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マンション裏手のコインパーキングに車を停めると、二人で手を繋いでマンションへ向かう。途中同じマンションの住人らしい子連れの夫婦と会釈を交わすと、エレベーターの同乗は断って階段で二階に上がった。
「サチの部屋、昨日ぶりだね」
サチに言われて先に部屋に入ると、康孝は勝手知ったる風にまず洗面所に向かう。歯ブラシを開封しているようだ。
「ちゃんと手を洗ってよ」
康孝の家ほど広くはないので、サチは先にリビングに向かうとカーテンと窓を開け、風を通す。
「タオル借りたよ」
「良いよ。ちょっとフロアモップだけ掛けさせてね」
康孝に断りを入れると、洗面所の洗濯機脇に置いたフロアモップにシートをセットして、サチは軽く掃除を済ませる。寝室もリビング同様にカーテンを開け、窓も開けて風を通す。
「サチは綺麗好きだよね」
ジャケットはどこに掛ければいいと康孝が尋ねるので、寝室のクローゼットを指差してハンガーは中と答える。
「綺麗好きじゃなくて癖みたいなもんだよ」
モップを掛け終わるとシートを取り外してゴミ箱に捨て、洗面台で手を洗う。
「さて。なに飲む?冷たいのならお茶。あたたかいのならコーヒーか紅茶」
寝室から出てきた康孝に喉渇いてる?と聞きながら腕を捲る。
「お茶が良いな」
「りょーかい」
手伝おうかと傍に立つ康孝に、じゃあグラスを出してと由梨たちの結婚式の引き出物のペアグラスを指定する。
「これ、誰か使ったことある?」
不貞腐れた顔で聞くので、この家には由梨しか来ないから、そのグラスは片一方しか使ってないよと笑って返した。
「まだまだ知らないことがあるね」
康孝がお茶の注がれたグラスを持ってリビングのソファーに腰を下ろす。
後を追うようにサチもソファーに腰を下ろすと、知らないといえばと切り出した。
「で?副業ってなんなの」
「売れない作家」
「……え?」
「売れてないから、本業はカフェの店長」
康孝はこともなげに言って、ビジネスバッグからノートパソコンを取り出すと、アダプタを繋ぐためにコンセントを探している。
「あ、ここ使って」
ソファーから立ち上がると、康孝からコードを受け取り延長コードにアダプタのコンセントを差し込む。
「ありがと」
「いいけど、作家って本当なの?」
パソコンを起動させる康孝の隣に座ると、サチはお茶を飲みながら尋ねる。
「うん。五冊は出てるかな」
「五冊も出てたら売れてる方でしょ!」
どんな作品なのか気になってサチは康孝に色々質問する。
「ミステリがメインだけど恋愛ものとかも書いてるよ」
ヒットはしてないけど、固定の購買層が居てくれるから書ける感じかなと康孝はキーボードを叩き始める。
「へぇ、血は争えないね」
「それがさ、試しに書いた恋愛小説が意外と当たってね。それの続編の打診」
「え!もしかして私も知ってる?」
「どうだろうね」
康孝は笑ってごまかす。
「なあに、恥ずかしいの?」
「そりゃね。父さんの本を読み込んでるサチだから、俺の本は幼稚に感じるかも知れない」
「確かに北条さんの本は好きだけど、色んなジャンル読むよ。この前も気になってた作家さんのシリーズ買ったし」
サチは席を立つと寝室に向かい、本棚から小説を幾つか持ってくる。
その手元を見て康孝がギョッとしたので、まさかと思いながらも康孝に尋ねる。
「本当にこの中に有るとか?」
「……サチは勘がいいね」
「いや、そんなあからさまに驚いたら分かるよ」
笑いながらどれが康孝の本なのかサチは確認しようとして、ふと康孝の言葉を思い出す。
「恋愛小説の打診って言ったよね?」
「そうだよ。有難いことに続けていいみたいなんだ」
「もしかして、これ康孝さんが書いてる?」
以前から気になっていた作家のシリーズものを手に取ると、サチは康孝の顔を覗き見る。
「……なんで持ってるかな」
困ったように笑う康孝とは対照的に、サチは興奮して思わず大きな声が出る。
「嘘!これそうなの?」
サチが手にしたのは平瀬慎吾という作家のバディもののミステリ小説だ。
「売れてないなんて嘘じゃない。買ったのこそ最近だけど、シリーズ化されてる人気作じゃない」
「それってちゃんと読んだ感想?」
「サイン会の時に買ったからまだ読めてないけど、一巻の冒頭を読んで買うのを決めたかな」
「そうなんだ」
目の前で読み始めようとするサチに気付くと、康孝はちょっと待ってと止めにかかる。
「なにこの羞恥プレイ」
「いいじゃない。なにも声に出して読むわけじゃないし」
「それでもなんかゾワゾワするからやめてよ」
困った顔で笑うと康孝はまたキーボードに指を走らせる。
「康孝さんの寝室、本棚も大きいし溢れんばかりの本が有ったのはそういうことなのね」
「ああ、作業部屋には入ったことなかったね。あっちはもっと凄いよ」
「書斎?」
「まあ、そう言えば聞こえは良いかもね」
凄い。作家みたいとサチが笑うと、ちなみに書斎と言っても昔の勉強部屋だから、叔父さんがよく泊まる部屋だよと手を止めて笑った。
「ねえ康孝さん、お腹空かない?何か作ろうか?」
そう言ってサチが立ち上がろうとすると、ダメだよと康孝が止める。
「調子悪いんだから。それにもしかしたら仕事になるかもしれないんでしょ。俺が何か作るよ」
そう言ってテーブルにノートパソコンを置いて立ち上がると、冷蔵庫の中の物は好きに使って良いのかと康孝がダイニングから声を掛けてくる。
「どれでも大丈夫。下処理が終わってるのは冷凍庫に入ってるし、そっちが手早く済むから使って」
サチは康孝の配慮に甘えてソファーで寛いだまま返事をした。
「あ、でも康孝さんだって仕事中なのに。ごめんね」
「それは良いんだよ。気分転換になるから」
電子レンジ借りるねと康孝は調理に取り掛かる。
手持ち無沙汰になったサチは、しばらく悩んでから平瀬慎吾……つまり康孝が書いた小説を手に取ると、そのページをめくった。
ヤル気と協調性がないが抜群の推理力を持つ刑事と、そのお守り役を任された新米刑事の奮闘劇も絡めたミステリだ。単話完結型で、何本もの事件が展開する。
メインで登場するのが女性二人なのも面白いし、魅力的なキャクターと、緻密に張り巡らされた伏線が次にどう繋がるのかと読んでいてワクワクする。
ページをめくる手が止まらず、物語の中に入り込んで読んでいると、ふと香ばしい匂いがしてきてサチは顔を上げる。
パチパチと弾けるような音。康孝は揚げ物を作っているらしい。
「ちょっとなに作ってるの。楽しみなんだけど」
サチはダイニングに移動すると、康孝を後ろから抱きしめて手元を覗き込む。
「胃もたれしないようにさっぱり仕上げるけど、食欲はあるのかな?」
「あるある!」
「ははは、そんな食い気味に」
康孝はおかしそうに笑って、けれど手は止めず、傍らでサラダも作っている。
「康孝さん、平瀬慎吾の小説めちゃくちゃ面白いよ!槇村警部補と山市巡査のでこぼこコンビ凄く好き。私なんでもっと早く買わなかったんだろう」
「サチに慎吾って呼ばれるのなんか新鮮だな。そんなに面白いかな」
「凄く続きが気になる」
「素直に喜ぶべきなのかな」
さあ出来たよと康孝が皿を出すように言うので、サチは抱きついていた腕を離し、食器の準備をする。
康孝が作ったのは掻き揚げうどんだ。カボチャと玉ねぎと鶏肉の掻き揚げを、冷水でしめたうどんに乗せて、大根おろしをベースにしたタレをかけてある。
サラダは水菜とツナを和えた物だ。
「ダイニングのテーブルは狭いけど、こっちで食べる?向こうだとパソコン片付けないといけないし」
二人掛けの小さなダイニングテーブルを指差して、片付けも楽だしと言い、何より仕事部屋の話を聞いていたので、同じ空間で食事を摂るのは良くないのではと気になった。
「サチは普段どこで食べてるの」
「リビングとダイニング両方かな、休みの時とか時間に余裕があればリビングで食べるけど、仕事前とかだとパッと作ってダイニングですぐ食べる」
「じゃあこっちでゆっくりいただこう」
康孝はダイニングテーブルに食事を配膳すると、サチと向かい合わせに座った。
「あ、お茶持ってくるね」
リビングに戻ってグラスを二つダイニングテーブルに置き、冷蔵庫からペットボトルも取り出して置いた。
「じゃあ、食べようか」
「ん。いただきます!」
揚げたてサクサクの掻き揚げを頬張って、よく冷えたうどんをすする。
「美味しい!ポン酢だよね?甘辛いけど」
「うん。ちょっと味を変えて煮詰めた」
「サラダもおいし〜。ごま油の香りと、これは大葉?」
「うん。チューブの大葉があったから使わせてもらったよ。ちょっとでも食欲が出るようにと思って」
康孝はそんな心配は必要なかったみたいだけどと笑う。
「ごめんね。康孝さんだって仕事なのに」
「サチはもっと俺を頼って良いんだよ。それにあっちの仕事が入ったからカフェはしばらく休むと思うし」
「え、そうなの?」
サチが箸を止めて驚いた声を出すと、違う違うと首を横に小さく振って康孝が笑って店は閉めないよと言う。
「叔母さんが店に出るだけ」
「なんだ。びっくりした」
「あ、そうだ。連絡しとかないと」
康孝はスマホを取り出してメッセージを送っているらしい。
「……私が手伝えれば良いんだけどね」
何気なくこぼすと、今度は康孝が驚いた顔をしてサチを見る。
「サチは自分の仕事があるんだから、気持ちだけで充分だよ」
「その仕事を辞めたくてハローワークや転職サイトに登録してるんだけどね」
タレが絡んでしっとりした掻き揚げを頬張るとサチは話を続ける。
「別に安易に言ってるわけじゃないよ。今の仕事も好きは好きだけど、完全にオーバーワークだし、体力的にも限界を感じてるの。話した通り、休みが休みじゃなくなる事もしょっちゅうあるし、店長やり始めて六年以上経つのにずっと契約社員のまま」
「そうだったんだね」
「うん。ご両親……叔父様と叔母様にお会いして、ああ、やっぱり良いお店だなって思ったのも事実だし」
未だ複雑な思いはあれど、康孝との先を見据えると、そんな気持ちが出てきたのも本当のところだ。
「ねえ、サチ」
「ん?」
「結婚しよう」
「は?」
うどんを口へ運ぶ箸が止まり康孝の発言に眉をひそめる。
「今の話を聞いて思ったんだけどね、奥さんになら任せられるなって、あくまで俺がだけど、そう思ったんだ」
「だから結婚するの?」
「もちろんそれだけじゃないよ。今朝も言ったけど、俺はそのつもりで付き合ってるし、おじいちゃんになるまで、ずっとサチと過ごしたいよ」
「気持ちは嬉しいけど、私は康孝さんと違って親も変な人たちだし結婚となると話がややこしいと言うか……」
今更両親に許しをこう必要はないのだが、サチの中で少なくとも気がかりではある事情だった。家を出て十四年。まともに連絡したことはない。
「うん。確かにサチの言いたいことは分かるし、未だに心の中の傷も癒えてないと思う。でもご両親のおかげでサチがいる。俺は感謝したいし、ご挨拶だってしたい」
「私がどこで何をしようが気にも留めない人たちだよ」
「だったら遠慮なく掻っ攫う。でも娘はもらった!くらいは言ってやりたいじゃないか」
「私は物か!」
サチが笑うと康孝も笑った。
食事を終えると、康孝にリビングに戻るように言ってサチは洗い物を片付ける。食事を済ませたからだろうか、サチは大きな欠伸をした。
「ねむ……」
ボソリと呟いてリビングを見ると、康孝は真剣な顔でノートパソコンに指を走らせている。
サチはケトルで湯を沸かすと、コーヒーを入れてリビングに向かった。
「はい。ここに置いておくね」
テーブルにコーヒーを置いて康孝の隣に座る。サチの家にあるのは普通の二人掛けのソファーなので、自然と身体が密着する。
「あー。ダメ!集中出来ない。サチが可愛い!入れたい!」
「窓開いてんのに大声で何言ってんの!変な噂立つでしょ!」
サチの腰を抱いて頬擦りする康孝の頭を叩くと、離れるようにあしらってソファーから立ち上がる。
「なんで立つの」
「仕事しに来たんでしょ」
「抱きしめるくらい良いじゃん」
俺の心のためにもスキンシップは大事だよともっともらしく康孝は言うが、その口車に乗るわけにもいかない。
「ダメだよ。私が仕事の妨げになってどうするの。ちょっと眠いし向こうで横になってるから、康孝さんは仕事続けて」
「どうしたの?しんどい?」
眠いと言ったのに横になるという単語の方が気になったのか、康孝は急にオロオロし始める。
「いや、眠いだけだって」
「サチもパソコン持ってるよね?」
突飛な質問にサチが首を傾げると、康孝は寝室にデスクがあるよねとノートパソコンを閉じてコンセントを引き抜く。
「せっかく一緒にいるのに別々の部屋にいることないでしょ」
「逆に邪魔じゃないの?一人の方が集中出来るでしょ」
諭すように康孝に言ってみるが、聞く耳は持たない様子で返事が返ってくる。
「サチこそ、ちゃんと身体を休めるか心配だから見張っとく」
「なにそれ」
「だって、仕事に行くかもしれないんだよね」
「まあ、確かに」
「ならサチの可愛い寝顔見ながら仕事する」
「いや、見ながらは無理でしょ」
サチが頭を抱えると、ピコンとスマホが鳴った。
康孝も紀子にメッセージを送っていたので、どちらのスマホに着信があったのか分からない。
康孝はポケットから、サチはテーブルに置いてあったスマホをそれぞれ手に取ると着信を確認する。
「あー。確定したわ」
メッセージを受信したのはサチの方だった。
「やっぱり出勤するの」
「うん。追加で二人、一人は遅刻で来るらしいけど三人の欠員だから行かないと」
「体調悪いのに……」
康孝はサチを抱きしめて頭を撫でる。
「こんなのただの遊び疲れよ。体調不良に入らないって。それより返事入れたいからちょっとごめんね」
そう言って康孝の腕をほどくと、サチは手短にメッセージを打ち込むと溜め息を吐き出した。
平日とはいえディナーの予約なども入っているだろう。サチは寝室に向かうと、パソコンを立ち上げて店舗のシフトを確認する。
「フロアが圧倒的に足りないな…」
急遽、ディナータイムだけでも出られるスタッフがいないか直接コンタクトを試みる。
誰からも返信がない中、時計を見るとまだ三時半だ。
「ディナータイムに合わせてだから五時に出れば間に合うし、泊まるんだったら留守番してもらうことになるけど良いかな」
「それは構わないよ。あと俺が送り迎えするから、それは断らないでね」
「助かります。ありがと」
「あー可愛いー仕事行かせたくないー」
「出た!」
サチは自分でも甘いなと思いつつ笑いながら、行かないといけないから送り迎えよろしくねと改めて康孝にキスをした。
「で?出るまではどうするの」
「ちょっと横になっとくよ。結局この振休は出突っ張りで疲れが出ちゃったよ」
サチはスマホを充電すると、康孝にデスクは好きに使ってくれて良いからとベッドに腰を下ろす。
「じゃあ俺も横になる」
「は?」
康孝はサチの隣に腰掛けると、言うが早いかベッドに横になってサチを抱き寄せる。しっかりと抱きしめるとその額にキスをして、起こすから少し眠ったら?と康孝はサチの背中を撫でた。
「康孝さんは私に甘すぎるんだよ」
「俺以外に甘えるのはいただけないな」
啄むようにキスをしながら時計の針の音を聞く。サチは安心感からか康孝の腕の中ですぐに寝息を立てる。
「頑張り屋さんだな……サチは」
サチの髪を掻き上げるように撫でると、一層愛おしそうに康孝はその寝顔を見つめてまたキスをした。
時計の針の音とサチの寝息が響く部屋は心地が好くて、康孝も微睡むように静寂に包まれる。
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