序話

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序話

結月(ゆづき)、今月中に(うち)から出て行っておくれ」  目の前に座った奥様は、厳しい顔で告げた。  結月は、特に驚きはしなかった。きっと言われるだろうと予測していたからだ。  恨みは無い。むしろ、血の繋がりも何もない自分を引き取り養ってくれたことに感謝している。  旅芸人のように各地を転々としていた母が亡くなった後、身寄りのない九歳の結月を引き取ってくれたのが、野宮(のみや)家の旦那様だった。野宮家は、たまたま滞在していた村の有力者であった。  赤の他人である結月を小学校に通わせてくれて、卒業後は女中として家に置いてくれた。かれこれ七年も世話になったのに、恨むはずなど無い。  もっとも、本音を言えば結月は野宮家……この村で静かに生きていければと思っていた。  しかし、その状況が変わったのが二週間前だ。  春の休暇で帰ってきた、野宮家の長男である秀一が、結月に告白をしてきたのだ。  秀一は野宮家の跡取りであり、結月より三つ年上の青年だ。今春、無事に高等学校を卒業した優秀な若者である。すでに東北帝大への進学が決まり、野宮家の、否、我が村の(ほまれ)と評判だ。  告白されて驚いたのは、当の本人である結月だった。  秀一とは、決して相思相愛の仲というわけではない。  野宮家に引き取ってもらってすぐの頃は、歳が近かったこともあって、話し相手を務めていた。その後、秀一が高等学校の寮に入ってからは疎遠になりつつも、帰省の折に特別に土産をもらったりと、親切にされることは度々あった。他の使用人たちに比べれば、仲の良い方ではあったのだろう。  結月自身、優しい彼に好意は抱いていたものの、頼れる兄のように思っていただけだ。決して恋慕の情ではなかった。  秀一に告白されたとき、結月はもちろん断った。仕えている野宮家の大事な跡取りだ。身分は(わきま)えている。  しかし秀一は諦めなかった。両親に『大学を卒業したら、結月を(めと)娶りたい』と宣言したらしい。  自慢の息子が、使用人――しかもどこの生まれとも知れぬ娘に懸想していると知った旦那様と奥様は、慌てて秀一を窘めた。  そうして秀一が諦めないと知るや、結月にお鉢が回ってきたわけだ。   「あの子は頑固だから、こうでもしないと……お前には、本当に悪いと思うけれども」  眉を顰めて嘆息する奥様は、小さな巾着袋と薄い封筒を差し出してくる。 「今月分の給金と、東京までの交通費だよ。都会に出れば、こんな田舎よりよほど働く場所はあるだろうからね。紹介状も書いておいたから」 「ありがとうございます」  結月は礼を言って、受け取った。さほど中身は多くないのに、ずしりと重たく感じるのは、過ごしてきた土地を離れる寂しさと、見えない行く先への不安のせいだろう。  口を引き結び目線を落とす結月に、奥様は謝ってくる。 「すまないね、結月」 「そんな、奥様。この度はご迷惑をおかけして申し訳ございません。ここまでして頂いたこと、本当に感謝しております」  本来であれば、罵倒されて着の身着のまま放り出されても仕方ない。身寄りのない使用人の行く先を気にかけてくれたことだけでも有難いことだ。  首を横に振る結月に、奥様はどこかほっとした色を目に浮かべた。  大事な跡取りの憂いごとが無くなったからか。それとも―― 『あの子、何だか気味が悪いんだもの。何もないところを見つめてたり、急に青ざめたりしてさ』 『イチコだったかイタコだったか、あの旅回りの母親譲りなんだよ』 『よく働くし、悪い子じゃないんだけどねぇ……厄介者を引き取って、奥様も大変だねぇ』  結月のいないところで、女中仲間が交わしていた会話が脳裏によみがえる。  ……秀一のことが無くとも、きっといつかは、この家を出されていただろう。己が持つ、他の人には無い奇妙な力のせいで。  結月は畳に両手をついて、深く頭を下げた。肩から落ちた二つのおさげが、畳に付く。 「……長い間、お世話になりました」  結月は、奥様の視線と、その後ろに佇むずぶ濡れの若い女性――旦那様の妾で十年前に亡くなった死者の虚ろな視線を感じながら、別れの挨拶を告げた。
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