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 病院を出てから、菓子を買うために少し遠回りをしたが、車で二十分。  大きな門構えの日本家屋を見るのは何年ぶりだろうか。康孝が家の前で車を停めると、サチは車を降りてインターホンを押す。 『はいはい』  インターホン越しにサチを確認したのだろう、智哉は優しい声でインターホンに出ると、車で来たのかとサチに確認する。 「うん。門を開けてもらっても良いかな」 『よく来たね。今開けるよ』  その声と同時に門が開け放たれ、インターホンからの声は途絶えた。  車には戻らず、中に誘導すると、砂利道の広い庭先の駐車スペースにそのまま停めるように康孝に伝える。 「凄いお家だね。今ごろ緊張してきた」  康孝は後部座席から菓子折りを取り出すと、わざと震えるようなポーズでサチを和ませようとする。 「そんな緊張してないくせに」  そう言って笑うサチを見て安心したのか、康孝は案内してくれる?とサチにお願いして駐車スペースから離れた玄関を見つめた。 「そだね。行こうか」  背後で門扉が閉じる音が聞こえたので、智哉が操作したのだろう。  玄関で改めてインターホンを鳴らすと、バタバタと足音が聞こえて扉が開かれる。 「サチ!元気にしてたかい?」  低音のよく響く声は懐かしいが、智哉はサチの記憶の人物とは別人のようだった。一八〇近くある長身に白髪の髪を綺麗にセットした父がそこに居る。 「うん。ご無沙汰してます」 「何を改まってるんだ。ほら、遠慮なく入りなさい。北条くんも、ほらほら」  康孝の名前を呼んだので一瞬驚きはしたものの、きっと真知子が連絡を入れていたのだろう。サチの後ろから康孝は一礼すると、智哉が手で押さえていた扉を開けて、家の中に入った。 「父さんは先にいってるから、手を洗っておいで。必要ならお手洗いを案内してあげなさい」  二人が靴を脱いだのを確認すると、智哉はリビングに一人で向かった。 「なんだか凄く嬉しそうにしてらしたね」 「変な感じ」  サチは康孝を案内すると、久しぶりの実家を観察しながらボソリと呟いた。 「俺はお手洗いを借りるけど、サチは大丈夫?」  体調不良を気遣って康孝はサチに尋ねる。 「後で私も済ませるよ。先にどうぞ」  康孝から荷物を預かり、サチは中庭を眺めた。  ―――よくここで遊んだな。  感傷的になって涙が溢れそうになる。いつも相手をしてくれたのは家政婦の三枝だった。  真知子の話が本当ならば、智哉は真知子の看病と会社の経営で気が滅入っていたのかも知れない。 「サチ?次どうぞ」  背後から声を掛けられてサチは我にかえると、康孝に荷物を返して用を済ませた。  洗面台で手を洗うと適当にタオルを取り出して手を拭く。あの頃と何一つ変わらない。  康孝を連れてリビングに向かうと、ソファーに腰掛けていた智哉が立ち上がって挨拶をする。 「はじめまして、サチの父の鞍馬智哉です。君は北条康孝くんだね。妻のお見舞いに行ってくださったようで、わざわざありがとうございます」  サチは真知子に似ているだろう?と柔和な笑みを浮かべると、二人に座るよう促した。 「お口に合うと良いんですが。バックワーヘンの焼き菓子です」  康孝がそう言って菓子折りを渡すと、智哉は驚いたように大好物だよと礼を口にする。 「サチが覚えてたのかい?それとも母さんに聞いたのかな」 「いいえ、康孝さんが選んだの。お父様が好きなお菓子だそうよ」 「そうか。お心遣いありがとう」  智哉は嬉しそうに康孝を見ると改めて礼を言った。 「さて。ケータリングは三枝さんが手配してくれたんだが、まだもう少し掛かるらしい。お茶の用意をしてくれたので、それを飲むかい?」  テーブル脇のワゴンにポットとカップやソーサーが置かれている。どうやら三枝はサチたちと入れ違いで帰ったようだ。 「お父さん慣れてないでしょ。私が淹れるよ」  ぶっきらぼうにそう言って席を立つと、智哉の隣で紅茶を淹れる。三人分をサーブして席に戻ると、いただきますと喉を潤した。 「あのね……」  サチは真知子と話したことを智哉にも話した。当然のように智哉も驚いていたが、真知子の看病のために、家事や育児は三枝に任せきりだったのも事実だと言い、傷付けてしまっていたんだなと後悔を顔に滲ませた。 「康孝くん、家族の込み入った話に巻き込んでしまって悪いね」 「いえ、この場に立ち会うのも不躾だとは思ったのですが、サチさんの長年の誤解が解けたようで良かったです」  康孝がニコリと笑うと智哉もまた同じように笑顔を浮かべる。  ちょうどそのタイミングでインターホンがなったので、智哉は二人に断りを入れて席を立つと玄関に向かった。 「素敵なお父さんだね。口の好みが親父と似てて良かったよ」  康孝は少し緊張をといて笑うとサチの頭を撫でる。サチはそれを受け止めつつ、全てが自分の勘違いだったことを酷く後悔していた。 「もっと早く、ちゃんと向き合ってれば良かったのかな」 「人生には色んなタイミングがあるから。今だから受け止められるのかも知れないよ」  そう言ってまたサチの頭を撫でた。  ガチャリとリビングの扉が開く音がして、サチと康孝は自然とそちらに目を向ける。 「待たせたね。食事の用意が整ったよ」  智哉はそう言うとソファーに座り、後からコック服のスタッフが数名部屋に入ってきた。 「さて、いただこうか」  智哉の声を合図にアミューズがサーブされる。新鮮な魚介を口に含んだサチは、奇妙な既視感を覚えたが気のせいだろうか。  次にオードブルがサーブされ、いよいよサチは声に出して智哉に確認する。 「なぜこの料理なの」 「サチこそ、なぜディップスで働いているんだい」  サチは驚く。そのことは三枝にも話していない。智哉は興信所でも雇ったのだろうか。 「サチの話を聞く限り、親の事業になんか興味もないんだろう。だからディップスの人事部長にサチの事を聞かれた時は驚いたよ。今は旭ヶ丘の店長なんだろう?」 「……どういうこと」 「経営者の名前も知らなかったのかい」  智哉は愉快そうに笑うと、康孝に一言断ってから話を続ける。 「うちの父から受け継いだ丁稚庵は漬け物や干物を扱う小規模な会社だった。そこから試行錯誤してDダイニングを立ち上げて、ディップスを展開したのが十五年前になるかな」 「……待って、それじゃあつまり、私は父さんの掌で転がされていたってこと?」 「いやいや、私はあくまでDダイニングの会長だからね。丁稚庵とディップスは子会社だから情報が入ってくること自体滅多にないんだよ。たまたまディップス本社に顔を出した時に、人事部長からサチの名前を聞かされて驚いたのは私も同じだよ」  料理を口に運びながら智哉はそう言った。  隣を見ると康孝はニコニコ笑って血は争えないねと呟く。 「そんな……」 「旗艦店を切り盛りしてるのが、まさかサチだとは思わなかったよ」  康孝に、口に合うかい?と尋ねながら智哉は楽しそうに料理を口に運ぶ。 「鞍馬さんは、サチさんになぜ連絡をなさらなかったんですか」  康孝は一言断ってから智哉にそう切り出した。 「今日、サチの口から直接聞くまでは半信半疑だったけどね、サチは私らを嫌っているとは感じていたんだ。連絡先さえ残さず、誕生日や記念日は愚か、盆も正月も帰らないだろう。何か思うところがあって家を……私たちを避けていると思ったら、どうにも腰が重くてね」  苦笑いする智哉の顔が印象的だった。  それから康孝の仕事や家族の話、他にも他愛無い会話を楽しみながら三人での食事を済ませ、食後の紅茶を飲む。 「そろそろ帰るよ」 「ああ、もうそんな時間か」  サチが言うと智哉は時計を確認して寂しそうな顔になる。それを見て苦笑いするとサチは仕事辞めようと思ってるのと切り出した。 「楽しいけど、正社員でもないし。今月なんてまだ振休が五日も残ってるの。さすがにこの歳でオーバーワークだから」 「なら本社で働いたらどうだ?」  智哉は事もなげに言うが、サチはそれを止める。 「鞍馬なんて苗字、現場じゃなければすぐに血縁者だと広まるでしょ。実力で異動の話が出るならまだしも、このタイミングでそれは嫌よ」 「そうか。で?二人はいつ式を挙げるんだい」 「お父さん!」  ワクワクした顔で智哉が康孝とサチを見るが、サチは驚いて声を荒げてそれを制す。  しかしそんな様子を見て康孝は笑うと、その笑顔のままで智哉に話し掛ける。 「そうですね。奥様が快復なさってから改めてご挨拶に伺って、その後でしょうか」  うちの父にもまだ紹介できていないのでと康孝は珍しく大和のことを話題に出す。 「ああ、お忙しいだろうからそれが良いだろうね。こんなおっちょこちょいで思い込みが激しい娘ですが、よろしくお願いしますね」 「こちらこそ。一生掛けて大切にさせていただきます。よろしくお願いします」  二人が硬い握手を交わすのを見て、サチはなんだか不思議な気持ちになる。当たり前だ。まだ付き合って三日目なのだから。
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