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病院に着いてからもサチは放心状態のまま、康孝の手を握って立っているのがやっとの状態のため、康孝はサチに母親の名前を確認すると、総合受付で身内の見舞いに来たと部屋番号を確認し、書類へのサインを済ませて病棟の詳細を確認している。
「サチ、お母さんが好きな花とか分かる?」
「分からない」
「じゃあサチが好きな花を持って行こうか」
あそこの売店で花を売ってるみたいだよと、康孝に手を引かれて売店に向かう。
「どれが好き?」
「私、花とか疎いから」
「じゃあ、アレは?」
康孝は赤いカーネーションを指差した。
「久々に会うんだよね。今日は母の日じゃないけど、お母さん喜ぶんじゃないかな」
「この時期でもカーネーションってあるんだね」
サチが少し驚いたように笑うので、康孝はお見舞い用に花瓶と併せてカーネーションの花束を購入した。
「さ、行こうか。外科はあっちの病棟で、お母さんは五〇三号室に入院してるそうだよ」
康孝に手を引かれるまま、サチは渡り廊下を抜けて外科の病棟へ移動する。
エレベーターで五階に上がると個室の病室が続いている。
「ここだね。大丈夫そうかな」
「一緒に入って挨拶してくれる?」
サチは康孝の手をぎゅっと握って顔を見上げる。康孝は黙って頷いた。
コンコン。ドアを二回ノックする。
「はい?」
思ったより元気そうな声が中から返ってくる。康孝に背中を押され、サチは病室の引き戸を開くと中に入った。
「……お母、さん?」
「え?さっちゃん!あらあら、どうしてこんなところに」
個室の豪奢なベッドの上で、頭と腕に包帯を巻き、足元の盛り上がりを見る限りギプスで固定されているようだ。
「三枝さんが連絡くれたの。事故に遭ったって」
サチが真知子に説明をしていると、真知子は康孝に気が付いたらしく、そちらの方は?とサチに尋ねる。
「こちらは、結婚を考えてお付き合いしてる北条康孝さん。康孝さん、これがうちの母」
「鞍馬さん、大変な時に突然お邪魔して申し訳ありません。北条と申します。お花をお持ちしたんですが、花はお嫌いですか?」
真知子は康孝に目を奪われて言葉を失っていたが、コホンと咳払いをすると、ご丁寧にありがとうございますと返して花を受け取る。
「まあ、カーネーションなんてどれくらいぶりかしら。さっちゃんが毎年くれてたのを思い出すわね」
軽傷の方の手で器用に花束を抱えると、真知子は嬉しそうに頬を緩める。どうやらカーネーションを喜んでくれたようだった。
「せっかくですから生けますね。僕はちょっとお花をお預かりして水を汲んできますね」
とびきりの笑顔で花瓶を見せると、真知子からカーネーションを受け取って、頑張れと言わんばかりにサチの肩を軽く撫でて康孝は退席した。
途端にサチは沈黙で息苦しくなり、痛々しい真知子の姿も見てはいられず顔を背ける。
最初に口を開いたのは真知子だった。
「彼、とても素敵な方ね。まさかさっちゃんの恋人を紹介してもらえる日が来るとは思ってなかったわ」
「たまたま……一緒に居た時に三枝さんから連絡があって、心配して付いてきてくれたの」
「そう。優しい人と出会ったわね」
真知子は朗らかに微笑むと、少しまだ痛むのよと、起き上がれないことを謝った。
「それにしてもなんでこんな大怪我したの。事故って聞いたけど」
「ああ。お母さん最近自転車に乗るようにしててね、三枝さんの代わりにお買い物に出た帰りに車にぶつかってしまって」
「轢かれたの!?」
「ちょうどね、昔のさっちゃんちゃんみたいな可愛い子が遊んでるのが目に留まってね、そしたら車が猛スピードで走ってきたから咄嗟に自転車を放り飛ばしてその子を助けたの」
ヒーローみたいでしょと笑って真知子は話を続ける。
「だけど年甲斐もなく張り切ったせいで、自転車は大破するわ、頭も強打して足は轢かれちゃうし散々だったわ」
「何やってんの、もう」
サチは頭を抱える。こんな傷だらけになって何がヒーローだ。
コンコン。とドアをノックする音にサチははいと返事をすると、康孝が買ってきた花瓶にカーネーションを生けて戻ってきた。
「窓際の棚に飾らせていただいても?」
康孝が尋ねると真知子はありがとうございますと、少し辛そうだが頭を下げた。
「そのご様子だと二ヶ月くらいは入院なさるんですか?」
「……ええ」
不意に康孝から声を掛けられて、真知子は少し動揺しながら短く答える。
「検査の結果は?脳波とか調べてもらったの?」
「細かい結果は明日よ。でも外傷だけで問題はないって言われてるわ」
「そう。じゃあ心配ないね。私もう帰るわ」
「え、さっちゃん……」
「サチ!」
二人から呼び止められてサチは出て行こうとした足を止めてベットの真知子を振り返る。
「どうしてそんな嬉しそうに振る舞うの?康孝さんがいるから世間体を気にしてるの」
「さっちゃん?」
真知子は事態が呑み込めず、サチと康孝を交互に見て困惑している。
「サチ。君のお母さんはひどい怪我を負ってるんだ。もう少し落ち着いて話してあげたらどうだい」
サチに歩み寄り、その手を取ると、康孝はしっかりと手を握りしめてサチの代わりに口を開く。
「鞍馬さん、不躾は承知でお伺いします。サチさんを世間体のために生んだと仰って、彼女と向き合わずに、家政婦さんに子育てをさせてきたのは本当ですか?」
康孝の突然の問い掛けに真知子は驚いたようにそんなことありませんと即答する。
「必死の自己弁護ね」
吐き捨てるようにサチが言うと、真知子は更に驚いて困惑した顔で二人を見る。
「どうしてそう思うの?さっちゃん。まさか、それで家を出たの?」
どうしてサチがそう思っているのか、真知子が困惑しているのを見て、康孝はサチに話してごらんと真知子と会話するよう促した。
「親子の行き違いや思い違いは面倒です。僕は席を外した方が良いですね」
「いいの、ここに居て」
部屋を出ようとした康孝を引き留めると、サチは康孝と一緒にベットの脇に据えられたソファーに腰を下ろして真知子に話しかけた。
「小学校に上がったくらいの時、たまたま夜中に目が覚めて夫婦喧嘩を聞いたの」
その時の言葉が耳にこびり付いて離れない。
―――どうせ世間体のために生ませたくせに!
真知子は智哉を罵倒していた。普段温厚な母が冷たく鋭利な声を荒げているだけでも怖かった。それに何より、当時こそ意味までは分からなかったが、誉められていないことだけはサチにも分かった。
私は望まれもしない世間体のためだけに生まれた子でしょと、サチが淡々とありのままを話し終えると、真知子は大粒の涙を流しながらサチに詫びた。
「ごめんね、さっちゃん。確かにお父さんとそんな喧嘩をしたことは事実よ、でもね」
「でも?なに、言い訳するつもり」
「サチ……聞くだけ聞かないと」
康孝は立ち上がって真知子が起き上がるのを手伝うと、背中に枕やクッションを当て、大丈夫ですから誤解があるなら話してくださいと促した。
「さっちゃん……知ってはいると思うけど、お父さんとお母さんは遠い親戚で、親の都合で結婚したの」
真知子は絞り出すように話始める。
「お父さんはお母さんの憧れのお兄さんでね、親の事業のためとはいえ、お父さんと一緒になれて嬉しかったわ」
サチはそんな話を始めて聞いた。親戚連中が影で噂していた話とはかけ離れている。
「あの発言はね、さっちゃん。仕事に邁進するお父さんにワガママを言っただけなのよ。子供ももっと欲しかったし、それなのに十も歳が離れいるせいで、妹扱いをするお父さんに腹が立って、どうせ世間体のために生ませたんでしょうって。だけどそれをさっちゃんが聞いていたなんて」
「は?」
「嘘と思うかも知れないけど、恥ずかしいことに、仕事が軌道に乗って忙しくしていた時期でね、私にもさっちゃんにも構ってくれないお父さんに腹を立てていたの。でもそれを境にお父さんは凄く大事にしてくれたわよ」
「世間体のための仮面夫婦でしょ」
「さっちゃんにはそう見えてたのね。けれど本当にお父さんは変わったわ。実はお母さん、子宮がんになってしまってね。子供の産めない身体になってしまったの」
「……え」
「お父さんは私よりも深く後悔してたわ。本当よ。だからしばらく体調が安定するまでは三枝さんにさっちゃんの面倒を任せざるを得なかったの」
「でも三枝さんは何も……」
サチはまだ疑いつつも真知子に質問を投げ掛ける。
「それは私たちが口止めしていたからよ。いつ再発するか分からない状態でもあったし、私は免疫力が低下して体調を崩しやすかったから、別荘で静養したり。そして気が付いたらさっちゃんは高校卒業と同時に家を出てしまったでしょう」
「そんな!なんで今まで黙ってたの」
「さっちゃんは聞いてくれたかしら」
「それは」
「あくまで表面上は連絡先すら知らないのよ?それに連絡したとしても、今日のように全てを話してくれたかしら」
真知子はようやく息を整えてサチとやり取りをする。サチは唖然としながらも真知子の話が嘘だとも思えなかった。
「サチが愛されてない子なわけないんじゃないかな」
康孝は手を取ると、しっかりと握りしめて肩を抱いた。
「お父さんにも聞いてごらんなさい。確かに言ってはいけない言葉だったわ。取り消せないし謝りようもないけれど、さっちゃんを世間体のためだけに産んだなんて、お母さんは一度も思ったことはないわ」
真知子は傷が痛むのか、表情を歪めるそぶりを見せたので、康孝は立ち上がってベッドのクッションや枕を元に戻すと、横になれるよう背中を支えて真知子を寝かせた。
「鞍馬さん、大変な中、お話ありがとうございます。できればサチさんとご実家にもご挨拶に伺いたいのですが、ご連絡を入れていただくことはできますか」
「お安い御用ですわ。さっちゃん、引き出しからケータイを取って貰える?」
まだ頭の中はパニックだが、サチはソファーから立ち上がると、真知子が指差す引出しを開けて今時珍しい折り畳み式のケータイを真知子に手渡す。
「お食事も召し上がってらしたら良いわ。それも伝えますから、少し待ってね」
サチと康孝を交互に見ると、真知子は微笑んでケータイのアドレスから電話を検索して電話をかける。
静かな病室内でコール音がケータイから漏れてくる。三コール鳴ったところでサチにとっては懐かしい男性の声が聞こえた。
『もしもし?どうしたんだい?』
「それがね、驚いて死んじゃうかと思ったの」
真知子は少女のように笑うと、誰がお見舞いに来たと思う?と智哉に質問している。
『そういうのは良いから、やっぱり怪我で頭を強く打ったのかい?』
「違うわよ。さっちゃんが来てくれたの!」
『サチが?』
「そうなの!もう嬉しくて、今からそちらにも顔を出すらしいから、お夕食はケータリングで済ませたらどうかしら?」
真知子は声を弾ませて、これ以上ないくらいにウキウキと智哉に話し掛ける。
『分かった。サチに楽しみに待ってると伝えてくれ。それから一緒に来る彼にもね』
「あら、貴方にしては勘がいいのね」
『君の声で分かるよ』
じゃあまたねと満面の笑みで電話を切ると、真知子はその手でサチの手を掴み、智哉が康孝が来るのを楽しみにしてると笑った。
「北……康孝さん。サチをお願いしますね」
「はい。もちろんです」
それから真知子はサチを見ると、切なそうな顔と声で声を絞り出す。
「さっちゃん。こんな話をしたくらいでさっちゃんを傷付けたことが無くならないのは、お母さんも分かってるわ。だけど、また落ち着いたら康孝さんと家に顔を見せに来てちょうだい。約束よ」
母と指切りをしたのはいつぶりだろうか。サチは骨張ってシワの増えた真知子の手をそっと包んだ。
「うん。約束する」
「ありがとう」
真知子に身を寄せて、サチは彼女をハグすると、じゃあ家に行くねと挨拶を済ませる。康孝もそれに倣って挨拶を済ませると病室を出た。
「凄く素敵なお母さんじゃないか」
「にわかに信じ難いけど、それを確認するためにも家に行かないと」
エレベーターを待っていると、サチのスマホに三枝か電話がかかって来た。
家族水入らずで楽しむように上がらせてもらう。そんな内容だった。三枝は世話になった母同然の人なので帰らないように頼んだが、今日のところは帰ると譲らないので、また顔を出すと約束をして電話を切った。
「サチの実家はここから近いの?」
「うん。車だったら十分も掛からないかな」
サチがそう返すと、康孝はスマホで何かを調べ始めた。
「どうしたの」
「サチのお父さんは飲める口かな」
「……ごめん。分からない」
「そうだよね。んー。手土産どうしようかな」
康孝は顎に手を当ててしばし考え込む。
「そんなの良いよ」
「そうはいかないよ。なんせ結婚を考えて付き合ってる身としてはね」
悪戯っぽく笑うと、サチが真知子に自分をそう紹介したことを嬉しそうに反芻する。
「それは、なんて言うか言葉のあやで。別に結婚したくないわけじゃないけど……その」
「分かってるよ。お母さんが退院なさったらまたご挨拶に伺おうね」
でも手土産なしもな。と呟くと康孝は一か八かで自分の父、大和が好きな洋菓子を買っていくと息巻いた。
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