叢 -くさむら-

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「またな」  大学四年の三月、私を前にした宮奥昭の言である。  宮奥昭は、あの失恋後も相変わらず私の貴重な観察対象であり続けた。私と彼の学力が同程度であることは先述したが、大学受験が始まる頃にはすっかり差がついてしまっていた。私が上に立ったことは言うまでもない。努力ができない人間は、最終的に何の役にも立たないのだ。  彼は性懲りもなく私に高校卒業後の進路を尋ねた。私が東京の私立大学を志望していることを伝えると、思った通り彼も同じ大学を目指すと言った。彼の成績では難しいのではないかという旨を伝えると、だったら頑張るのだと言った。人間はそう簡単に変われない。せいぜい足掻いたらいい。私は彼にそういう風なことを伝えた。彼は笑って頷いた。  結果として、私と彼はまたもや同じ進路となった。志望校合格。正直私は彼の観察もここまでかと考えていたため、驚きを隠せなかった。やはり興味深い対象だと改めて思った。  入学後、私と彼は同じサークルに入った。私が高校でテニス部だったからテニスサークルに入ると伝えると、じゃあ、と言って彼も同じサークルに入った。テニス未経験者である上に、彼の人格からすると当然だが、彼はなかなかサークルに馴染むことができなかった。彼は常に私と行動を共にし、隙あらば私にメンバーの陰口を言い、同意を求めた。私は彼をやはり醜いと思った。やはり人間はそう簡単に変われないのだなと思った。  しかし。酒が入ると饒舌になるという特性が発見され、彼は一躍サークルの飲み会においてなくてはならない存在になった。これは私にとって想定外のことで、不愉快極まりない出来事だった。テニスは一向に上達しないくせに、飲み会ではもてはやされ、飲まされ、潰れて千鳥足で帰る。あまつさえ、サークルの派閥での飲み会に私を誘って来る。私がそういう場を好まないことを知った上で誘っていることは明白で、人格の未熟もここに極まれりといった様相を呈し始めた。私は徐々に、彼への観察対象としての興味を失っていった。必要性を感じなくなり、サークルへも足を運ばなくなっていった。  本来、学生の本分は勉強のはずだ。それを弁えず、飲んで遊んでと怠慢の限りを尽くしている宮奥を見ていると、私は非常に強い怒りを覚えたものだった。さらに、授業となれば宮奥は必ず私の隣を陣取り、隙あらば試験の範囲を教わろうとする。そして授業終わりには必ずといっていいほど私を飲みに誘う。頼むから私の邪魔をしないでくれ。いつかの彼への興味は完全に影を潜め、この頃には彼と一緒にいることに恥ずかしさをさえ感じるようになっていた。  私と彼がついに顔を合わせなくなったのが、大学三年の春だった。就職活動が本格化し、彼に構っている暇がなくなったためだった。彼の人格は結局改善されなかったのだと哀れむこともそこそこに、私は就職活動に忙殺された。考えてみると、私が彼と出会ってから今までで、彼に対する感情を少しも持ち合わせなかった時期というのは、大学三年から四年にかけてのこの二年間をおいて他にない。私はおそらく人生で初めて私のことを考える機会を得た。そして私はその時間を最大限に活かし、就職活動を戦ったのだった。  そしてその戦いが収束した大学四年の三月。卒業式に出席するために久しぶりに出向いたキャンパスにて宮奥に出会い、別れ際に先述の言を投げかけられた。思えば彼は単位の取得がぎりぎりだったはずだ。人格的に就職活動だって難航したに違いない。結局、卒業できたのか、就職は決まったのか、私は彼に聞くことはしなかった。返事すらまともにしなかった。あれ以来、私は彼と連絡をとっていない。私は彼が今何をしているのかを知らない。知ろうと思えばいつでも知ることができるのだ。便利な世の中になったものだ。しかし私は知ろうと思わなかった。知る必要がなくなったからだ。  ……いや、そうではなくて——  雨が降っている。私はスーツ姿でひとり、アスファルトの道を歩いている。遠くに繁華街のネオンライトが見える。地面の水たまりに、コンビニの明かりが写っている。突然の雨だったから、私は傘を持っていない。濡れるがままに歩いて来たが、さすがに周りの目が気になって、私はコンビニに入ろうとした。 「あっ……」 「あぶないところだった」  肩をぶつけてしまって思わず声が出た。あ、だけとはなんとも情けない——いや、そんなことは今はどうでもいい。「あぶないところだった」。 「その声は——」  私の脳裏が剥がれて、そのまま目の前に現れたのかと思った。 「我が友、宮奥昭ではないか? ……ってか?」  私の鼓膜が勝手に、震え慣れた形に震えたのかと思った。 「如何にも自分は宮奥昭である」  いっそのこと、草むらの中から虎の形で現れてくれた方がよかったのに。  私の記憶そのままの姿で、逆光の中に彼は立っていた。 「聞いたよ、就職決まらなかったんだって」  誰に聞いたんだ、私の事情を知っている人間などほとんどいないだろうに。 「こう見えて、けっこう心配してたんだぜ?」  嘘が下手になったんだな。 「ほら、おごり」  相変わらずの醜いビール腹だな。 「まあとにかく、生きててよかった」  余計なお世話だ。  久しぶりに出会った彼の前で、私は一言も発することができずにいた。苦手なビールを一口あおる。臭い溜息が、他のどこでもない、私の口から大きく漏れる。宮奥は、反応がない私を尻目に、しばらくの間自分の話をしていた。一言発するたびに好物のビールを一口あおる。ひとしきり話をし終え、ビールの缶が空になったようだ。彼の双眸が私を捉える気配がした。私は思わず立ち止まる。彼は一歩前にすでに立ち止まっていた。 「ずっと言いたかったことがあるんだ」  私は背筋が寒くなった。私は、彼が私に言いたいことを知っている。ついで顔が熱くなる。私は、彼の方を向くことができなかった。 「臆病な自尊心と、尊大な羞恥心」  私の肩がビクッと跳ねた。違う。これは、私の声だ。私の言だ。 「……君との関係は、この言葉に尽きると思っている」  私は今、目に見えて取り乱している。私は今、顔を火照らせて、背筋を凍らせて、彼の前で言葉を発している。私は今——彼と向き合っている。ああ——まるで初めてその目を見たようだ。ああ——彼はこんなにもまっすぐ私を見ていたのか。今も、昔も。 「懐かしいなあ」  彼はビールの缶をごみ箱に放り込みながら言った。ついでに私の缶を取り上げ、残りのビールを一息に飲み干して、ごみ箱に捨てた。 「酔ってるから言うんだけどな」  彼は再び私の目を見て言った。私も、今度はその視線を避けようとはしなかった。 「恥ずかしくて今まで言えなかったけど、俺はお前のことを親友だと思っているんだ。中学の頃からかな」  私は当時そう思ってはいなかった。 「お前は、俺が自信をなくしてる時は寄り添ってくれた」  違う。ざまあみろって見てたんだ。 「女に振られた時は厳しくも優しく慰めてくれた」  あれはそもそも私のせいだ。 「だから、今度は俺がお前を励ます番だ」  余計なお世話だ。 「何かあったら相談しろよ。こんな風に酒飲みながら、昔の話でもしよう。次はお前がおごってくれてもいいんだぜ」  おごるのは、当分先になりそうだ。 「またな」 「……ああ、またな」  己の毛皮の濡れたのは、雨のためばかりではない。
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