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サチが勤める飲食店『ディップス』は、デパ地下のデリ、いわゆる惣菜店である『Dダイニング』が基盤の飲食店だ。
創業は二十五年とまだ若い企業であるが、デパ地下での実績をもとに、人気メニューをもっと手軽にその場で食べられる飲食店を展開させ、更に発展した成功例と言えるかもしれない。
ディップスの売りは目玉商品や季節商品でもあるが、デパ地下の味がその場で楽しめることなので、惣菜店舗と多少商品ラインナップは異なるが、楽しさや振り幅が少ない。
「……いつまで続けるんだろ。今の仕事」
ボソリとそうこぼして、美味しすぎるご飯を頬張る。
結構なボリュームのサラダ御前を平らげるのにそう時間は掛からなかった。さりとて素敵な店の雰囲気に、このまますぐに帰るのはもったいない気がしていた。
「ラテのおかわり頼もうかな?あ、デザートとかあるのかな」
改めてメニューを手に取って、視線を走らせる。
先程のほうじ茶ラテも美味しかったが、他にも色々なメニューが溢れている。
次はどうしようかと悩んでいると、下の階からありがとうございましたと客を見送る声が聞こえて来た。
腕時計を見てふと気になった。この店は何時まで営業しているんだろう。
「もしかしてゆっくり寛いでる場合じゃなかったりして……」
思ったことが口から溢れた瞬間、二階に上がってくる足音が聞こえて来た。
サチは階段の方を見ながら登ってくる人影を振り返るように姿勢を変えて視線を向ける。
「あ!」
思わず声をあげたのは、康孝がトレイにデザートを乗せていたからだ。
「どうかなさいましたか?」
「いや、ちょうど頼もうとしてて。でもお店の閉店時間が分からなくて……どうしようかと」
「あぁ。それなら大丈夫ですよ」
ニコリと笑顔を作り、隣に跪くとデザートをサーブし始める。
「え、私何も頼んでませんけど」
美味しそうなフルーツがこんもりと乗ったタルトを見て、サチが戸惑った声を出す。
「コレは僕からのプレゼントです。父の作品……その中でもお稲のシリーズが好きと言ってくださったお礼です」
ついでに先程頼んだほうじ茶ラテを今度はアイスで入れてきてくれた。
「はい?そんな理由でいただけませんよ!」
サチは驚きを隠さず、遠慮をしているのが分かるように掌をめいっぱい広げて押しやる仕草で断りを入れる。
しかし康孝は笑顔を崩さず、尚且つ嬉しそうに声のトーンを上げて話始める。
「父の作品が好きって人、僕は身近で初めて会ったんです、だから嬉しくて。それにコレは出来合いのタルト生地に、クリームとカットしてあるフルーツを単に盛り付けた有り合わせの物です。だから気にしないで」
「そんな、お代をお支払いしますから!さっきも言いましたけど、ちょうど注文しようと思ってたんです」
「いいえ。差し上げたプレゼントを返される様で嫌なので、どうか素直に受け取ってください」
「……頑固ですね」
「はい。自分勝手なので」
にこやかに、けれど絶対に意見は譲らないと顔に描いてあった。
「じゃあ、遠慮なくいただきます」
得も言われぬ敗北感を覚えながら、黒地に金や銀の箔押しがされたお洒落な陶器のタンブラーを手に取ると、先ほどとは口当たりの違うほうじ茶ラテの味に驚いた。
「え、全然違う飲み物みたい!」
無邪気なサチの一言に、康孝は嬉しそうに応える。
「でしょう?きっと気に入ってくださると思いました」
タルトもどうぞ。そう言ってタルトを食べるように促す。
小ぶりなタルトが三つ、彩りも豊かで食欲をそそられる。まずはマンゴーのタルトを手に取って頬張る。
「ん〜!しっとりしてて濃厚ですね」
美味しいです。康孝の方を見て、コレが出来合いのタルトですか?と先程の言葉を復唱した。
「自分のおやつに作ったついで、あとは商品開発の残り物という感じです」
康孝は嬉しそうな笑顔を浮かべたまま、タルト生地とカットしたマンゴーの間に詰まった、カスタードクリームにもマンゴーを使っているのでしっかりと濃い味がするのだと、きちんとした解説をしてくれる。
次に目についたのは、キウイとパインの見た目にも瑞々しいタルトだ。
「この組み合わせは、食べる前から幸せかもしれません」
ラテを一口飲んで口の中をリセットすると、その小ぶりなタルトを手に取った。
「ん〜!今度は凄くさっぱりしてますね。なんだろうこのクリームの感じ……ヨーグルトですか?」
「正解です!ホイップにヨーグルトを混ぜ込んであるんですよ」
康孝は相変わらず嬉しそうな顔でサチの対応をする。
「あり物にしても細やかな手仕事ですね」
感嘆の言葉がサチの口から溢れる。
それを聞いた康孝が、ふと疑問に思ったのか口を開く。
「もしかしてお料理お得意なんですか?」
ほうじ茶ラテを口に含んでほっこりしていたサチだが、その言葉にいえいえと返す。
「あぁ、いえ仕事なんです。ファミレスの雇われ店長なもので……こんな丁寧なお菓子は自分では作りません」
「そうだったんですか。うちの料理はお口に合いましたか?」
康孝は跪いたまま首を傾げてサチを見つめる。
「合うもなにも!凄く美味しいです」
その答えを聞いた康孝は、心底ホッとした様子で破顔した。
「うっ!!」
なんと云う破壊力だろうか。サチは思わず呻いた。
「どうかなさいましたか?大丈夫ですか?」
少し骨張った大きな掌が再びサチの身体に伸びる。
―――いや、だからその気安いボディタッチ!
「お、お……お客様!」
突然サチは叫んだ。
「え?」
キョトンとして康孝は動きを止める。
―――よし!勝った。
「他のお客様が待ってらしたらどうするんですか。私にばっかり構ってないで、下のご様子を確認しなくて良いんですか?」
いくら見目麗しくタイプもタイプ、どストライクの男性だろうと、彼はあくまでもカフェで接客中なのだ。
そしてここは執事喫茶でもなければホストクラブでもないのだ。
冷静になれ。そう自分に言い聞かせて、康孝に営業スマイルを向けると、これを戴いたらお暇します。とハッキリ声に出した。
「うわ。こなれてますね……コレは攻め方を間違ったかな?」
しかしどうだろう、康孝は意味深に呟くと顎に指を掛けて悩む仕草でこちらを見据える。
―――間違ったって何を?
言葉の真意を探りたい気持ちが浮かぶが、康孝が動くのを待つ。ただ、また触れられたりするのは心臓に良くないので、営業スマイルを保ったまま彼を見詰め直す。
「ランチは終わったので他にお客様はもう居ません。僕はさっき言った通り、自分用のおやつを貴方にお裾分けしに来たんです。理由はさっき話した通り、父のファンで、しかもお稲のシリーズが一番好きだと言ってくれたから嬉しくて」
「いやいや。なら教えてくださいよ!私もお会計済ませて引き上げますから」
「それは困ります」
「は?」
「あれ、鈍いのかな……まあ良いです、まだタルトが残っていますから半分こしましょうか」
お皿に残ったマスカットと巨峰のタルトを手に取ると、問答無用でサチの口にそれを捻じ込んできた。
「ん!!」
突然の状況にパニックを起こしそうになりサチは唸る。
なぜなら、あろうことか康孝は小ぶりなタルトを一旦彼の口で咥え、サチの顎に手を添えると流れるよう口へとタルトを運んでそのまま唇を貪ったからだ。
爽やかな酸味とサッパリした甘味、大好きなはずのその味が一瞬口に広がったのも束の間、それとは別の甘美な感触がサチを襲う。
「んーっ!」
いくら小ぶりなタルトとは云え、口の中に食べ物がある状態で咀嚼も許されずキスで唇を塞がれては息を整えるのだって難しい。
「んー!!」
反抗するように声を出しても康孝には逆効果だったのか、彼は自分の口に残したタルトを食べ終えたらしく、サチの口へと舌を割り入れ、少しほぐれたタルトをサチが咀嚼出来るように歯列の方へ器用に動かす。
「うん、美味しくできました」
サチの唇から離れた自身の唇の端を親指ですくうと、残ったクリームをペロリと舐め取りながら康孝は平然とした顔で言い放った。
結局上手く咀嚼出来ず、大きな塊のままのタルトをなんとか飲み込むように平らげると、サチは真横に跪いたままの康孝に唖然とした視線を向ける。
数えれば数秒で瞬間のことだろうが、なんでこんな事になったのかサチには分からない。
「さて。僕の下心に気が付いてくれましたか」
「……は?」
その言葉に訝しむ表情になったサチだが、まだパニックから立ち直れない。
「あれ。やっぱり鈍いのかな?僕は貴方に興味がある。だから過剰にサービスしたりしたんですけど、貴方がキラキラした目で僕を見てたのは勘違いだったのかな?」
そう言って、康孝は何か間違ってますかとでも言わんばかりに小首を傾げている。
―――なにこの人……ヤバい系じゃん。
沈黙は雄弁に勝る。
そう思ってなにも語らず、そそくさと帰り支度を始める。
「お会計お願いできますか」
短く言って財布を取り出すと、少し苛立ったように冷たい声を出す。
「え、帰るんですか」
「当たり前です。なに言ってるんですか!」
下心?勘違い?本当に何を言ってるんだ。コレがアプローチだとして、いきなりキスをされて驚かない方がおかしいし、ここはカフェであって風俗店ではない。
「じゃあ僕の勘違いですか」
康孝は酷く哀しそうな表情で、お代はいただけませんと呟く。
「あの、何か誤解があるようですけど、女漁りをご自身の職場でなさるのは如何なものかと思います。それにお食事をいただいた分のお代はしっかり払うのが当たり前です」
毅然とした態度のサチに、悪気があるのか無いのか、康孝はまたフェロモンだだ漏れの笑顔を作り、うんやっぱりと独りごちる。
その言葉の意味が分からなかったが、早々にこの場から立ち去りたいサチは彼の言葉を待たずに改めて財布を握りしめる。
「おいくらですか?」
そう尋ねたサチを見てニッコリ笑うと彼は一言こう言った。
「では貴方を一晩で」
康孝の口から出た言葉にギョッとした。
するとどうだろう。あんなにも眩しくて直視も出来なかった彼が急に嫌なものに見えてくる。
「何言ってるんですか、なんで私が一晩借り出されないといけないんですか!」
吐き捨てるようにそう言うと、テーブルに一万円を叩きつけて立ち上がり、退路を塞ぐように跪いている康孝を押し除けて階段を降りる。
背後から待ってください!と呼び止める声が聞こえたが、湧き上がる怒りと恥じらいで頭が混乱しているのだ。これ以上は関わるべきでは無いと思って振り返らずに店を出た。
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