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仕事を辞めると決めてからは目まぐるしく時間が過ぎた。表向きは寿退社になっているので、どこに行ってもよくからかわれた。
そんな中、須賀の出張のタイミングで的場と須賀の三人で飲んだ時に、二人には本当の事情を話した。グループのご令嬢だったのかと二人とも驚いていたが、辞めることを惜しんでくれた。
田端を含めて、エリアの店長などとも飲みに行った。意見交換ではやはり旗艦店長だと感心される場面もあった。
今までこういった飲み会に参加しなかったことを詫びたが、田端から聞いていたのか、仕事を優先してのことだと皆気にしている様子はなかった。
なかなか後任が決まらず停滞していた店舗での引き継ぎが始まると、スタッフから送別会の声も掛かった。有難いことにほぼ全員が参加したいと声を上げたため、四回も飲み会に顔を出すことになった。
そしてサチは約二ヶ月ほどの勤務を終えて有休消化のため休みに入ることになった。
「えー、本日を以ちまして最終勤務となります。皆さんのような元気なスタッフに恵まれて楽しく仕事に励んで来れました。ありがとう御座いました」
最終日は通しで店舗に勤務した。田端は苦笑いしたが、出来るだけ多くのスタッフに直接挨拶がしたかったからだ。
たくさんの拍手と、後任の中森からお疲れ様でしたと労いの言葉と花束を受け取って、サチは店舗を後にした。
「あー。疲れた」
迎えに来ていた康孝の車に乗り込むと、サチは脱力してシートにもたれた。
「お疲れ様。大変だったね」
サチにシートベルトを締めるように言うと、康孝は店舗の駐車場からゆっくりと車を出した。
「いやーこの二ヶ月ちょいは、めちゃくちゃハードモードだったわ。特に本社に顔を出した時にお父さんと遭遇したのは最高に気まずかった」
「ああ、言ってたね」
ご結婚おめでとう。でしょ?康孝は笑いながら慣れた道を走り、今日はサチの家で良いんだよねと確認する。
「うん。ごめんね忙しいのに迎えに来てもらって」
「俺がしたくてやってるから気にしないで」
サチの頭を撫でると、泊まって良いんだよねと康孝が確認する。
「大丈夫だよ。忙しくて部屋はちょっと散らかってるけど」
「本当に、なかなか会う時間もなかったもんね。飲み会にたくさん顔出したんでしょ?」
「凄い勢いで康孝さんのこと聞かれた」
「はは。表向きは寿退社だもんね」
「今時結婚するくらいで辞めないでくださいって、いろんな人に言われたよ」
「サチの周りでは俺は悪者みたいだね」
「本当に悪いと思ってます」
両手を合わせて拝むように謝ると、そう言えば、とサチは話し始める。
「紗季ちゃん覚えてる?」
「ああ、あの小動物みたいな子」
「そうそう。就活でうちの会社が第一志望なんだって」
「そうなの?」
「店長みたいになります!って息巻いてた」
紗季の真似をしながら康孝に伝えると、田端にそれを伝えておいたけど受かるといいなとサチはこぼした。
「そうか。受かると良いね」
康孝は優しい笑顔を浮かべてサチの話を聞いている。
最終日は泣かれたり抱きつかれたりバタバタした。常連客の中にも寂しがる人もいた。
帰りの車中でサチは興奮冷めやらぬ様子で話し続けた。
見慣れたマンションが視界に入ると、康孝はマンションの駐車場に車を停める。
「はー。本当に終わったんだなぁ」
シートベルトを外すと、ボソリと吐き出して車を降りる。
「寂しい?」
「どうだろ。有休があるから退職はまだ先だし実感は薄いかな」
階段を上がりながら会話すると、サチは花束を康孝に預けて鞄から鍵を取り出して扉を開ける。
「お先にどうぞ」
「お邪魔します」
部屋に入ると、康孝は先にビジネスバッグをリビングに置くと、手を洗って花瓶はあるかとサチに尋ねた。
「その棚の下の段にあるはず」
玄関を閉めて部屋に上がると、棚の下の段を開けて花瓶を取り出す。
康孝は花を生ける準備をし始めたので、サチはリビングの電気をつけ、鞄を置くと洗面所で手を洗った。
「康孝さんビール飲む?」
冷蔵庫を開けながらつまみに目星を付けてサチが康孝を振り返る。
「いただこうかな」
綺麗な花束だね。康孝はそう言ってダイニングテーブルに花を飾った。
グラスにビールを注いで乾杯すると、花を見ながら冷蔵庫から取り出したスモークチーズや生ハムなどをつまんだ。
「明後日だっけ?お母さんの退院」
「うん。てことは、集まるのはもう来週か」
「母さんと叔母さんが張り切っててね」
「ごめんね。その辺りも任せっ放しで」
両家の顔合わせのためのカジュアルな食事会のことだ。
ラスボスこと大和に挨拶が出来たのは仕事が立て込み始めた二ヶ月ほど前に遡る。
サイン会で康孝の名前が出た時点で気が付いていたと、開口一番大和は笑った。
大和曰く、華が綻ぶような笑顔だったと言い、康孝もまたサチに同じ想いを寄せていることに気が付いたらしい。自分の息子だと言いたがらない康孝が名乗ったくらいだからねと大和は楽しそうに笑っていた。
「いいよ。親父が言い出したことでサチのご両親に迷惑掛けるけど」
「全然。お母さんの快気祝いも兼ねてくれるって、そこまで気を遣ってもらっちゃって」
大和はイネスも日本に居るなら、すぐに親御さんに挨拶がしたいと言った。
真知子が入院している状況を伝えると、後日、大輪の花束と挨拶状が届いたらしい。
智哉と大和は先に飲む席を設けて意気投合し、結局、真知子が退院したら家族八人で食事会を開くことを決めてしまった。
「スピード感がエグいよね」
「反対されるより良いんじゃない」
「まあね」
サチは苦笑いするとビールを飲み、そう言えばと康孝に尋ねる。
「仕事の方はどうなの?」
「だいぶ進んだかな。サチに合鍵もらってたから、母さんも回避できたし。もう少しで書き上がるよ。まだチェックは入るだろうけどね」
「じゃあ紀子さんがずっとお店に?」
「うん。期間限定の定食とか出したりして好評らしいよ」
康孝は冷蔵庫から新しいビールを取り出して、サチと自分のグラスに注ぐ。
「サチは?次の仕事どうするの」
「んー。お父さんからは入籍して名前が変わったらディップスの本社で働かないかって言われてる」
「まあ、サチの経験値を考えたら欲しい人材ではあるだろうね」
「さすがに身内贔屓だけでは判断しないと信じてる」
「戻る気はあるの?」
「どうかなー。正直考え中」
それより康孝さんと入籍する方が先だしねとサチは笑って続ける。
「式を挙げるとなるとお祭り騒ぎになりそうだよね」
「食事会だけで大騒ぎだもんね」
康孝はスモークチーズを頬張ると困った顔でビールを飲む。
「四ヶ月前には考えもしなかった世界にいるわ」
「それは俺も思う」
二人で声を揃えて笑うと、しばらく食事会についての確認をし合った。
場所は既に決まっていて、小さなホテルを貸し切って会食する予定だ。
どちらも飲食に関わる仕事のため、康孝の友人が経営する別荘地にあるホテルを会場にすることで話がまとまった。
サチと康孝は前日の大晦日から宿泊し、翌日の元旦に食事会と銘打った家族でのパーティーを開く。
「よりによって元旦に集まろうなんてね」
「親父の奥さんも久々に実家に帰ってのんびり出来るから気にするなって」
「なんだか申し訳ないよね」
「まあ、元から交流はないし大丈夫だよ」
親父への挨拶で顔合わせてるし気にしなくて良いよと康孝は言い、ビールを飲み干した。
「ところでサチさん」
「ん?」
「クリスマスプレゼントにこれ受け取ってくれるかな」
康孝はポケットから小さな箱を取り出した。
「お?」
わざとらしく声を上げて驚くと、康孝が小さな箱からダイヤのリングを取り出して、サチの左手を取り、その薬指に嵌めた。
「こんな高価なものいただけません」
笑って指輪を眺めると康孝の顔を見る。
「プレゼントを返されるのは本意じゃないな」
笑いながらいつまでふざけるつもりとサチを見る。なるほどと呟くとサチは居住いを正して咳払いをする。
「おいくらですか?」
出会った日のカフェでのやり取りを思い出してそう尋ねたサチに、ニッコリ笑うと康孝は一言こう言った。
「では貴方の一生で」
おわり。
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