「この先の治療もA先生に、この病院で診てもらいたい」

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「この先の治療もA先生に、この病院で診てもらいたい」

ここで、卵巣がんのお話しをちょっとだけ、しましょうか。 私も、ネットや書籍などで読んだお話し、そして、自分自身の経験と、主治医のA先生から聞いたお話しを参考にして書きますね。 特に、参考にしたのは、東京・江東区にある「がん研・有明病院」の公式サイト https://www.jfcr.or.jp/hospital/ です。 わかりやすく解説されています。ほかの部位のがんについても、ぜひ。 卵巣悪性腫瘍=卵巣がんは、女性特有のがんです。 ちなみに、乳がんは、男性もなるからね(調べてみてください)。 卵巣がんは、タイプ的には大きく分けて2種類。 卵巣にできる悪性腫瘍には、若い世代(10-20才代)を中心に発生する"卵巣胚細胞腫瘍"と中高年女性(40-60才代)を中心に発生する"上皮性卵巣がん"があります。 前者は、頻度は低いそうで、年齢的にも若年性ということもあり、子宮温存の方向性で治療することが多いそうです。 ところが、後者は治療方法がまったく異なるんですよね。 で、私の場合は、まさに「後者」。子宮と卵巣の全摘出という手術方法がメインになるそうです。 先にも書いてありますが、卵巣がんって、病状がある程度、進んでから病気が発覚することも多い……腫瘍が小さい場合でも、婦人科検診などで早期に発見されることもありますが、卵巣が腫れている状態であっても、かなり大きくなるまで無症状のことが多く、進行して発見されることが多いです。 これ、まさに私。 ホントに「たぬきのおなか」状態。 胸より、腹の部分が突き出てしまっていたのです。 さらに、会社での健康診断では、私の場合は……わからなかった…… 患部が大きくなると、腫瘍による圧迫症状がみられるようになります。また、腹水を伴うと、その量に応じた腹部の腫大と腹部膨満感が出現します。これが「たぬきのおなか」状態。 さらに、腹水が増量し胸水も認められるようになると、呼吸苦が出現します。 この「呼吸苦」、私はこの年の8月末からずっと、感じていたんですよね。カゼだと思っていたは大間違いだったわけです。腹水と胸水が肺を圧迫して、呼吸することを困難にしていたんですね。 胸腹水は良性卵巣腫瘍でも発生しますが、悪性の場合により多く見られます。卵巣腫瘍は悪性、良性に関わらず、捻れたり(卵巣腫瘍茎捻転)、破裂したりすることがあり、この場合は激痛を伴います。 で……卵巣腫瘍茎捻転についてなんですが。 これ、昔の記憶を辿ってみたのですけれど、もう何十年も前に、ものすごい激痛が数回、あったことを思い出しました。 まだ実家にいたころ、某所で、立ち仕事をしていて、で、月経痛があって、それが、その当時経験した、どんな月経痛よりも、何十倍も痛かったんです。身動き取れず、でも、単に自分が悪いんだろうと思って、病院にも行かなかった。 今となってはわかりませんが、もしかしたら……その当時から……身体そのものが「気をつけてくれよー」って信号を出していたのかもしれません。 でも、私の場合、手術で判明した「卵巣そのものが破れていた」直接の原因というのは、すっころんで、思い切り身体を地面にたたきつけたから……なんですけれどね。 さて、今回の手術では、子宮全摘、両側付属器切除(両側の卵巣切除)、大網切除術(胃下部の脂肪組織切除)をしました。 この後、取り出した組織を、病理検査にかけて、結果が出てくるのはおよそ1か月後。その時に、ステージ(病状の進行具合)が判明し、今後の治療方針が決まります。 40代前後で、1年の間に10キロ近く、体重が増えて、おなかに張りが出て来たなって思ってる方、気になるようであればぜひ、病院へ申し出てください。 よく言われていますが、がんに限らず、病気は「早期発見」が大事です。早く見つかれば、その分、体力的・精神的な負担はもちろん、経済的な部分も負担が軽くなります。 会社の健康診断を信用していないわけではないのですが、私のように、かなり進行してから判明するというパターンも少なくないそうです。 さて、入院生活中の話しに戻ります。 細かいところはちょっと省いて。 えー、体重激減の影響は、凄まじく…… 開腹・全身麻酔の手術でしたから、体力が落ちるのは仕方ないとはいっても、体重激減の影響は、まず、歩き方から出てきたりする。 まだ身体にドレーンが入っているので、お手洗いに行くにしても、なんにしても、体液排出用のバッグや点滴の入った袋をセッティングしたポールを引きずって歩くのだが、それに掴まって歩こうとしても、バランスがとれない。 今は、手術後、医師の指導がない限りは、出来れば早めに歩くというのを勧められる。傷の治りを早めるためにも大事なことなんだそうだ。 私も、 「動けるようであれば、歩いてみてね」 と、A先生、YさんやK看護師長さんからも話しが出て、ベッドから降りて、床に足をつけるところから始める。 「うが~っ!!」 思い通りに歩けない、思い通りに動けない。それが、こんなに辛いことだとは思ってもみなかった。歩くことって、ヒトの基本中の基本なのに、実はものすごいことなんだと思った。 「ふ~…」 最初は、看護師さんについてもらって、病室の中で歩行練習。お手洗いに行くのもリハビリ。 そのうちに、病室を出て、同じフロアの真ん中にあるスタッフステーションまで歩いたり、面会室まで歩いたりと、距離を伸ばしていく。 歩いていると、YさんやIさん、他の看護師さんや看護助手さん、クラークさん、そして、清掃担当の方々まで、患者に対して気を配っているのがわかる。 面会室まで行くと、大きな窓があって、そこに見えるのが、病院の管理課職員さんや院内職員の有志のみなさんが作った、クリスマスイルミネーション。 入院病棟の真ん中が中庭になっていて、そこに作られているのだ。夜になると、消灯時間まで綺麗に光っている。 小児科病棟からも、子供たちが窓越しに楽しんでいるのが、私がいるフロアの面会室からも見えたりして、ほほえましい。そう、ちょうどクリスマスの時期と重なっていたからねぇ。 未だに忘れられないのが、12月25日の夕食。病院調理部のみなさん、心づくしの「クリスマスディナー」。スマホの画像の中に残してあるんだけれど、これが本当にすごかった。 変化のない、退屈な入院生活を、少しでも明るく、食べることは楽しいことだというのを示すようなメニューに感激。カロリー計算などをしっかり、されているはずだけれど、これがおいしいんだ。 ちゃんと、クリスマスカードまでついてる。私の場合は、食事はほぼ、常食に戻っていたので、デザートにプチケーキまでついていた。 食器を戻すときに、メモ用紙に、 「ごちそうさまでした。プチケーキまであって、うれしかったです」 と書いて、それを食器に挟んでおいた。 後日、朝食を配膳に来てくれた調理部の方が、 「メッセージありがとうございます。私たちも嬉しかったですよ」 と、言って笑ってくれた。 少しずつ動けるようになって、体液排出用バッグを外した日、母が来て言った。 「これから、お父さんが来てくれる」 と。実家から、父と末弟が来てくれるというのだ。 母曰く、なんとしてでも、私を連れて実家に戻ると言って聞かないらしい。 さて、困った。 未だに点滴がふたつ、入っているし、長距離移動は絶対に無理だというのは、私の姿を見れば明らかなのだ。 「ま、それを見てもらうためにも、お父さんにはいいのかもしれないけれどね」 とのこと。 父のことに関しては、短編『避けては通れないことだけれど』を読んでいただければ嬉しい。 この当時から、父は体調を崩しがちになり、家にいることも増えてきていた。 長距離運転好きで、クルマ好きの父だけれど、手足にチカラが入りにくくなってきて、運転するのもしんどいので、この頃から自宅で一緒に住んでいる末弟が、なにかと運転することが増えてきていた。 そんな父が、自分の体調を顧みず、数時間かけて、私がいる街、入院している病院まで来てくれるというのだ。 「うーむ……」 思わず眉間にしわが寄る私。絶対にぶつかるな、こりゃ。 16時過ぎかな、父が末弟と一緒にやってきた。 私も点滴ポールを引きずって、面会室へ移動して、お互いに絶句する。 (お父さん……小さくなっちゃったなぁ……) 正直、私はショックだったのだ。たった半年、会わなかっただけで、父がこんなに小さくなってしまったのか、と。 母、叔父夫婦、末弟は、黙って私たちを見ている。 とにかく、帰ってこい!の、一点張り。病院は実家近所の総合病院にすればいい、これから先、ひとりでいるのは難しい云々…… じっと黙って聞いていた私。 父が、心配してこういう話しをしてくれる、それはすっごいわかるし、理解するし、とっても嬉しいし、ありがたい。でも、今の状態じゃ身動き取れない、長距離移動は難しい。そのことを話しても、なかなか話しが前に進まない。 と、そこへ、K看護師さんが、A先生と一緒にやってきた。 ご挨拶をしてから、A先生が穏やかに話しをしてくれる。父からしてみれば、A先生は息子同然の年齢だ(というのは、私と先生はほぼ、同世代なのだ)。 最初はカリカリしていた父だったけれど、A先生の話しを聞いているうちに、少し落ち着いてきたのだろう。最初の勢いはなくなっていて、先生の話しをしっかり、聞いてくれている。 今は長距離移動は難しいこと、点滴が抜けていないこと、病状が安定しているとはいっても、油断は出来ないことなど、丁寧に説明をしてくださる。 「ここは、娘さん…カナデさんの気持ちを聞いてみるのが一番じゃないですかね」 と、K看護師さんが助け舟を出してくださった。 「おまえはどうなんだ?」 と、父が改めて私に問う。 ちょっと考えてから、顔をあげて、私は言った。 「私、これからもこの病院で診てもらいたい。A先生にお願いしたいです。それは最初に、自分が決めたことだから」 そして、頭を下げた。 「お父さんが来てくれたこと、すごい嬉しいし、ありがたい。退院したら、まずは必ず、実家に帰る。でも、病気に関しては、A先生に診てもらいたいの。それは、お父さんもわかってくれるよね?自分が信頼したお医者さんに診てもらいたいっていうの、わかるよね?」 「……」 しばらく、面会室の中が静かになった。それから、父は改めて、A先生の顔をしっかり見てから、頭を下げてくれた。 「娘をよろしくお願いします」 掠れた声だった。父のこんな声、初めて聞いた。 A先生は、 「わかりました。カナデさんのことは僕らスタッフで、しっかり、お預かりします」 と、返事をしてくださった。それを聞いた母と、末弟の表情が一気に緩んだのがわかる。叔父夫婦もホッとしたのだろう。特に、おばは涙を拭いていた。 その後、少し雑談してから、A先生とK看護師長さんが面会室を後にする。 母も一緒に、父や末弟と一緒に実家に戻ることになった。 「おう、叔父さんたちは俺が送っていくから心配するな」 無口な末弟に、私は言った。 「ごめんね。遠くまでありがとう。頼むね」 「いいさ。姉貴、しっかり治療していけよ。こっちは任せておけ」 「うん、本当にありがとうね」 エレベーターまで父を見送る。その背中が、本当に小さく見えて……涙が出てきた。こんなに小さかったっけ…こんなに弱々しかったっけ…私の中の父って、こんな感じじゃない…でも、現実は現実なんだな。 末弟が父を連れて、最初にエレベータに乗って、病院の外へ。ドアが閉じるまでしっかり父の顔を見る。 母は、スタッフステーションで、クラークさんと何か話しをしてから、私に言った。 「お父さん、あんたのことが心配で心配で……それはわかってくれるよね?」 「うん……ごめん…」 「でも、ちょっとホッとしたわ。あんたの点滴があったから、お父さん、それで最初に連れて帰るの、あきらめたんだよ、あれ。どうなるかと思った」 ボロボロに泣きだした私のアタマに、手を置いて、ぽんぽんと撫でてくれる。 「じゃ、お母さんも(実家に)戻るね。ごめんね、かーちゃん(祖母)もいるからさ。ホントにごめんね。退院までいてあげたいけれど」 すると、叔父が、 「おまえさんは退院しても正月明けまでは動けないだろ。うちに来ればいいさ。ねーちゃん、かーちゃんのこと、頼む(叔父は母の実弟。つまり、母が言う「かーちゃん」は叔父にとっては「実母」)」 おばもとなりで頷いてくれた。 母は、その場で叔父夫婦に頭を下げる。私も、一緒に頭を下げた。 人になにかをお願いする、というのは、とても気力がいることだ。 だけど、大事なことでもある。 お願いできる人がいるということが、とても大事なこと。 そのことを改めて、考えさせてもらった、貴重な時間でもあった。 この日、母は実家へ戻っていった。 病室に戻ってから、ベッドに横になる。 ひとりになってから、ボロボロとまた、涙がこぼれてきた。 夕食の時間になるまで、私はただただ、泣いている事しかできなかった。                   (続きます)
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