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「お疲れ様です!」
事務所に入ると既に田端が休憩スペースで待機していた。
「おお。親御さんの容態はどうなんだ?」
「ご心配お掛けしてすみません。全治二ヶ月くらいだそうです。検査の詳細は明日出るのでまだなんともですが」
「そうか。意識ははっきりしてるのか?」
「はい。会話も問題ありません」
そこまで確認すると田端は災難だったなと、サチに座るよう促した。
「失礼します」
断りを入れて着席すると、サチは田端に相談を持ち掛けた。
まず、契約社員の立場で今の業務を任されていることへの不満、異動が叶うなら地方でも良いのでマネージャー職と正社員への登用……これらを希望していたが、気持ちが変わったこと。
「どうして気が変わった」
「田端さん口は固いですか」
「なんだよ、面倒ごとか?」
「私の苗字、なかなか珍しいですよね」
「合コンかよ!簡潔に話せ」
田端が眉を潜めて怒った様子を見せたので、サチは言われた通り簡潔に答える。
「私、家出同然でここに勤めて十四年になります。でも今回のことで親に会うことになって……Dダイニングの会長はご存知ですか?」
「鞍馬会長だろ。ん?まさかお前」
「私も知らなかったんです。鞍馬会長は私の父です。親元を離れて一人でやれてるつもりでしたが、結局は親元で働いてたんです」
サチの言葉を遮ることなく田端は黙って話を聞いている。
「それとは別に個人的なことですが、婚約が決まりまして……今までのような働き方は難しいと思うんです」
サチの言葉に田端は目を見開いたが、確かに昼夜問わず責任感から働きに出てくるお前の働き方では無理だろうなと呟いた。
「鞍馬、俺はお前を買ってる。なんせここはうちの看板店舗だ。正社員の話はだいぶ前から出てはいるんだ。でもお前の働き方が心配でな、悪いが俺の判断でその話を止めてた」
「え、そうだったんですか!」
まさか正社員の門戸が開かれていたとは。しかも案の定、田端がそれを止めていた。やはり嫌われているんだろうか。サチはモヤモヤした気持ちで俯く。
「須賀さんから、お前はなんでも一人で抱え込むと言われていてな」
「え、須賀さんから?」
「そうだ。須賀さんはお前を東北エリアのマネージャーに押してた。まあ結局自分が行くことになったが」
「そう、だったんですか」
「それでな。須賀さんはお前の働き方を心配してたんだ。誰かに頼ったり人を使うのが下手で、なんでも自分一人でどうにかしようとするってな」
思い当たる節があり過ぎてサチはまた俯く。そんなサチを見て田端は、だから暫く的場さんに様子を見てもらってたんだと続けた。
「的場さんに?」
「そうだ。的場さんは総料理長だから本社なんかにも顔を出す。料理長ミーティングとかで不在の時があるだろう?」
「はい。会議は面倒だっていつもこぼしてます」
「だろうな。あの人は根っからの職人気質だからな」
田端はそう言って笑うと、話が逸れたなと真面目な表情に戻ってサチを見据えた。
「的場さんにすら、お前は頼らないし相談もしないらしいじゃないか」
「いや、確かに正社員の大先輩ですけど板場長としてお忙しいですし」
「それでもここはお前がトップの店だろう。それにお前、最近こそ休むらしいが、的場さんは休ませて、土日や祝祭日に率先して仕事してたらしいじゃないか」
田端は頭を抱えて、俺にとってもお前は問題児だよと溜め息を吐き出した。
「飲みに誘っても来やしないし、愚痴も溢さない。そんないっぱいいっぱいのやつに、どうやって次の仕事を回すべきか、お前だってそんな不安定なやつに仕事任せないだろ?」
「私、田端さんに嫌われてると思ってました」
「なんでだよ!」
「そういう切り返しです」
須賀さんに慣れてたのでとサチが返すと、田端は頭を抱える。
「そりゃ須賀さんと俺は違うからな。しかも関わった時間だって違う。それにお前こそ、エリア会議の後の飯に参加したことないだろう?他の店長連中も困惑してんだよ」
「それは……すみません。シフトが回らないことが重なったり理由は色々ですが店を優先したら打ち上げにまで顔が出せなくて」
「そういうところだ。今日のこともそうだが、お前、俺が言わなかったら見舞いの帰りに普通に出勤するつもりだっただろ」
「……はい」
「そういう時は、上司の俺にちゃんと相談をしろ!何のためにお前のリカバーする立場の俺が居ると思ってるんだ。統括管理だけが俺の仕事じゃないんだよ。お前らを守ってやるのも仕事の内だ」
「すみません」
意外な田端の言葉に驚きながらも、サチは頭を下げた。
「で、だ。結婚するにしろ、働き方を変えて続けることも出来る。そう出来るように俺も尽力してやる。でも退職の意向に変わりはないのか?」
「はい。先ほど報告した通り、経緯はどうあれ本社の人事部でも会長の娘の私が働いていると噂が出ているらしく、この機会に仕切り直した方が良いかと思ったんです」
「そうか。まあおかしな噂話の火種になってもお前も本意じゃないだろう。しかしお前が辞めるとなると痛手だな。働き方にはまだまだ問題があるが」
「田端さん……」
「なに驚いてんだ。力量があるから旗艦店の店長任されてるんだろ。他が軒並み売り上げを落とす閑散期もここはほぼ影響がない。それはなにも立地や店舗の造りだけが影響してるわけじゃない。実際クレームもほとんど出ない店だからな」
他の店舗で俺がどれだけ頭下げて回ってるか知らないだろと、田端は困憊した様子で戯ける。
「とにかくお前の要望はわかった。営業部長に報告するが、家のことは黙っといてやる。だから形式上は寿退社で話が出回ることになるぞ、それで良いか?」
「はい。なんかそれはそれで複雑ですが大丈夫です」
「全く、最後の最後で頼ってきやがって。遅いんだよお前は」
「それは本当に申し訳ないと思ってます」
サチは再度田端に頭を下げると、今後の流れについて相談した。後任との引き継ぎ、残っている有休はどうするか、後任が決まるまではどんな形で勤務を続けるかなど、メモを取りながら要点をまとめていく。
「あ、田端さん」
「なんだ」
「フロアリーダーの館林なんですけど、契約社員に上げられますかね。前から本人に打診はしてるんですが、働きぶりは申し分ないです。田端さんからも声を掛けてやって貰えますか」
「お前が認めてるスタッフなら大丈夫だろ。的場さんにもヒヤリングはするが、安心しろ。声は掛けるよ」
「ありがとうございます!」
「それより、他の店舗からお前の後任を回すとなると……」
田端は話を再開して、店舗の運営状況をサチと共有する。
四十分くらい話し込んでいただろうか。
コンコンとノックする音がしたと同時に、お疲れ様ですとスタッフ数名が入ってきた。
「あ!店長。どうしたんですか?」
学生の電車通勤組が上がってきたらしい。
「ちょっとマネージャーと打ち合わせ。あ、本郷。お前またシフト出してないでしょ!週五でぶち込むよ〜」
学生のうちの一人をひっ捕まえると、頭を両側から挟んでグリグリと締め付ける。
「出す!出します、今出しますから!」
「メッセージで良いから今日中にね。電車乗り損なったら大変だから、早く着替えて帰りなさい」
サチが掌をブンブン振ると、お疲れ様ですーと笑いながら更衣スペースに引っ込む。
「お前、シフト作りに出勤してくるなよ」
田端に言われて、サチは慌てて休みます!と答える。
「もう仮組みしてあるので、的場さんと、館林に残りは任せてみます。振休取り損なうのはまずいので」
休み明けに確認して、指示出せるように任せますからと必死に訴えると、田端は呆れたように溜め息を吐き出した。
それから更に二十分ほど引き継ぎ絡みの話をまとめると、クローズ作業が残ってるからと田端が立ち上がった。
「タクシー代いるか?」
「大丈夫です!」
「そうか。ま、今度エリア会議の後でゆっくり話そうや。出来ない話は別の席設けてもいいし。思い残しのないようにしたいだろ」
「もちろんです」
「おう。ならもう今日は帰れ。しっかり休んで親御さんのこともあるから無理はするなよ。いつでも連絡してこい」
じゃあ気を付けて帰れよと田端はフロアに出て行った。
「ふぅ……」
サチはゆっくりと息を吐き出すと、どっと押し寄せた疲れで机の上に倒れ込む。
「あーーー」
形式上は寿退社。田端の言葉を思い出し、気恥ずかしさと困惑で頭がいっぱいなる。
「あ、康孝さんに連絡しないと」
事務所の奥を進み、段ボールが積まれた短い廊下を抜けて二重扉を開けると従業員出入口から外に出る。
「もしもし?」
『話は終わったの?』
「うん。ごめんね。カフェに行けば良い?」
『大丈夫。すぐ出るから車のところで待ってて』
そう言うと康孝は電話を切った。サチは言われた通り駐車場で康孝を待つ。
「あれ?店長来てたんですか?お疲れ様です」
振り返ると紗季がペコリと頭を下げて笑顔を見せた。
「紗季ちゃん!お疲れ様。今日は大丈夫だった?」
「はい!館林さんがフォローしてくれて、なんとか」
苦笑いから一変して、頬を赤らめると店長!と大きな声を出した。
「どうしたの?」
「か、彼氏さんですか?」
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