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「……あの、お客様?」
膝を折る形で顔を覗き込んでくる彼に、サチはずっと放心していた自分に気が付いた。
「へ、あ!すみません」
うっとりと見つめてしまうとはこの事だろう。三十年以上生きてきたが、雑誌や画面の中以外でこんなにも整った顔立ちの人をサチは見た事が無かった。
おまけに自分の背が高いので、自分よりも背が高い男性をあまり見かける事が無い。それとも心地好いソファーに座っているから大きく見えるだけだろうか?
手から落ちそうになっていたメニューを改めて開くと、慌てて注文をする声が上ずってしまう。
「あ、えっと。このほうじ茶ラテと、根菜と鶏肉のサラダ御膳をいただけますか」
引き戻されるように目線が彼の方に行ってしまう。すると視線が絡んでにっこりとした満面の笑顔が返ってくる。
「かしこまりました。ほうじ茶ラテはアイスもお出しできまえすが、如何なさいますか」
「あ、いえ。ホッ、ホットでお願いします」
「お飲物はいつお持ちしましょうか?」
「先に、お願いします」
サチの不躾な視線に動じる事も無く、彼は優しい笑顔を浮かべたままで注文を順当に確認していくと、伝票などに書き込む様子も無く階段下へ降りて行った。
「な、何なの?」
サチは咄嗟にカメラを探して辺りを見渡す。普段テレビを滅多に見ないサチは芸能関係の事には疎い。もしかしたら彼は有名人か何かで、素人の驚くさまを録画しているのではないかと考えたからだ。
傍から見れば完全な不審者だが、眉間にしわを寄せながら暫くキョロキョロと視線を巡らせるサチは真剣だった。
「なに?ドッキリかなんかなの」
大きめの独り言を呟いて首を捻る。当然だがカメラの様な物は見当たらない。
「え、なにこれガチなの」
ハッキリ言ってサチの男運は悪い。
本気で恋をした事が無い。いや、もっと解り易く言えば、誰かを真剣に好きだと思った事がこれまで一度も無いのだ。
学生時代は女子高だった事もあり、男性との接点はほとんどなかった。もちろん友人は沢山居たが、恋愛に発展する事はほとんどなかった。
今の仕事に就いてから職場内で恋愛に発展するような出会いも無かったし、たまにお客様から熱烈なアプローチを受けては、私なんかで良ければと、安易に付き合い始めてしまう事があった。
そうなると相手を好きになろうと努力はしたのだが、元々恋愛に対して希薄なため付き合いが淡泊になる。
それがラクだと云う人も居れば、冷たいと去っていく人も居た。後者はまた良いが前者は楽だからという惰性の関係なので相手にするのが疲れる。よって切り捨てて来た。そういった経験から、結果として恋に対してあまりいいイメージが無い。
そんなサチが珍しくも一目惚れを体験してしまったのだ。いや、これが恋などの感情と呼べるか分からないが、見ただけで震えが来たのは初めての経験だ。
そうやってグルグルと思考を巡らせている内に随分と時間が経ったのか、ふと人の気配を感じてサチはそちらを見る。
「あ、え!」
視線の先には男性が立っていた。トレーにほうじ茶ラテを乗せて。
「いえ、何か考え事の途中のようでしたし、寛いでおられるのを邪魔してもいけないかと思いまして」
「あ、いや!別にそんな大したことじゃないんで!」
思わず声を張り上げる形になってしまい、サチは自分でも驚くほどの大声を出してしまった。
「はは、そうなんですか?だったらよかった。はい、ほうじ茶ラテです。熱いですから気を付け下さいね」
余程サチの反応が面白かったのか、彼は愉しそうに笑い声をあげながらテキパキとセットしたコースターにドリンクを置くと、温かいおしぼりを手渡してくれた。
「眉間にしわを寄せてらしたんで、何か随分思い悩まれてるのかと」
「いえいえ、どっかに隠しカメラがあって騙されてるんじゃないかと……」
「え?」
「あ!いえ、独り言です」
「面白い方ですね」
「ごめんなさい」
急に肩身が狭くなり、小さくなってサチは恥ずかしさで赤らんだ顔を隠すように俯いた。
「温まりますよ。お食事はもう少しでお持ち出来ますので、お待ちくださいね」
急に屈んだかと思うと、その時なぜか彼は肩を撫でるように触れ、そこから流れるような動作でドリンクをコースターからサチの手に握らせ、その手を両手で包み込んだ。
「この時間から冷え込みますからね」
にっこりと破壊力抜群の笑顔を至近距離で見せつけられ、あまつさえ手は優しく握り込まれたままである。
―――ちょ!近い近い近い!おかしい!おかしいっ!
緊張が最高潮のサチとは裏腹に、彼は一連の動作をこなすと笑顔のままで次はお料理をお持ちしますね。と何事も無かったようにその場を去っていく。
「不意打ちの破壊力考えてよっ!」
まだ肩と手に残る温もりに、サチはもんどり打ちそうになるのを必死でこらえ小声でそう叫んだ。
心臓がバクバクと音を立てる。
それなりに男性経験はあるし、見目のイイ男性と付き合ったことだってある。確かに先程の彼は自分の知っている中では群を抜いて男前だが、何といっても所作が予測不能で対処に困るのだ。
「接客業だからって、ここまでやる?」
―――ホストかよ。
心の中で悪態付いて、やっとのことで手元を温めていたほうじ茶ラテに口を付ける。
「やだ、おいしい!」
じっくりと炒ったのであろう茶葉のほろ苦さ、芳ばしいお茶の香りが鼻からスッと抜けてゆく。ミルクはあっさりとしていて甘ったるさが無い。ごくごく飲めそうでこのままでは一気に無くなってしまいそうだ。これは料理にも期待が高まる。
ワクワクする気持ちを抑えて、バッグから本を取り出すとしおりを挟んだページを開き文字を追う。
【お稲は、仄暗い海の様な静かな焔を眼に宿していた】
大好きなシリーズの主人公、お稲の作品には必ず出てくるフレーズで、瞳の中に宿る信念や意志を炎に喩えた一文に、サチは心が躍る。
サチがよく読むのはこの手の時代小説だ。史実に基づくストーリーではなく、町人文化やその時代の背景を切り取った物語が多い。今日はお気に入りのシリーズの新刊を持ち出していた。
「あー。江戸時代に行ってみたいな〜」
小説を読みながら、登場人物に思いを馳せてうっとりしたように呟く。そうやって独り言を散りばめながら、紙をめくること数ページ、階段を上がってくる足音が聞こえてきた。
「お待たせしました。根菜と鶏肉のサラダ御膳です」
にこやかな表情のままトレーごと配膳される。クラクラする笑顔に参ってしまいそうなので、サチは彼から視線を外すのが精一杯な状況になる。
「ありがとうございます」
「あれ?」
運ばれてきた食事に手を付けようとしたところ、彼が驚いたように声を出した。
「え、なんですか?」
「あ、いえ。すみません。それが気になって」
「……それ?」
訝しむサチに対して、彼は笑顔のまま、テーブルに置かれた小説を指さした。
「それ、面白いですか」
なぜだろう。困った様な表情を浮かべている。彼が何を思っているかは分からないが、サチは正直にこの作家のファンだと話した。
「面白いですよ。私、時代小説だったら北条大和さんばっかり読んでます」
「お好きなんですね、ありがとう御座います」
「はい?」
突然礼を言われてサチは困惑する。
北条大和は今年還暦の小説家で、顔出しもしているし、サイン会にも何度か行っているが、宣材写真の人物で間違いない。なぜ彼が礼を言うのだろう。
「あ、突然すみません。北条大和は僕の父なんです」
「……え!?」
「だから、なんだかこんな若い女性に読んでいただいてる事に驚きが勝ってしまって」
「え、いやいやいや」
若い女性でもないし、そんな事よりも彼が北条大和の息子である奇跡に驚きを隠せない。サチは本当に北条大和の作品が大好きで、本棚には初期の賞を取った作品から最近の物に至るまでコンプリートしている。
「あの北条大和がお父様なんですか!」
「たぶん、その北条大和で間違いないですよ」
あははと笑って彼はソファーの近くに跪くと、興奮しているサチを見てそんなに凄い事ですか?と話し込む姿勢を取った。
「いや、神ですから!凄いですよ。私本当に大好きなんです!」
息継ぎもせずにそこまで言い切ると、サチは呼吸を整えて再び話始める。
「特にこのお稲さんのシリーズが本当に大好きで、ああ!感動です」
十本の指をこれでもかと広げてブンブン振り、一見するとアタマの悪いリアクションになってしまう。しかもその後目を閉じて両手を合わせて拝むようなポーズまで取る。
そんなサチの様子を、本当に愉快そうに眺めながらも、彼はどこか複雑そうに視線を落とした。
「あ、ごめんなさい。はしゃいでしまって」
「いえ、こちらこそすみません」
何だか妙な空気になってしまった。
サチが知る北条大和は確か家族の事を書き綴ったエッセイも書いている。そこでふと違和感を覚えた。
「え、でも北条さんって……」
―――娘さん二人では?確か下のお嬢さんはまだ高校生だったような。
ファンゆえに知っている事なのだが、北条の書くエッセイには姉妹しか登場しない。サチはそれを思い出したのだ。
「そうです。あまり知られてませんが、北条大和は離婚歴があってね。僕は最初の妻の息子です」
「え、あ。え!」
「隠し子ではないですよ」
イタズラっぽく笑うと彼は思い出したように、パンと手を叩いた。
「そうそう。自己紹介がまだでした。ようこそいらっしゃいませ。僕はここの雇われ店長の北条康孝です」
「ほうじょう、やすたかさん」
「はい」
親権は父が取りましたが父は子育てには不向きな仕事でしょう?母は帰国してしまったので僕は父の弟夫婦に育てられました。そう淡々と康孝は語る。
急に深刻な話になりトーンダウンする内容だが、サチはちょっと抜けたところがあるので別のところに反応してしまう。
「北条って本名なんですね。カッコいいからペンネームだと思ってました!」
「あれ、そう来ます?」
深刻な空気もどこへやら。サチの反応を面白がって康孝が突然爆笑する。その笑顔の殺傷力は絶大だ。
「いやいや、溶けるからっ」
「え?何がですか」
「いや、独り言です」
「……ハハハ!」
俯いて肩を揺らして康孝が笑っている。
「なんか、ごめんなさい」
「いえ、そう云った反応が返って来るとは思わなかったので新鮮で、こちらこそ」
まだ笑いを堪えている様子はあるが、康孝は優しい笑みを浮かべてサチを見ている。その眼差しはまるでレーザービームなのだが、康孝は気にする様子も無くのほほんと微笑んでいる。
「くっ」
思わず眉間に手を当てて苦悶の表情を浮かべるサチに、康孝は大丈夫ですか?とトンチンカンな受け答えをする。それは当然なのだが、原因は彼自身なのだ。それが分かっていないがゆえ、彼はサチの背に大きな手のひらをあててさするような仕草を見せる。
「ひっ!」
サチの口から小さな悲鳴が飛び出す。暖かくて、少し骨ばった大きな手のひらで背中を優しく撫でられる。
三十二の自分がまるで女学生に戻ってしまったかのように、恥ずかしさでどんどん顔が赤くなるのを自覚した。
「ああ、ごめんなさい突然撫でてしまって」
そう言って康孝は何事も無かったように、どうぞごゆっくりお召し上がりくださいとその場から去っていく。
―――だから、マジでホストか!
実際にホストクラブに行ったことは無いけれど、なんとなくイメージでそう思う。
ボディタッチだけでもちょっと強張るが、それに加えてあの容姿である。またにっこりと笑った康孝の顔を思い出してしまい、サチはひとりクッションを抱えてもんどり打ってしまった。
有り難い事に、今座っているテーブルは観葉植物などが目隠しになっているため、下からはすぐには見えない席だ。そして二階には当然だが他の客はいない。
「よし、落ち着け!食べよう」
色々な要素で振り切ったテンションを鎮めようと声に出して箸を取った。
ご飯は雑穀米。ほんのりと塩味がして噛むほどに甘味が増し口当たりが良い。次に根菜と鶏肉のサラダだ。香草焼きのグリルチキンと蓮根やごぼう、他にも人参や大根など色々入っているが、これらにビネガーが効いたマヨネーズ風のドレッシングが絡めてある。
「ん~!美味しいっ」
今更ながらはお腹が空いていたことを思い出して、黙々と箸を進める。
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