ええい! 漣様、ここは儂にお任せを! 我が命懸けてでも破ってみせますぞ!!』
「っ……それは駄目だ」
今にも襖に突っ込みそうな三号を、漣は我に返って押さえた。……逸る式神たちのおかげで、少し頭が冷えた。
たしかに、梟の言う通りだ。父に敵わないことは、漣だってわかっている。自らの力を技を使ったところで、結界は破れないだろう。ならば――
漣は無言で身を翻した。漣様、と二号が困惑したように見上げてくる。
「……」
今までずっと、涼のやることが最善だと思っていたから、言うことを聞いていた。反発心はあったものの、それでも漣は心のどこかで父を信頼して……いや、父に責任を負わせていただけだ。
自分が子供だと甘えがあった。父に任せればいいと楽観できたのは、責任を負わなくてよかったからだ。
けれど、今回はさすがに見過ごせない。大人しく引き下がることなどできるか。
結界が破れないのなら、別の方法で開けるまで――。
漣は閉じた襖を一瞥して、急ぎ足で階下に降りた。
「……そうか。意外にあっさり引き下がったな」
結界の外にいる梟から、漣が客間から離れたと報告を受けて、涼は一人呟いた。
淡泊に見えて、負けん気の強い息子。簡単に諦める子ではないと思っていたが……。
まあ、いい。ひとまず時間は稼げた。結界を破るにしても、何重にも張ったものを突破してこちら側に来るには時間が掛かる。その間にすべて終わらせてしまえばいい。
「もし漣が戻ってきたら、足止めしておいてくれ」
梟にそれだけ伝えると、涼は目の前に横たわった結月を見下ろす。
胸の上で組まれた彼女の右手には、赤黒い文字が浮かんでいる。閑子の依坐となった今、結月の中で呪詛の広がりつつあるのだ。
健康体であり、かつ霊力のある結月であれば、閑子よりも進行は遅いだろう。広がりきる前に祓わねば――。
『彼女に何かあったら、母さんが悲しむだけだ!』
『母さんに恨まれても――』
「……わかっているよ、漣」
結月を騙して利用した。
霊の記憶を見ることのできる結月の考えていた方法と、涼の考えていた方法は違う。涼にとって、結月はただの受け皿でしかなかった。……その方法を言えば、結月が怯むと思ったから。呪詛の受け皿になど、誰もなりたくないだろう。だから、結月が自主的に閑子に触れるように誘導したのだ。
涼の目論見など知らずに、結月は見事に依坐となってくれた。
……結月を利用したことを知れば、きっと閑子は傷つく。
だが、恨まれても憎まれても構わない。結月にも――閑子にも。
これは自身の望みだ。ただ、閑子を元に戻したいと、その望みのために。
「……」
涼は深呼吸して精神を統一すると、榊の枝を手に取った。すっと息を吸い込んだ後、祓詞を口にする。
「掛けまくも畏き伊邪那岐大神の日向の橘の小戸の阿波岐原に御禊祓え給いし……」
厳かな響きの言葉が室内に響く中、結月の指先が小さく動いたことに涼は気づくことは無かった。
最初のコメントを投稿しよう!