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サチの住むマンションはオートロックこそないが、分譲と賃貸が入り混じり、管理人が常駐している築三十年の五階建て物件だ。
低階層は賃貸が殆どで、リノベーションされた間取りも単身向けの造りになっている。
エレベーターを使わずに階段で二階に上がると、自室の鍵を開けて中に入った。
「はあ……ただいま」
体力には自信のあるサチもさすがにくたびれた。
玄関を抜けるとすぐにキッチンとダイニングスペースがあり、キッチン脇の左手にトイレと洗濯機置き場、洗面台に風呂場がある。そしてダイニングの奥には左右に六畳と八畳のフローリングの部屋がある。
まず寝室に向かうと、ベッドのシーツ、掛け布団と枕のカバーを剥がす。
それが終わると着物を脱いで、シワにならないようにすぐにハンガーにかけて窓際に引っ掛ける。
襦袢姿のままチェストから下着と着替えを取り出すと、剥がしたカバーやシーツを持って風呂場に向かう。
下着は康孝の家で洗って貰ったが、一度着けたので改めてネットに入れ、襦袢やシーツも併せて洗濯機に放り込むと、洗剤などを測り入れて洗濯スタートのボタンを押した。
風呂場で熱いシャワーを浴びて、頭や身体をキレイに洗う。なんだかんだ言っても、やはり自宅は落ち着く。
風呂から出ると、用意したTシャツとジャージに着替えてから化粧水でサッと顔を撫で、髪をドライヤーで乾かしてから歯を磨く。
それらを終えると、タイミング良く洗濯機がピピッと電子音を立てて終了を知らせる。
洗濯カゴに洗濯物を移すと、リビングからベランダに出て、手際よくシワを伸ばしながらそれらを干していく。
洗濯物を全て干し終えたら、今度はまた寝室へ向かい、まずは着物を外に干す。
そして掛け布団をリビング側の柵に掛けてクリップで固定すると、次にマットレスを寝室側に設置した小さな物干し台に乗せて天日干しにすると、埃を払うように叩いた。
「本当に、いい天気だな」
空を見上げて呟くと、部屋に入り網戸とレースのカーテンを閉め、押し入れから掃除機を取り出した。
寝室からリビング、ダイニングと順番に掃除機をかけてから、手早くフロアモップで拭き掃除を済ませる。
「ここまできっちり掃除するのも久々だな」
普段は仕事が忙しいのでフロアモップやコロコロだけで済ませることが多い。
洗濯と掃除を終えると、今度はトイレと風呂場の掃除に取り掛かる。こういうことは手が空いてる時にしか、しっかりと出来ないからだ。
一通りの掃除を済ませると、持ち帰った荷物のことを思い出し、北条の新刊だけを除けて、他はとりあえず本棚に入れ込む。
鞄の中からスマホを取り出すと、本とスマホをダイニングテーブルに置き、冷蔵庫からお茶を出してグラスに注ぐ。本とスマホ、ペットボトルとグラスを器用に持ってリビングに向かう。
リビングには二人掛けのソファーと小さな丸テーブルが置かれている。そこに持ってきた物を全て置くと、ようやくひと心地つく。
「あー、疲れた!」
思わず大きな声でそう吐き出してソファーにもたれると、冷えたお茶を手に取り喉を鳴らして一気に飲んだ。
「生き返るぅー」
風通しのために窓を開けているので、心地好い風が部屋の中を通り抜ける。
スマホを充電するとコンポとワイヤレスで繋ぎ、スマホの音楽アプリを起動して好きなプレイリストを再生して北条の新刊を手に取る。
表紙を捲ると、鞍馬サチ様へと自分の名前が書かれているのがなんだか不思議な気分だ。今までも何度かサイン会には足を運んでいるが、宛名を書いて欲しいとリクエストをしたことはなかった。
「まさか名前と顔を覚えて貰っているとは」
嬉しさを噛みしめつつ、ページを捲る手を早めた。
窓から風が吹き抜ける度、干した洗濯物から柔軟剤の香りがしてくる。
―――そう、これだ。
サチの休みの過ごし方といえば、こんな風に一人でまったりと過ごすのが当たり前のはずだった。
しかも今日はやっと取れた振休で、久々のまとまった休みの中日だ。
けれど昨日の騒動で、夕方と明日の予定が確定してしまっているではないか。
―――この自堕落に慣れた身体にはハード過ぎる。
そんなことを考え始めてしまい、本を読む手が止まってしまう。
「とにかく仕事をどうにかしないと……康孝さんに会うのがストレスになりそうで怖い」
実際、本当にそうだと思う。無理やり調整して休みを合わせたとしても、慌ただしくその貴重な一日が潰れそうだし、かと言って休みを合わせなければ、会うこともままならず、不満や不安が募るだろう。
始める前から考え過ぎて、石橋を叩き過ぎだとか、机上の空論だとは思う。
けれど物理的に無理が生じるのは予測ができた。
「好きって色々大変だな……ていうか、前まで人とどうやって付き合ってたっけ?どうやって時間作ってたんだろう」
記憶の糸を手繰り寄せてみるが、もとより淡白なので、ほとんど相手の都合には合わせずに自分の都合で振り回していたことに気付く。
「そっか……」
実際どこかで好きと言われたから相手をしてます。そういう態度を取っていたのだ。それでは恋などの感情が育つはずがない。
―――でも今は合わせようと思うんだよね。
康孝のことを思い出してサチは顔が緩む。
そのタイミングでスマホが震えて、サチはビクッとする。
テーブルからスマホを手に取ると、メッセージが一件。由梨からだ。
健次郎が車を出すのでそれに乗って来いとのこと。健次郎は平日が休みの日もあるということか。
メッセージでのやり取りが続くのが煩わしいので、サチはスマホをタップして由梨に電話をかける。
数コールも鳴らずにもしもし?と由梨の声がする。
「なに?健次郎、今日休みなの?」
『うん。だから迎えに行くって』
「いいよ。電車ですぐだし」
遠慮してそう申し出るがすぐに却下される。
『いや、アンタ……電車乗り継いで一時間はすぐとは言わないよ』
呆れたようにバカじゃないのと吐き捨てる。
「本読んでたらすぐじゃん」
移動に苦痛は無いので尚も食い下がると、黙って言うこと聞きなさいよと声を張る。
『いいから!私は支度があるから、そこは甘えとこうよ』
「分かった。んで何時ごろ?さっき布団干したばっかりだから三時以降だと助かる」
せめてその時間までは外に出しておきたい。
『分かった。それくらいに着くように出てもらうわ』
納得したような声に安堵する。
「よろしくー」
『はいはーい』
そうして電話を切った。
時計を見るともう十一時半になっている。時間が経つのは恐ろしく早い。
ペットボトルからグラスにお茶を注ぐと、サチはまた一気に飲み干した。
逆算してあと三時間ちょっとで健次郎が迎えに来る。となると、その時間までに洗濯物は乾ききらないかも知れない。
干しっぱなしで夜取り入れれば良いかな。そう独りごちると、ソファーにもたれて散漫した集中力をなんとか掻き集めようと必死になる。
健次郎が居ると康孝の話がしにくい。由梨に相談したいが、健次郎が居るとなると省いて会話するのは難しい。
健次郎は根っからのお調子者なので、サチがこの歳で彼氏を作ったとなると騒ぐに違いない。なまじ過去の恋愛遍歴を知られている相手なだけに厄介だ。
頭を抱えてどうするべきか考える。康孝の事を考えると、二人に彼のことを話さないのは不自然になる。しかし健次郎におちょくられるのも腹立たしい。
―――面倒臭いな。
人と付き合うことがこんなにも面倒臭いと感じたことがなかったのは、相手と向き合って来なかった証拠だろう。
誰に知られても知られなくても平気。それはつまり、その程度の相手だということだ。
康孝とのことをからかわれたりするのを想像してむず痒いのは、彼を好きだからだ。
―――ああ、頭が痛くなってきた。
サチは立ち上がると冷蔵庫から冷却シートを取り出しておでこに貼り付けた。
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