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「鞍馬、お前般若みたいだってみんな怖がってたぞ」
笑いながらフライパンを振るうのは、この店にいる数少ない正社員のうちの一人である的場だ。彼は板場長なのでキッチンから外れる事はない。そして、サチがバイト時代から世話になってる社員の一人でもある。
「ハローワークが散々で、いつ転職出来るか分かんなくてイライラしてるんですよ」
手の洗浄と消毒をしながら、サチは嘘は吐かずに的場に返事した。大事な問題は端折ったが。
「なんだよ、本当に辞めちまうのかよ」
口を動かしていても手先は一向に乱れない。的場は次々と料理をこなしながら目を大きく見開いてサチをチラッと見た。
「須賀マネの後ろ盾なくして正社員の道無しです。いつかはなんて、待ってられるほど若さも無くなりましたから」
オーダーを確認し、的場の背中を見つめる形でサラダなどの仕込みに入ると、サチは心底疲れたように吐露した。
「須賀はお前を買ってたもんなぁ」
異動してしまった上司を呼び捨てにするのは二人が同期だからだろう。
「的場さんは買ってくれてないんですか」
むくれたようにサチがこぼすと、だから辞められたら困るって言ってるだろと苦笑いで返事が返って来た。
「五番、デシャップ出来るか?」
話しながらも手を止めない的場がオーダーを確認してくる。
「大丈夫です」
サチも軽口を叩いていただけでは無い。パストラミとスモークチーズのサラダは既に皿に盛り付け、サーモンのマリネも仕上げた。今は鯛のカルパッチョを仕上げに取り掛かっており、手を進めながら的場を見る。
「館林、一三番と五番、七番」
キッチン前に控えていた館林に声を掛けると、的場が担当していたマカロニグラタンとラザニア、リブロースステーキをカウンターにセットしてすぐ運ぶように指示を出す。
館林は紗季と前野を連れてきて一三番テーブルの料理をトレンチに乗せ、紗季には五番、前野には七番テーブルに出す料理を任せた。
「紗季ちゃん、お子さん用のカトラリーは出してある?」
「あ、お出しし損ねたのでお食事と一緒に配膳します」
「ん。サプライも同行見て回って来てね」
「はい」
そのやり取りを見ていた工藤が、そろそろ上がりの時間なのでお先ですと挨拶に来た。
労って見送ると事務所の方に引き上げていく。工藤は役者を目指しているフリーターで、オーディションの他に、小劇場の稽古などが入る。短時間勤務が多いが生活のためなので懸命に努めてくれるスタッフだ。
先程フロアに送り出したトレンチを持つ手が危なっかしい紗季は、四ヶ月ほど前に入ったスタッフだが覚えもよく、何より愛想が良いので顧客からの評判は良い。
同じくフロアを回っている前野は、主にランチからディナータイムの時間帯に入る事が多いので、こちらとしては非常に助かる中番固定スタッフ。
館林は言わずもがな、六年以上勤務しているフロアリーダーで、そろそろ契約社員にならないかと打診しているスタッフだ。
「新規、二番オーダー入ります」
今度は内山がカウンターに姿を見せる。彼は急遽友人の代打で店に短期バイトに入ったのが切っ掛けだが、勤務してもう三年目になる。普段はキッチンだが、立ち回りがうまく器用なので、こう言う場で役に立つ二刀流の有難いスタッフだ。
「工藤が上がったけど、四人で捌けそう?」
「そうっすねー。紗季ちゃんも慣れて来たし、安定の前野さんが居ますから。キャッシャーが館さんベタ付きにならない限りは、俺がキッチンに呼ばれても回りそうっす」
頼もしい返事にサチは安堵した。
それからディナータイムの混雑を内山がキッチンフォローに入ってなんとか捌き、前野を帰宅させると、ラストオーダーまでキッチンで仕事をこなした。
「紗季ちゃん、二十番バッシングしたら上がって良いから。電車間に合う?」
「はい!大丈夫です」
まだ大学生の紗季は、学校と家の中間地点に店があるので電車通勤である。可愛らしい顔立ちは、なんとなく由梨を思い出させる。
「危ないから、本当遠慮なく上がりなね」
食器を下げにフロアへ出る紗季に改めて声を掛けると、サチは閉店間近の店内を見渡した。
館林もバッシングをこなしつつ、クローズに向けてダスターを持ちながら清掃を始めている。
内山はキャッシャーで食事を終えたお客様の対応に当たっている。
「ふぅ……」
なんとか回ったけど、また休日出勤になったなと、思わず溜め息が出る。
サチが店長を務めるのは都内でも繁華街にある大型店、いわゆる旗艦店舗のため座席数も多く、スタッフの数もそれに比例する。
バタバタと営業を終えるクローズ作業に入り、サチはリーチインにグラスを入れ込みながら、的場にはストッカーの在庫確認をお願いする。
そうしてラストのお客様を見送ると、館林があらかた片付けていたフロアの清掃作業に移る。
「店長……顔戻りましたね。安心しました。ガチで般若でしたよ」
館林は紗季や中番スタッフが怖がってて大変だったんですよと笑った。
「あー。悪かったね」
カフェでの出来事を思い出して、また憂鬱なのか苛立ちなのか分からない気持ちが蘇ったが、仕事の疲れの方が勝ったのか素直に謝って作業を続ける。
「店長、すんません。俺今日は次もバイトあるんで先に上がりますね」
「あ、木曜か。了解。今日はフロア入ってくれて助かったよ。ありがとね」
レジチェックを終えた内山が挨拶に来たので、労いの言葉をかけて送り出す。
全ての作業を終えて事務所に戻ると、館林はそそくさと着替えを済ませて帰っていった。
「あれ、的場さんはまだですか?明日もインですよね」
壁に貼り出したシフト表を見てから、サチは的場に声を掛ける。
「ああ。でもディナーだから遅出だよ」
「あ、金曜だから内山が早上がりか」
今日もそうだったが、内山は伯父の店の手伝いでショットバーでもバイトをしている。ゆくゆくは自分も店を持ちたいらしく、勉強且つ資金を貯めるために働いているそうだ。
「おお、そう言えば須賀の嫁さんご懐妊だとよ」
「えー。マジですか!おめでたいですね」
「異動だなんだとバタバタしてたが、単身赴任の理由は嫁さんの体調を考えてだったみたいだな」
「じゃあ、安定期過ぎたら同居ですかね」
「そこまでは知らんけど、単身赴任を続けるつもりはないだろうなあ。嫁さんも知らない土地は大変だろうけど、一人で子育てするのはもっと大変だろうし」
何気ない会話をしながらも、サチは日報の作成と食材の発注、更にレシートと照合をしながら電卓を叩き、売報のデータを作成して事務作業を進める。
「お前はまだ上がらないのか」
そろそろ帰るわと立ち上がる的場に、苦笑いでまだですねと返す。
「後半のシフトを仮組みしないとです。あ、それ終わったら上がるんで大丈夫です。お疲れ様でした」
チラリと振り返って的場に片手を挙げて挨拶すると、再びパソコンラックに向き合って作業を続けた。
じゃあな。的場のその声を聞いてから一時間後、サチはようやくデータを送信しパソコンの電源を落とす。
「怒涛の一日だったわ」
作業で凝った首や肩を軽く回して痛みをごまかすと、両手を組んで伸びをして溜め息を吐き出す。
疲れた。本当に肉体的にも精神的にも疲れる日だった。ドロドロに甘い物が食べたい。胸焼けするくらいの甘いやつがいい。圧倒的に糖分が足りない。
―――タルトは美味しかったんだけどな。
ふとあの瑞々しいフルーツを思い浮かべると同時に唇への感触も思い出してしまう。
サチは頭を抱えた。あんな変人の事で掻き乱されたくないが、問題なのは嫌じゃなかったからだ。
「んー。息子って本当なのかな?口から出任せにしてはお稲さんのシリーズも知ってたみたいだし、お嬢さんがいる事も知ってたもんなぁ」
康孝の嬉しそうな顔を思い出すと、嘘を吐いているとは思い難かった。でもどこか複雑そうだったのは、本人の言っていた環境……両親は離婚した上に叔父夫婦に育てられた、と言うのが本当であれば致し方ないかも知れない。
「にしても、見た目以外はとんでもない男だったな」
優しい柔和な対応をしてるっぽいが、アレはかなり遊んでる。サチはその遊びの一環だったんだろうと今になって冷静に分析する。
「でも、本当に料理は美味しかったんだよね」
悔しいけれど、夕方に食べたあのランチとデザートは本当に美味しかった。次回があるなら是非食べたいが、身の危険を案じる方が勝る。
「せっかく当たりのカフェ見つけたと思ったんだけどなぁ」
悔しさと気不味い気持ちでボソリと呟くと、更衣スペースで着替えを済ませ、ようやく帰り支度を始めたころには午前二時に差し掛かっていた。タクシーで帰るしかない。
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