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「……サチ」  康孝に呼ばれたような気がしてサチは目を開ける。部屋の中が暗い。  開いていたはずのカーテンと窓が閉まっている。康孝が閉めたのだろうか。  相変わらず倦怠感はあったが、眠ったおかげでずいぶん楽になった。  サチは身体を起こすとサイドテーブルのランプをつけて時間を確認する。五時四十分。 「あれ……ベッド六時に届くって言ってなかったっけ」  未だボーッとする頭を抱えて、サチはベッドから立ち上がる。寝室の引き戸を開けるとリビングからキーボードを叩く音がする。 「康孝さん、おはよ」  サチは声を掛けるが康孝から返事がない。よく見るとイヤホンをして作業をしているようだ。  作業の邪魔かと思ったが、ベッドのこともあるので、康孝の肩を叩くと改めておはようと挨拶する。 「あれ、もう起きたの?」 「もう五時四十分だよ」 「うん。そろそろ声を掛けようと思ってたんだ。身体は平気?」  イヤホンを外しながらサチの様子を伺う。 「大丈夫だよ。いつもなら普通に仕事してるし、本当にメンタルと体力の限界が重なっただけ」 「そう?あ、お茶で良いかな」  サチに座るように言うと、康孝は立ち上がって冷蔵庫を開ける。 「食欲あるならプリンがあるよ」  そう言ってグラスに注いだお茶をサチに渡すと、ベッドの準備してくるねと今度は寝室に向かった。  サチは目を擦りながら康孝が入れてくれたお茶を飲む。そういえば昼ご飯も食べずに眠っていたことに気が付いてお腹が鳴った。 「康孝さん、ベッドどうやって出すの?」  サチはソファーから立ち上がると、寝室に顔を出す。  康孝はシーツを剥がしたマットレスをクローゼットに立て掛け、ベッドを横にして玄関口に持ち出す途中らしい。 「先にこれを回収してもらって、新しいベッドを入れてもらう手筈になってるんだ」  そう言う手には雑巾が見える。ベッドを拭いたのだろうか。 「もしかして掃除してくれたの」  すっかりそのことを失念していたサチはごめんねと謝るが、康孝はお別れの儀式を横取りしてごめんねと笑って返してきた。  そうこうしているうちにインターホンが鳴った。業者が来たみたいと康孝が応対している。  サチはリビングの引き戸を閉めてソファーに座る。カーテンが開いたままのベランダを見ると、どうやら洗濯物も康孝が取り込んでくれたようだった。  人の出入りする音が何度か聞こえたかと思えば、程なくして康孝がスタッフを送り出す挨拶をしている声が聞こえてきた。 「どんなベッド買ったんだろ」  サチが独りごちるとリビングの引き戸を開けて康孝が入って来た。 「搬入完了。カバーも掛け布団も新しいよ。見てみる?」 「見る見る、楽しみ」  すぐに立ち上がって寝室に向かう。 「じゃじゃーん!ダブルだよ」 「おお!凄い。いい感じに広さもあるけど圧迫感がない」  サチはベッドに飛び乗ると、ゴロゴロと寝返りを打って遊ぶ。 「クイーンサイズと迷ったんだけど、普段使うのはサチ一人だし、二人で寝るにはセミダブルだと狭いからね」 「康孝さんのセンスに任せて良かった」 「それは良かった」  ゴロゴロ転がるサチにまだやるのと笑い掛けると、お腹空かない?と康孝が尋ねる。 「空いた!」  パッと顔を上げてサチがベッドから起き上がると、何が食べたい?と康孝は腕を捲った。 「そういえば康孝さんはお昼食べたの?」 「いや、物音を立てないようにしてるうちに俺も集中しちゃって食べてないよ」  冷蔵庫を覗きながら、何が良いかなと康孝は顎に手を当てる。 「そんな気を遣わなくていいのに」 「体調不良と疲れが溜まって、やっと眠ったのに起こすようなことはできないよ」 「ありがと」  後ろから康孝をハグすると、がっつりお肉とかどう?と一緒になって冷蔵庫を覗き込む。 「肉か。ステーキ、焼き肉、ハンバーグ。メンチカツとかでも良いかもね」  冷凍庫を開けて確認すると、メンチカツと角煮を作ろうかなと材料になる肉を取り出してシンクで手を洗う。 「凄い豪華だね。でも角煮って時間掛かるし大変じゃない」 「蜂蜜はある?」 「あるよ」  サチはそう言って棚から蜂蜜を取り出すと康孝に渡す。 「これがあれば三十分くらいで出来るよ」  レンジで作るなんちゃって角煮だけどねと康孝は笑うと、支度に取り掛かった。  サチは康孝から手伝わなくて良いと言われたので、その間に北条の新刊に目を通すことにした。  本当は康孝のミステリの続きが気になったが、もしこの流れで北条と顔合わせをする事になった場合、サインまで貰ったのにまだ読んでもいないのはあまりにも失礼だと思ったからだ。  北条の新作は、表向き魚売りを生業にする気の優しい二兵衛が、裏で悪を懲らしめる勧善懲悪ものだ。他の作品のスピンオフのように見知った登場人物が顔を出す。これも北条作品の見どころだ。  読み進めると黒幕が明らかになり、二兵衛の裏稼業がピンチに追いやられハラハラする展開で話が進んでいく。難敵を相手にどう挑んでいくのかワクワクしながらページをめくると、そのタイミングで康孝がサチを呼ぶ。 「めちゃくちゃ楽しそうなところ悪いんだけど、ご飯冷めちゃうから」  康孝は苦笑いしてサチを手招きすると、ダイニングテーブルには、揚げたてのメンチカツと照りのある角煮が盛り付けたら皿が並んでいた。 「うわ〜贅沢過ぎる」 「食べてみないと分からないよ」  康孝は笑いながらご飯をよそうと、飲み物はどうする?とサチに尋ねる。 「私は薬飲むからお茶にするけど、康孝さんは気にせずビール飲んで良いよ」 「俺もまだデータの送信が終わってないから、今はお茶が良いかな」  そう言うと康孝は冷蔵庫からお茶を取り出してグラスに注ぐ。 「じゃあいただこうか」 「いただきます!」  サチはメンチカツにかぶりつくと、サクサクの衣の中から肉汁が溢れ出す。 「んっ!美味し〜」  サチが顔を綻ばせると、康孝は安心したように良かったと笑う。  角煮も康孝好みの濃い味付けだが、トロトロの脂身は意外とさっぱりしていて、ジュワっと旨味が口の中に広がる。  体調が悪くなければビールを飲みたいが、そこはグッと堪えてお茶で我慢する。  食事中はなんとなくお互いの子供のころの話になった。どんな遊びが流行ったとかゲームソフトの話になると共通点もあって面白かった。  楽しい食事をあっという間に終えると、サチは片付けを申し出たが康孝に却下される。  仕方がないので康孝に片付けを任せると、サチはリビングに戻って読書を再開した。 「やっぱり面白いの?」  片付けを終えた康孝がグラスに入れたお茶を持ってくると、サチの手元に視線を移して尋ねてくる。 「うん。盛り上がってきた!」  サチがにこやかに答えると、康孝は楽しんでと頭を撫でてパソコンを立ち上げる。  康孝がキーボードに指を走らせる音は心地好く、静かな部屋の中で別のことに没頭しながら一緒に過ごすことにも少し慣れてきた。  しばらく無言のまま、互いに違うことに集中する。どれくらい時間が経ったか分からないが、サチが本を読み終えたタイミングで康孝は大きく伸びをした。 「康孝さん、もしかして終わったの」  本を閉じて視線を移すと、首や肩を回して凝りをほぐすような仕草で第一弾はねと康孝が笑った。 「わー。お疲れ様」 「サチは?もう読み終わったの」 「んーもう最高!北条節炸裂の勧善懲悪だった」  スッキリしたとサチがにこやかに言うと、本当に大ファンなんだねと康孝が笑う。 「いまさら嘘でしたとか、そんなわけないでしょう」 「だよね」  二人で声を出して笑うと、康孝が風呂に入りたいと言うので、シャワーで浴槽を軽く洗ってからスイッチを押して湯を張る。 「貯まるまでしばらく掛かるよ」 「じゃあトランクケースを今のうちにクローゼットにしまおうかな」  リビングの端を指差すと、出しっ放しの荷物を片付けたいと康孝が言った。 「何か手伝える?」 「チェストに空きはあるかな。畳んで入れておきたいものを入れても良い?」  あと資料も結構あるんだと康孝が言う。 「うん。じゃあ寝室に行こうか」  サチは衣類の入った袋を康孝から奪うと、トランクケースは任せたと言って先に寝室に行く。 「あ……マットレス」  サチは一旦ベッドの上に袋を置く。 「そうか。これがあるとクローゼットが開けられないね。夜のゴミ出しって大丈夫かな」 「多分大丈夫だと思う」  サチはリビングに戻ってシートに名前を書き込むと、剥離紙を剥がしてマットレスに貼り付ける。 「じゃあ俺はこれを出してくるね」  そう言うとマットレスを抱えて康孝は玄関から出て行く。  サチはまずクローゼットを開けてトランクケースを入れるスペースを作る。  トランクケースの中に資料が入ったままだと言っていたので、本棚も整頓して資料が入る分のスペースを空ける。  玄関を閉める音がしてサチは視線を向けると、戻ってきた康孝が入れ替わりで本棚に資料の書籍をしまい、空になったトランクケースをクローゼットのスペースに入れ込む。  袋の中身をベッドの上に広げると、ジャケットやズボンはハンガーに掛け、風呂上りに着替えるものだけを除けて他はチェストを整理して一番上の段にしまった。 「あ、もうお風呂のお湯貯まってる思うよ」 「じゃあ入ろうかな」  一緒に入る?と康孝は尋ねるが、サチはたまにはリラックスしなよと笑って一人で入るように答えた。 「バスタオル出すね。あ、入浴剤使う?」 「子供のとき以来使ったことないかも」 「洗面台の下にあるから好きなのどうぞ」  そう言い残してサチはリビングに戻り、康孝の小説を手に取った。  風呂場からシャワーの音が聞こえてくる。最初は違和感があったそれにも慣れてしまった。サチはそんな自分の順応同化能力に驚く。  しばらくするとその音すら気にならなくなって読書に集中してページをめくる。康孝の小説は短編が五本ほどで成り立つミステリだ。  テンポよく事件が解決していくが、人間関係などの描写は丁寧で、単話が完結しても飽きることがない。  サチはあっという間に一巻を読み終えた。 「気を遣って読まなくても良いのに」  風呂から上がった康孝は、開口一番複雑そうにそう言って冷蔵庫からビールを取り出した。 「何言ってんの。面白くてもう一巻読んじゃったよ」 「読むの早いね」  サチの隣に座ると、康孝は驚いたようにそう言って、珍しく缶のままビールを口にした。 「そうかな。テンポも良いし読み易いからじゃない?」 「そう言われると悪い気はしないね」  康孝はサチの腰を抱き寄せて髪にキスすると、またビールを飲んだ。 「次に書くのは恋愛小説の続編なんだよね?」 「そうだよ。恋愛小説だけど悲恋ものでね、主人公はヒロインと引き裂かれるように身を引く終わり方にしたんだ」 「ああ、だから救済編を読者が求めてる感じ?」 「うん。切ないから報わせてあげてくださいって感想が多かったみたいで。女性がたくさん読んでくれてるみたい」 「へえ。今度そっちも買お」  サチはウキウキしながらそう言うと、康孝がそれならあげるよと答える。 「ダメだよ。ちゃんと買って貢献しないと」 「サチらしいね」  康孝は愛おしそうにサチの髪を撫でる。 「そう言えば、ペンネームはどうして?」 「んーなんとなく。本名でも良かったけど親父の仕事だしね。それで騒がれたら嫌だったのもあるかな」  実は未だに編集の人も俺が息子とは知らないからねと康孝は笑う。 「そうなの?本名からバレそうなのに」 「まあ、サチも知ってる通り親父の本に俺は出てこないし息子が居る認知度自体低いんじゃないかな?」  康孝はまたビールを飲むとサチを抱き寄せる腕を強めた。 「ペンネームはどうやって決めたの?」 「紀子叔母さんの旧姓と、子供につけたかった名前をもらった」 「そうなんだ!じゃあ叔母様も息子の活躍が楽しめるね」  凄く素敵な親孝行じゃないとサチが肘で康孝を突付く。 「でも、一本じゃ食えないからカフェの店長なんだけどね」  康孝は苦笑いしながらそう答えた。 「良いじゃない。叔父様のお店も手伝って、小説も書いて、それって凄いことだよ」 「サチだってお父さんの系列店、しかも大きな店の店長なんだから凄いじゃない。ゆくゆくは経営を任されたりして」  康孝は笑いながら恐ろしいことを言う。 「ないない。たかが現場の一契約社員よ」  ブンブンと手を振って否定すると、怖いこと言わないでとサチは笑った。  しばらくそんな他愛無い会話をしながら、康孝はビールを飲み終えると、思い出したようにサチに尋ねる。 「そういえば、サチは風呂に入らないの?」 「そうだね。入ってこようかな」  立ち上がって追い焚きのスイッチを押すと、風呂に入る支度をする。
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