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康孝も起きたことだし米も炊けた。サチはマグを手にソファーから立ち上がるとキッチンに向かい、まずは飲み終わったマグを洗って片付ける。
炊飯器を開けると炊き立てのなんとも言えない良い香りが立ち昇る。備え付けのしゃもじで、ザッと掻き回すと蓋を閉じて再び蒸らす。
冷蔵庫からジッパー付きの袋を取り出すと、中身の野菜が程よくしんなりしている。袋を開け、菜箸でキャベツを一切れ取り出して味見する。
「ん。浅漬けいっちょ上がり」
もう少し味を馴染ませたいので、袋は冷蔵庫に戻す。
時短のため、鍋に湯を貯めて火にかける。冷蔵庫から味噌と油揚げ、乾燥ワカメを取り出して味噌汁を作る準備をする。
油揚げを刻んでいると、髪型と髭を整えた康孝がバスルームから戻ってきた。
「なに、味噌汁まであるの」
「もしかして朝はあんまり食べないかな」
「いつもは手抜きしたいだけで、本当はしっかり食べたい方だよ」
「良かった」
笑顔を見せると、康孝はうっと唸って背後からサチを抱きしめる。
「可愛いー。仕事休みたーい。入れたーい」
「最初以外聞き捨てならないんだけど」
危ないから離れるように言うと、康孝は笑いながら腕を離し、シンクに体重を預けてサチの顔を覗き見る。
「可愛いは許してくれるんだ」
「それまで否定したら泣きそうだからね。面倒臭いし」
「うわ、言うね」
面白そうに笑うと、お碗は無いからスープ皿で良いかなと食器棚を開ける。
「助かります」
「うん。なんか凄い豪華だね」
「断りもなく結構材料使っちゃってごめんね」
「良いよ。愛のこもった手料理だからね」
「言葉が重たい」
「図星で照れてるのかな?」
照れ隠しにサチは康孝の足を蹴る。
「痛い……」
「自業自得です。さて、ご飯は白米でそのままが良いか、それともおにぎりが良い?」
そもそも何時に出るのか康孝に尋ねると、康孝は一瞬不思議そうな顔をして、ああ。と独りごちる。
「ん?なんか変なこと言ったっけ」
「いや、昨日の状況で多分気付かない方が普通だよ」
「どう云う意味?」
味噌汁の味を整えながら康孝の方を見る。一方彼は卵焼きのラップを外して摘み食いをしている。
「カフェの場所も記憶あやふやでしょ」
「え?うん……まあ、ハローワークの近所だったのは分かるけど」
サチの返答にハローワーク?と首を傾げながらも、カフェはうちのすぐ裏の路地にあるよと康孝が返す。
「え!そんなに近いの?」
「カフェ側から回って帰ってきたけど、サチは気が付かなかったみたいだね」
「あんな状況下で、周りまでよく観察出来ないよ」
卵焼きを摘み食いした指を舐めると、そりゃそうだよと康孝はシンクでその手を濯いだ。
「だからまだ時間の余裕はあるんだ。それに今日はオーナーが朝から居るからね」
「オーナー……あ、もしかして叔父様?」
「そう。あれ?俺言ったっけ」
「違う。サイン会の時に北条さんが弟の店だ!って嬉しそうにしてたから」
「あぁ、そういうことか」
妙に納得したように頷くと、せっかくだからおにぎりにしてくれる?と康孝はご飯はボウルに移したほうがいいか聞いてくる。
「そうして。ねえ海苔はある?」
ボウルに移して貰う間に、冷蔵庫を開けて浅漬けに手を伸ばす。すると後ろから抱きつくように冷蔵庫を覗くと、康孝はその長い腕をのばして海苔を取り出す。
「はい。これ使って」
「本当に嫌なくらいなんでも揃ってるね」
「可愛いヤキモチと思って良いのかな」
ご機嫌な康孝とは違い、サチは真顔になって眉を潜めると冷たい氷のような尖がった声を出す。
「万札置いて行っても良いんだよ?」
「なんで!」
「男の一人暮らしにしては揃いすぎなのよ」
調味料もそうだけど、お皿の数とか!そう言ってまだ冷たい視線のままで康孝を睨む。
「ごめん。悪気はなかったんだけど言い忘れてて。実はもう一人家に出入りしてるマダムがいるんだ」
「あら、おかあさまだけだって言い張ってたのに今更白々しいわね」
冷蔵庫からまだ使いたい食材を取り出すと音が鳴る勢いでその扉を閉める。
「マダム紀子だよ。俺の叔母さん」
「は?」
「だから育ての母親だよ」
母に変わりはないだろ?と康孝が味噌汁を味見して美味しいねと笑う。
「叔母様もいらっしゃるの?この家に」
「そうだね。カフェが忙しいと、叔父なんかは自宅よりこっちが近いから泊まることもある。叔母は特に、俺の食事が偏らないようにたまにタッパーでおかずを持ってくるし、代わりに買い物に行ったり、ネットスーパーを手配してくれるんだよ」
冷蔵庫に青い蓋のタッパーがなかった?と苦笑いして康孝は話を続ける。
「叔父夫婦には子供が居ないからね。未だに凄く良くしてくるんだよ」
そう言って引き出しからビニール手袋を手渡してくる。
「それが口から出任せだったら、オスカー像を用意しなくちゃね」
「さすがにそんな嘘をつくほど子供じゃないよ。サチは疑り深いな」
「さっき由梨のことオトコじゃないかって言った罰です」
「え?ああ、メッセージのことかな」
ごめんごめんと康孝が笑うと、サチも仕方がないねと笑った。
それからは二人でおにぎりを作る。具はサチが用意した浅漬けにする。キャベツと人参と茄子を入れたので具としては充分だろう。
「おにぎりの中に入れるなら少し刻む?」
「そうだね」
ポリポリと味見ばかりする康孝の手を叩くと、ボウルに移したご飯に、炒りごまと鰹節を混ぜ込んだら少しのごま油と醤油を垂らすように伝えて手伝わせる。
そこから二人で浅漬けを具にしたおにぎりを何個か作る。
「余ったやつは冷凍して、お醤油を塗って焼けば焼きおにぎりになるし、レンジで温めてからお出汁を掛ければお茶漬けにもなるからね」
これはサチが家でよくやる手法だ。一人暮らしで、しかも仕事で料理をするため、家に帰ってまで細やかな手の込んだ調理をしたくない。休みの日にまとめてストック出来る料理をドサっと作ってあとはチンするだけ。
「凄いね。めっちゃお腹空いてきたよ」
手袋を外して手を洗うと、卵焼きはどうするの?とサチの顔を覗き込む。
「すっかり冷めちゃったからレンジで温め直そうか」
「了解」
おにぎりが大量に乗った皿をリビングまで運ぶ。握ってる間に質問されなかったので、康孝はしっとりしてるよりパリッとした海苔が好きなのかもしれない。
キッチンに戻ると、康孝はティーパックを引っ掛けた氷入りのタンブラーに電子ポットからお湯を注いでいる。
「簡単で悪いけど、ほうじ茶で良いかな」
「ありがとう。ていうかそこにあったんだね!さっき紅茶入れるのにケトル借りたよ」
「手前にミキサー置いてるから気付かなくても仕方ないよ」
会話を交わすと、サチは既にスープ皿に盛り付けられた味噌汁をリビングに運ぶ。
卵焼きを取りに再びキッチンに戻ると、康孝がまた一切れ摘み食いをしていた。
「ご飯の前に無くなっちゃうよ」
困った顔で笑うと、だって美味しいからと悪びれる様子もなく康孝が呟いた。
いくらか数が減った卵焼きと、硬めに絞った台拭きを持つと、サチはリビングにそれらを運び、ソファーに座った。
後から追い掛けるようにタンブラーを二つ持った康孝が隣に腰掛ける。
「じゃあ、食べようか」
「ん。いただきます」
「いただきます」
思った通り、康孝はおにぎりの横に用意していた海苔を巻いてかぶりついた。
「浅漬けがさっぱりしてたから、このごま油と醤油が香ばしくて、鰹節も噛むほど香りが広がって、これ美味しいね」
「即席にしては良くできた」
「味噌汁も美味しい」
小ぶりなスープ皿を器用に片手で持って味噌汁を飲むと、康孝は満足そうにサチに寄り掛かる。
「昨日味は濃い目が好きって言ってたから。あんまり身体には良くないけど、お味噌多めに溶いた」
「お、さっそく対応してくれてんだ」
「今度があればだけど、その時は私の味で作るから」
「ないみたいに言わないの」
指でピンとサチのおでこを弾くと、ネガティブ禁止と康孝が釘を刺した。
「痛いな」
「お仕置きだから当たり前」
康孝はそう言うと二つ目のおにぎりに手を伸ばした。
まだ痛みの残るおでこをさすりながら、サチはおにぎりを一旦置いて、味噌汁に口をつける。なるほど味見でちょうどいいかと思ったが、これはかなり味が濃い。
そしてお箸を手に取ると、康孝が何度も摘み食いした卵焼きを頬張る。
「んー。我ながら美味しい」
「でしょ」
「何で得意げなの」
散々食べたからねと開き直る康孝に、なんだそれと笑うと、そんなサチを彼は愛おしそうに眺めて頭を撫でる。
「ところでサチは今日もお休みだよね。予定はあるの?」
「北条さん……ややこしいな。おとうさまの新刊を早く読みたい。あ、でも今日は天気がいいから布団も干したいし洗濯物も溜まってるから家に帰る」
「やっぱり帰っちゃうのか」
急に肩を落として元気がなくなった様子を見て、悩ましい気持ちにさせられたが、布団も長いこと干していないし、洗濯物が溜まってるのも事実。部屋の掃除もしたかった。
「迷惑でなければ明日も休みの予定だからカフェに行こうか?美味しかったし、また食べたいし」
「片付け終わってから今日も来て、カフェで本読めば良いんじゃない?」
康孝は事もなげに言うが、サチは今日はダメと言い切る。
「由梨……さっきのメッセージの友達だけど、今日都合がいいみたいだし、久々に話したいから家に行ってくる」
子供がまだ小さいからタイミングが合わなくてと、スマホをタップして返って来たメッセージを見せると、なぜか康孝は顔をしかめてサチを見る。
「え、なに?」
「健ちゃんって誰」
「はぁ……健次郎は由梨の旦那。由梨も健次郎も昔うちの店で働いてたバイト仲間。で、由梨が恋焦がれた健次郎との仲を取り持ったのが私」
面倒臭いなと呟きながらも康孝に関係性を説明する。
「それ、俺も行きたい」
「うっ!?」
突然の言葉に、おにぎにりを頬張ったままだったサチは咽せて吹き出す。
「なんでそんな驚くの」
「……いやいやいや、急におかしいでしょ」
タンブラーを康孝から受け取って、冷えたほうじ茶を流し込むと、サチは顔をしかめて話を続ける。
「付き合ったばっかりの彼氏。しかも仕事を早く上がらせるか休ませて、友達の家に連れて行くって、それ何足飛びなの」
「やっと彼氏と言ってくれたのは別として、別に良くない?俺の事隠したいの?」
「順序ってあるじゃん」
尚も喰いついて来る康孝に、サチは頭を抱えて返事がおざなりになる。
その様子が不服なのか、不機嫌そうに、サチだって親父に会ったじゃないかと呟いて、紹介くらいしてくれてもいいじゃんとまだ言い続ける。
「あのね……会ったも何もただサイン会に行って、ファンとして会話しただけでしょ?しかも康孝さんと付き合うとかそんな話してないし!それにさっきも言ったけど、由梨んところはまだ子供も小さいし、客が増えたら支度も増えて大変でしょ。それくらいの常識はあるでしょう」
「じゃあ、いつ紹介してくれるの」
「なに、そんなねちっこい性格なの?」
「分かんないけどサチがそうさせる」
おにぎりをもぐもぐ食べながら、康孝は至って真面目な表情を崩さない。
「まあ、由梨のことだから話せば会いたがるだろうし近いうちに会えると思うよ」
「健次郎くんもね」
「なんで健次郎まで!」
「予防線」
「バカじゃないの……」
コレが恋のなせるわざなら疲れてしまう。サチは頭を抱えたまま溜め息を吐き出す。
「サチも俺に女の影が見えたら同じ気分になるはず」
康孝の何気ない一言に、なんだか心を抉られたような気持ちになる。
「……そんな女性がいるってこと?」
「知っての通り義理の妹ならいるけど、従姉妹や幼馴染みはいない。カフェの常連さんはあくまでお客様だし」
「そのお客様にこうして手を出した人に言われてもね」
「サチは特別だから」
「信憑性のなさが酷い」
文字通り頭を抱え込んでしまったサチに、康孝は少し反省したのか、せっかくの料理が冷めると言って顔を上げさせると、箸に取った卵焼きをその口に放り込んだ。
「自分もそんなに寝てないのに、こんな美味しいご飯まで作ってくれる自慢の彼女だよ」
だから特別。康孝はそう言うが、それだと飯炊き女のようではないか。
「……ご飯だけが売りみたいに」
「サチ自身も格別に美味しいとか言うと怒るんでしょ」
「当たり前でしょ!」
音が鳴るほど康孝の頭を叩くと、サチは諦めたように箸を取って朝食を再開する。
「痛い……」
恨めしそうだが、どこか嬉しそうに笑うと、康孝も黙ってご飯を食べる。
「今日は無理でも明日カフェにおいでよ」
「だから、そうしようかなってさっき言ったでしょ」
「ごめんごめん。大人気なかった」
そう返事すると、健次郎くんは由梨ちゃんの旦那さん。健次郎くんは由梨ちゃんの旦那さんと念仏のように康孝は繰り返す。
「声に出ちゃってるからね」
「おっと、失礼」
わざとらしく口元に手をやると戯けた顔を見せて笑うので、サチは色々とばかばかしくなって一緒に笑った。
そんなどうでもいいくだらない会話を楽しみながら朝食を終える。
「ご馳走様でした」
案の定残ったおにぎりをキッチンに下げると、一つ一つをラップに包んで冷凍庫に入れる。その間、康孝は使った食器を洗っていた。
「彼氏が出来たことはちゃんと話すよね」
「またその話?」
「え、俺って遊ばれたの」
わざとらしくオーバーリアクションで驚く康孝を鬱陶しいと思いつつも、どこかむず痒い恥ずかしさも覚えてしまうのは彼が好きだからだろう。
「万札なかったでしょ、サイドテールに」
「置かれないように尽くさないとダメってことね」
「いや。置くの前提なのやめてくれる?」
そうやって笑い合ってリビングに戻る。
ソファーに座ってお茶を飲みながら、付けっぱなしだったテレビで時間を確認すると、もう九時前だ。
「康孝さん何時に出るの?」
「九時半くらいかな」
オープンは十時だけど仕込みは叔父が済ませてるからと、身体を伸ばしてのんびり答える。
「なら一緒に出るから着替えるね」
寝室借りるからと、一旦バスルームへ向かって乾燥機で乾いた下着を手に取ると、着替えは覗かないように釘を刺してサチはベッドルームに入った。
まずは借りた洋服を脱いで下着を取り替える。着物の上に垂れ掛けさせていた襦袢を羽織ると身幅に合わせて腰紐を結えて整える。
この部屋には姿見が無いので、サチは上から着物を羽織ると、帯や帯留め、それから借りた洋服を持ってバスルームへ向かう。
まずは借りた洋服を洗濯機に放り込むと、バスルームにあった洗濯バサミを借りて、襟足と合わせ部分を留め、鏡を見ながら着物を着て腰紐を結ぶ。合わせ部分の洗濯バサミを外し、伊達締めを締めると帯はお太鼓に結び、帯留めを整えて取り忘れていた襟足の洗濯バサミを外した。
「サチ〜、そろそろ出るよ?」
丁度着終わったタイミングで康孝がバスルームに顔を出す。
「おぉ、やっぱり可愛い!ヤバいっ。仕事行きたくなーい」
そのまま洗面所の中まで入って来ると、康孝は親父より先に俺が褒めたかったとサチをホールドして離さない。
「私のせいで仕事が出来なくなるようじゃ話にならないよ」
「本当に仕事行きたくない」
ワガママを言う康孝の頭をポンポンと撫でると、落ち着いてとサチが制する。
グレーのジャケットを羽織っては居るが、ボタンダウンと黒のスラックス姿は、カフェで見たのと同じ雰囲気だ。
「それ制服?」
「制服代わりだね。オーナーにはもっとラフで良いって言われてるけど」
初めて会った日思い出した?とサチを抱きしめる腕を弱める事なく康孝が答える。
「ストイックな感じで良いよね。中身がそうかは別として」
鏡越しに冷めた目で康孝を見つめると、溜め息を吐き出しながら吐露した。
「良いんだよ。サチの前だけだから」
ペロッと舌を出して悪びれる様子もなく康孝は笑った。
ドアのロックを掛けてからも、康孝はサチを家まで送りたいと言ったが、丁重にそれを断った。
カフェが家の裏手なら、ハローワークが目印になる。サチの自宅の最寄り駅は隣の駅なので、マップアプリのナビを使えば電車に乗らなくても帰れる距離だ。
散歩を楽しむようにカフェまで手を繋いで、近所の説明を聞きながら二人で並んで歩くのは楽しかった。
「連絡先も交換したことだし、明日来なかったら俺、怒るよ」
「大丈夫だってば。今日、由梨ん家行ってすぐ連絡するから」
「健次郎は本当に大丈夫なの?」
腹の中ではしつこいと嘆くものの、顔には出さずにサチは笑顔で返す。
「健次郎相手とか気色の悪い想像させないで。それに由梨は三人めを授かったらしいから、その心配は千パー有り得ない」
通勤がてらの散歩道で、由梨から届いたメッセージ内容まで見せながら話す。
「その内、本当にちゃんと紹介してね」
「ヤキモチ拗らせて健次郎刺さないならね」
「サチが大切にしてる人を刺したりしないよ……」
その真顔が一瞬怖いものに見えるが、気にしないことにして話を逸らした。
「さ。今日も営業スマイル全開でお客様の心を掴んで来るんだよ!」
頬に指を添えると、口角を上げて笑顔にさせる。
「俺の彼女はつれないな。他の女の子に媚を売れって突き放すなんて」
「私を好きなら心配無用でしょ」
「随分な自信だけど否定は出来ないな」
そう言って笑うとサチにキスをして気を付けて帰るように名残惜しそうな顔をする。
離れがたいのはサチも同じだが、仕事の支障を来す原因になるのも複雑な気分だ。
「分かったから。明日も叔父様いらっしゃるんでしょう?その時にちゃんとご挨拶するから」
「俺、今日使い物にならないかも」
「あ、また下ネタ言いそう。やめてよ?」
「サチは俺の扱いが上手いね」
「有難いことに分かりやすいからね!」
くだらない会話もそこそにカフェの目の前に着いたので、手をしっかり握ると、頑張ってねと送り出す。
「んじゃ、行ってきます」
バイバイと手を振ると、康孝が店内に入るのを確認してから駅に向かって歩き出した。
「確かこの公園を抜けるとハローワークだった気がするんだけど……」
マップのナビは使わずに、散歩感覚で景色を楽しみながらカフェからの道のりを歩く。
見覚えのある建物が見えてきたので安心すると、暫くハローワークにも顔を出していないことを思い出してサチは独りごちる。
「……仕事、いつまでこの調子なんだろう」
ハローワークを過ぎると、地域では名の知れた銀杏並木の遊歩道に出る。ここまで来れば駅までは一本道だ。
重たい荷物を利き手に持ち替えると、怒涛の勢いで過ぎ去った時間を振り返る。
「これが好きであってるのかな?」
頭を抱えながらも、康孝の色んな表情や言動を思い出すと自然に笑みが溢れる。
ただ言えることは、今までにこんなに他人を思って一喜一憂したことがないということで、間違いなくサチの中で大きな変化が起きている。
見えてきた駅は、ラッシュの時間を外れたためか閑散としている。
鞄からICカードを取り出すと、改札を抜けてエスカレーターでホームに向かう。
電車を待つ間、スマホを取り出してメッセージアプリをタップすると、由梨に改めて連絡を入れる。
内容は第一に紹介したい人ができたこと。第二に、それに関して事前に色々相談したいこと。第三になってしまったが、三人目おめでとうと打ってスタンプを送る。
そこまでを打ち込むとタイミングよく電車到着のアナウンスが流れたのでサチはスマホを鞄にしまった。
見慣れた青い車体がホームに到着すると、閑散とした車内に乗り込み、ドアの脇に立って手摺りに手を添える。
充分座れる状態だが、どうせ次で降りるので問題はない。
動き出した車窓から街を眺めると、職場よりも近くに康孝が住んでいたことに改めて妙な気分になる。
―――ずっと忙しかったからな。
今の店舗に配属される前は、この路線の反対方面に通っていた。
異動の際に転居も考えたが、会社補填が少ないことと、自転車で通える範囲なのを鑑みて引越しはしなかった。
けれど正直、仕事が忙し過ぎて家の近所で行くところといえばスーパーかコンビニくらいなもので、休みの日は必要最低限の家事だけ済ませて家にこもっているのがほとんどなのだ。
―――八年も住んでるのにな。
まもなく到着した駅でサチは電車から降りると、短く溜め息を吐き出して帰路に着いた。
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