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「まぁ、こんな素敵なお嬢さん連れてくるなんて」
そう言ってサチの真横に座ると、紀子は運んできた二人分の紅茶とケーキをセットする。カウンターの向こうで叔父の周平も柔和な笑顔を浮かべる。どことなく北条、この場合は大和ことだが、彼を思い出させるダンディな顔つきだ。
「本当はね、この歳まで独身で彼女も居るんだか居ないんだか分からないから、もしかしたら男の人が好きなんじゃないかって気になってたの」
あははと笑うと、贅沢だけど孫の顔も見られるなら見たいじゃない?と紀子が続ける。
「叔母さんそんな風に思ってたの?」
「そりゃそうよ。この歳まで浮いた話なんか一つもないし、男性が好きなんだって言い出せないんじゃないかと覚悟もしてたわよ」
事もなげに紀子が言うので、康孝は苦笑いをしている。
「そうだよな。可愛らしいお客さんが来ても全く興味ないし、友達って言っても男ばっかりだし。でもちゃっかりしてるなお前も」
康孝に焼き上がったフルーツたっぷりのパンケーキとココアを運ぶように伝えると、周平はサチを見てこんな美人を連れてくるとは、面食いだったんだなと笑う。
「なにもサチの容姿だけに惹かれたわけじゃないよ。あ、サチ。叔父さんたちに本見せれば?俺はこれ運んでくるから」
康孝はトレイを持ってその場から離れていく。サチは一言断ってから鞄の中のサイン本を取り出して、二人の出会いを簡単に説明する。
「嬉しいねえ。まさか兄貴がキューピットなんて。サチさんはいつから兄貴のファンなのかな?」
周平は次のオーダーを作りながら何気なくサチを見る。紀子も同じように若い読者さんもいるのねと呟いている。
「そうですね。最初は新聞の広告で女形奉行を見掛けて面白そうだから読んでみたんです。元々時代劇とか好きだったので、そこから一気にのめり込んだ感じです。ここに来た時はお稲シリーズの最新刊を読んでたんです」
サチは紅茶を一口飲んで美味しいですと笑顔を浮かべる。
「女形奉行が一作目とはかなりのマニアだね。しかも好きなシリーズはお稲さんか」
サチが本当に大和ファンなのが分かったのか周平はニコニコしながら手を進める。
「ヤスくんは自分がお義兄さんと親子だって言いたがらないんだけど、よっぽどサチさんと話す切っ掛けが欲しかったのね」
「そうでしょうか」
「きっと一目惚れね。お稲シリーズはヤスくんにとっても大事な作品だから余計に」
紀子は嬉しそうに笑いながらも、どこか心配しているような顔を見せた。
サチはイネスに会って色々と聞いた話をすべきか迷ったが、そこへ康孝が戻ってきたので話すのをやめる。
「なに盛り上がってるの」
そう尋ねる康孝に、紀子は嬉しそうにケーキを頬張りながら興奮気味に答える。
「出会いの話を聞いてたの。まさかお義兄さんがキューピットだとは知らなかったわ」
「悔しいことに、そうなるね」
「兄貴にはもう紹介したのか?」
出来上がったホットサンドを盛り付け、アイスティーを注ぎながら周平が康孝を見る。
「そのうちね。紹介せずともファンとしてサチのことをしっかり覚えてるみたいだから、変にからかわれそうだし嫌なんだけどね」
「そうだったの?」
紀子が驚いたようにサチの顔を見る。
「ええ、私も驚きました。何度かサイン会には参加していますが、まさか顔と名前を覚えていただけているとは。恐れ多くて」
「兄貴も面食いだからなあ」
周平は笑ってカウンター内の椅子に腰掛ける。注文がひと段落したのだろう。
すると突然、康孝は思い出したように話し始める。
「あ、そういえば母さんが来てるんだよ。まさか母さんに最初に紹介することになるなんてね。温泉行きたいって言ってたから叔母さんに連絡あるかもよ」
康孝は出来立ての料理をトレイに乗せるとまたその場を離れた。
「あらあら。イネスにも、もう会ったの?」
「はい。ナマお稲さんは最高に素敵でした」
サチが目をキラキラさせてそう言うと、周平は声を立てて笑う。
「これは兄貴と気が合いそうだ!」
「あ、叔母様。康孝さんの為に作ってらしたシチューを私もいただきました。ごめんなさい」
「あら良いのよ。それよりお口に合ったかしら」
「それはもう!とても優しい味で。心もあたたかくなりました」
「張り切って煮込んで作った甲斐があるわ。ヤスくんは当たり前のように食べるだけ食べて感想をくれないから」
ふふと笑ってみせる紀子は、やはり康孝にとっては母なのだろう。その関係性に遠慮がないことを知り、サチはなんだか嬉しくなる。
「それは叔母様がお母さんだからでしょうね。身体のことを気遣っておかずの作り置きや、買い物をしてくれるって話してくれました」
「まあ、そんな話まで?いやだわ」
「ご両親……叔父様と叔母様に大切にされて来た人だって分かります。息子さんはとても優しい方です」
サチは敢えて息子と言った。康孝を育てたのは二人だと聞いているし、イネスにも会ったが、やはり話をしていると、この叔父夫婦の元で育ったからこそ、康孝は真っ直ぐで優しいのだろう。
「兄貴のファンってだけでも嬉しいが、本当に君みたいな子を連れてきてくれて安心したよ。ありがとう」
周平が感極まったように呟く。
「本当に。素敵なお嬢さんで安心したわ」
紀子はサチの手を両手で包むように握ると、出来の悪い息子だけど宜しくねと嬉しそうに笑って、握る手を強めた。
「なに?俺の悪口とか言ってないだろうね」
お客様の精算とテーブルの片付けを終えた康孝は、戻るなり周平と紀子に焦ったように尋ねる。
「女癖が悪い手に負えないやつだって?」
周平がニヤニヤしながら康孝を見る。
「本当に貴方はもう!違うわよ。どこかの誰かさんは親不孝で、作った料理に感謝もしないって言ってたのよ」
紀子は周平に変な冗談はやめなさいと嗜めると、康孝とサチがシチューを食べた話をする。
「やっぱり女の子よね。ヤスくんは食べるだけ食べて終わりだもの」
「そうだっけ?俺ちゃんと感想とか言ってるつもりだけど」
シチューはいつも通り美味しかったと、康孝は紀子に困った顔で悪かったよと謝っている。
「サチさんはレストランの店長なんだろう?貴重なお休みなのに悪いね」
周平がサチを見て何気なく話しかけてくる。その間も康孝は紀子と談笑している。
「いえ。お気遣いありがとうございます。こうして叔父様と叔母様に直接ご挨拶に伺えて、お時間を割いていただいてありがとうございます」
「そんなことは気にしなくていい。こちらこそ大歓迎だよ。まさかヤスが付き合ってる女性を紹介したいなんて言い出すとはね」
両親の話は聞いてるかい?と周平が言うので、サチはイネスからあらかた聞き及んでいることを伝える。
「だからかな。さっきは冗談で男性が好きなんじゃないかって言ったけどね?危なっかしいというか、いつ刺されてもおかしくないくらい、フラフラ遊び歩いてた時期もあったんだよ」
サチに話す話ではないなと言いながらも周平が続ける。
「うちは子供もいないし。ヤスを本当の息子として育てて来たよ?でも思春期のややこしい時期に兄貴は再婚、そこに母親のイネスが現れて、多少なりともヤスには未だに両親に対して複雑な思いがあったと思うんだ。だから荒れてた時期もあったんだろう」
だからこそ、サチを紹介したいと連絡を受けたことに喜びと安堵があったと周平は言う。
「刺されるとか物騒な単語が聞こえたんだけど、サチに変なこと吹き込まないでよね」
「本当のことじゃないか。会う度違う匂いプンプンさせてたのはどこのどいつだ」
「ちょっと貴方!」
紀子が怒ったように周平を睨む。サチも奔放とまではいかずとも、男性とドライな付き合いをしたことがないわけではない。苦笑いしながらこれからは首輪でもなんでも着けておきますのでと笑いを誘う。
それでも紀子はまだ収まらないらしく、周平にデリカシーがなさ過ぎるとお説教を続けている。
「このバトルはいつものことだから気にしないで。あと、叔父さんは話を盛るから!」
康孝はバツが悪そうにサチを見る。サチは笑いながら、いつか全部話してもらおうかと康孝を肘で突いた。
それからしばらく康孝の子供時代の話を夫妻から聞いていた。お客様が出入りする度に康孝は中座したが、カウンターに戻っては一緒に会話を楽しんだ。
運動会の時には決まって、定番の唐揚げではなく磯辺揚げを作らされたことだったり、面白いエピソードがたくさん聞けた。
「なんであんなに好きだったんだろう」
「天ぷらはなんでも好きよね」
あと、うんと味を濃くしないと不機嫌になるのよと紀子が続ける。
「叔母さんは基本薄味だから」
康孝と夫妻は親子の会話を楽しんでいる。
サチはあたたかい気持ちになりながらも、胸の奥がチリチリと痛んだ。
―――家族、か。
サチにその手の思い出はない。今更それを欲しいとも思わないし、連絡を取ろうとも思わない。けれど康孝を見ていると、愛情を受けて育って来られたことに羨ましさを覚えるのと同時に、自分が哀れな気がしてしまう。
―――世間体のための子。
いつだったか夫婦喧嘩を覗き見てしまったことがある。その時に母は父にそう言っていた。
もちろんサチが聞いていたことは知らなかっただろう。けれどそれを聞いてしまった時、サチの心は一気にバラバラに砕けた。
「……チ、サチ?どうした。顔が真っ青だよ」
「え?あ、ごめんなさい」
こんなにも愛情溢れる康孝の家族を見て、サチは嫌な記憶がフラッシュバックしてしまった。
「本当にどうしたの。大丈夫?」
「なんでもないよ、心配性なんだから。ちょっとお手洗いお借りしますね」
添えられた康孝の手をそっと離すと、サチは化粧室に向かった。
―――大丈夫。
自分に言い聞かせるように呟く。
「バタバタして疲れが溜まったのかな」
苦笑いを浮かべてトイレから出る。洗面スペースで手を洗い、化粧を直して頭の中をリセットする。
サチがどんなに焦がれても手に入らなかったものを康孝は持っている。
惨めだと思うのは違う。溢れそうになる涙を堪えると鏡の前で笑顔を作った。
「顔色悪いよ?」
席に戻ると康孝が心配して声を掛ける。紀子や周平も同じように顔色を曇らせている。
「大丈夫です。久々の休みだから張り切ってしまって。連日出突っ張りで疲れが出たみたいです」
その言葉に一同は少し沈黙してから、安心した顔を見せた。
「ついお話が楽しくて引き留めてごめんなさいね」
「ヤス、もう今日はいいぞ。紀子が居るからサチさん送ってやれ」
紀子の言葉を追うように周平は康孝を見るとサチを送るようにあがっていいと手をヒラヒラさせた。
「いえ、叔父様!そんな大したことじゃないですし家も近所ですから」
慌てて断るも、紀子がそれを制する。
「ダメよサチさん。本当にお店は平気だから気にしないで。お話できて楽しかったわ。もちろん今度は家にいらしてね」
紀子は康孝からギャルソンエプロンを受け取ると、早く送ってあげなさいと仕事支度を始めた。
「というわけだから、家まで送るよ」
「ごめんね」
「いいよ。気にしないで」
「叔父様、叔母様。今日は本当に楽しかったです。本当にありがとうございました」
「いいんだよ。それからその叔父様ってのも照れるし堅っ苦しいから今度使ったら罰金ね」
周平は悪戯っぽく笑うと紀子とアイコンタクトで頷き合う。
「サチさんがヤスくんとずっと一緒にいてくれたら嬉しいわ。これからもよろしくお願いしますね。あ、本当に家に遊びに来てね」
紀子のあたたかい手がサチの手を包む。
「はい。是非伺わせていただきます」
サチは紀子と周平に頭を下げて挨拶すると、康孝に手を引かれて店を後にした。
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