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 たっぷりと睡眠をとって迎えた日曜日。  朝一で行きつけの美容室に向かい、揃える程度のカットとカラーリングをしてきたのだが、独特の匂いを取るために入念に髪を洗い直していた。 「まだなんか匂うな……」  乾かした髪の匂いを気にしつつ、サチはサイン会に着ていく付け下げにどちらの袋帯を合わせようかと交互に見比べ、箔の入った袋帯に決めた。着付けはもちろん自分でする。  帯留めは友達がデザインしたカブトムシの形をした珍しい物で、中には邪道だと怒る人もいるがサチはコレがお気に入りだった。 「今日が発売日だから、新刊はまだ読めて無いんだよね。前作の感想はお手紙にしたためたけど、会話できる時間はあるかな」  今日のサイン会は予約の段階で整理券番号が通知され、そのページを店員に見せれば列に並ぶ事が出来るシステムになっている。 「一七三番って後ろの方だよね……」  スマホをタップして通知された整理券番号を確認すると、溜め息を吐いた。  あれから康孝のカフェには一度も顔を出していない。仕事が忙しかったのもあるが、彼と顔を合わせるのが気不味いのが一番の理由だった。  彼にとっては気紛れの遊び感覚だったかも知れないが、サチは情けない事に、今日までに何度も康孝の夢を見た。それも結構生々しい内容の夢だ。  それを思い出して頭を抱えると、もしも今日、北条と会話が出来たら康孝の事が聞けないかと思案していた。そうすれば彼が嘘をついていたかどうか分かると思ったからだ。 「安直だけど、身元だけは確認できるよね」  あんなにイライラしたのに、結局は康孝が気になってしまう自分が嫌になる。そんなに気になるならカフェに足を運べば良いだけの事だ。  けれど摘み食いでお手付きされそうになった身としては、そこに足繁く通うのもなんだかプライドを折られるようで気が向かなかった。 「あんなことさえ無ければ、いくらでも通ったのに」  独りごちてあれこれ悩んで頭を抱えるが、そうこうしているうちに、そろそろ出なければ間に合わない時間になっていた。  和装でも不自然にならない小ぶりな鞄に必要最低限の荷物を詰めて、戸締りと火元の確認を済ませると家を出た。  秋を感じさせる、十月の涼やかに晴れ渡った天気はサチのテンションを上げてくれる。  着物を着て外出するのは、北条のサイン会に行く時に限られる。  会場の書店まではサチの自宅最寄駅から二駅、移動時間は十分程度だ。  普段は五つ先の駅まで自転車通勤をしているサチにとって、二駅程度なんの苦にもならない距離だが、さすがに着物を着て自転車に乗るわけにいかない。  久々に電車に乗って移動する最中、ご婦人に声を掛けられ、帯や帯留めについて話を交わす間にすぐさま目的の駅に着く。  お先に失礼しますと電車を降りると、書店に近い南口の改札を目指して足を進める。  改札からは構内を通ってそのままデパートへと移動できる連絡口がある。  根付代わりの時計を掌ですくうと、時間を確認して小さく頷いた。 「待ち時間を列に並んで潰すのも嫌だし、確認して抜けられそうなら、ちょっと新しい本でも探そうかな」  デパートの五階にある大型書店に到着すると、サービスカウンターへ向かい、スマホを取り出してサイン会の参加について問い合わせる。 「待機列で待たないとダメですか」  整理券番号が後半であるのを確認してから店員に尋ねてみると、最後尾に並び直せばサイン会に参加するのは問題ないと言う。どうせ終わりから数えたほうが早いなら、最後尾でも大差無い。 「商品をお受け取りの際に、改めて整理券をご提示いただきましたら、係の者がご案内致します」  綺麗な笑顔と丁寧な口調で窓口のスタッフが説明してくれた。 「ありがとうございます。なら店内を見てから商品を受け取って参加します」  サチも丁寧に応えると、催事用の特設ブースでもう始まっているらしいサイン会を横目に見ながら、店内を見て回る事にする。  サイン待ちで出来た列の流れを見ながら、一時間は店内を散策できると判断して文庫本のコーナーに向かう。 「ちょっと気になってるのがあるんだよね」  ライトタッチな文芸作品やミステリなど、好きなシリーズの新刊を発見しては数冊手まとめてに取り、通路の脇に設置されていたカゴに放り込む。  幸いなことに、ここ暫く仕事が忙しくてお金を使う機会も本を読む時間もなかった。 「あ、平瀬慎吾の新刊もう出てるじゃん」  以前から気になっていた作家の本を見付け、三冊纏めて買うべきか迷う。一巻を手に取りザッと目を通す。これはやはり面白そうなのでとりあえずカゴに入れると、次はマンガコーナーへ向かう。  夢中になって本と向き合っている内に、まだ時間は大丈夫か気になってサイン会場の方へ視線を向ける。  待機列はだいぶ小規模になっていたので、そろそろあちらに向かった方が良いかも知れない。  すると、自分で思っていたよりも数が増えたカゴを見て苦笑いでレジに向かう。 「すみません。こちらの本を予約しています。併せてお会計お願いできますか?」  サイン会場に向かうべく、スマホを数度タップして整理券ページを会計スタッフに提示する。 「かしこまりました。確認のためご予約者様のお名前をお伺いできますか?」 「鞍馬サチです」  名前を確認すると、レジ後方の端末で何かを確認し、担当はこちらでお間違い無いですか?と表紙が見えるようにカウンター越しに確認してきた。 「はい。大丈夫です」 「サイン会場へは係の者がご案内いたします。カバーは如何なさいますか?」 「いえ、結構です」 「それでは全部で十八点、合計で……」  大きめの紙袋に入った商品を受け取ると、すぐに別の書店員から声を掛けられ、いよいよサイン会場へ向かう。 「では、こちらが最後尾になりますので順番が来るまでに本のご用意をお願い致します」 「ありがとうございます」  案内を終えてその場を立ち去る店員に会釈をしながら、サインを待つ間、鞄から器用に手紙を取り出すと、新刊と併せて直ぐに出せるように胸元で抱える。  ―――お話出来る時間あるかな。  順番を待つ間に考えるのは康孝の事だ。プライベートな事なので聞けたとしても答えて貰えないかも知れない、気分を害される場合も考えられる。  けれど康孝の少し複雑そうに笑う顔が忘れられず、本当に親子なのかどうかがどうしても気になっていた。  そうこうしている内に、次の次がサチの番だ。胸元に用意している新刊と手紙を確認しつつ、前の人がサインを貰いながら話し込んでいる様子を見て、少しなら話が出来る状態に安堵した。 「では、次になりますのでこちらでお待ち下さい」  書店員なのか、編集者なのかは分からないが、首から関係者のネームプレートを下げた小柄な女性ににこやかな笑顔で迎えられる。  いよいよ次がサチの番だ。 「それでは前にお進みください」 「はい。ありがとうございます」  康孝の事があるからか、いつもより緊張しつつ、サイン用のテーブルに腰掛けている北条の目の前に立つ。 「新作の御上梓おめでとうございます。サインをお願い致します。あとお手紙を書いてきました」  サチはそう言って新刊と手紙をテーブルに静かに置いた。するとその声を聴いた北条は、ん?と声と顔を上げてニコッと笑う。 「おや、鞍馬天狗のサっちゃん。いつもありがとうございます。お元気ですか?」 「はっ、はい!」  まさか名前を覚えて貰っているとは思わず、わずかに動揺したものの、これはチャンスと思い切って彼の名前を出した。 「先日、康孝さんと偶然お会いしたんです」 「ん?それってうちのヤス坊かな?」  するとサインを書く手を止めて、北条がサチを改めて見上げる。 「多分……カフェにお勤めです、よね?」 「ああ、弟の店だよ!そうか、ヤス坊に会ったのか」  北条は何故だか嬉しそうに、そうかそうかと呟くと、書き終えたサインにサチの名前を書き込んでくれていた。 「ヤス坊とは友達になったのかい?手紙はしっかり読ませて貰います」 「あ、ありがとう御座います!」  終始ご機嫌な表情で北条は握手を済ませると、今日の着物と帯は粋だね、帯留めがまた良い、とにこやかに笑ってみせた。  ―――わあ!褒められた。  何度もペコペコと頭を下げてサイン会場を後にして退店する。  サイン本をボーッと眺めて不思議な気分になる。自分を覚えてくれていた事にも驚いたが、北条の口から確かに康孝の事が聞けた。彼は本当に息子だったのだ。 「友達になったわけじゃないけど……ヤス坊って呼ばれてるんだ」  ふふ、と人知れず笑顔になるサチに、思いがけず背後から声が掛かる。 「ね、三十六の息子をまだ子供扱いするんですよ」  その甘く痺れるような声にはもちろん聞き覚えがあった。 「ぎゃっ!」  後ろを振り返って答え合わせをする前に、条件反射で小さく叫び声を上げた。 「こんにちは。貴方なら今日は必ずここに来るんじゃないかと思って」  軽いストーカー宣言のようでもあるが、康孝は悪びれもせずにそう言うと、流れるような自然な動きでサチの手元から荷物を奪い取り、すかさずもう片方の手をサチの指に絡めて繋いでくる。 「ちょっと、手!離してください。それから荷物も!返してください」 「着物姿も素敵ですね。とりあえず行きましょうか」 「ち……ちょっ、何処に行くんですか!人の話聞いてますか」 「ここではゆっくりお話も出来ませんし、僕はどうしても貴方に会いたかったんです。お願いだから貴方の時間を僕にください」  立ち止まってサチを見つめると、お願いします。そう言って懇願するような真摯な眼差しを向けた。  サチは改めてこの顔と声に弱いことを自覚した。だって、いくらでも理由をつけて断れるのに、断る口実が一向に出てこない。 「じゃあ、行きましょうか」  返事が無いことを確認すると、絡めた指は一層強く握られ、少し汗ばんでいるのはどちらの手なのか分からなかった。
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