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一、花魁行列
「ツバメ座。かわいらしい劇場だこと」
艶のある唇から発せられた言葉は、夜の帳に悠然と溶け込んでいく。
人通りがほとんどない往来を街灯が優しくなでていた。かたく閉ざされた商店のシャッターが並ぶせいか、景色がうすぼんやりと映る。
見上げても、星はない。アーケードの天井が無機質にあるだけだ。
「さて、この町では誰におせっかいを焼こうかしら――うふふ、楽しみね」
美声を伴った吐息が、蒸した空気を甘く震わせた。
夏は、嫌いだった。
あの日の出来事からもう十年が経つというのに、流川(るかわ)榛(はる)の心には悲しみがいつまでも巣食っていた。
あの時のことを、今でも鮮明に覚えている。もう遠く過ぎ去っているけれど、柔らかい木に深く刻みこまれた刃の跡みたいに消えない。
でもようやく、平気なふりをして生きるのにも慣れてきたところだ。夏だけを除いては。
榛(はる)は昼下がりの商店街を急いでいた。
地方都市の小さな町にある、唯一の繁華街、若葉(わかば)町商店街は地元の人々に長年愛されてきている。
古めかしい食料店や食堂が残る傍ら、真新しい雑貨屋やカフェが雑多に軒を連ねていた。観光地というほどの町でもなく、江戸初期まで存在したという城跡が町中の小高い山に残っている程度である。
商店街を抜けた先に、榛のバイト先であるコンビニがある。この辺りにはコンビニも少ないので客の出入りは割と多い。
今日は少しアパートを出るのが遅くなってしまった。当然遅刻は厳禁だ。高校入学と同時に決まったアルバイト。まだまだ分からないことも多く、見習いの身分だが、およそ四か月が経ち、だいぶレジ打ちや品出しにも慣れてきた。
「やばい、ほんとに急がないと」
まとわりつく蒸し暑さの中、駆け出そうとしたときだった。
――しゃらん。
一つ、浮き上がった音に榛は足を止める。そしてしゃらんとまた一つ。規則正しく鳴り始めた涼しげな音は、榛の耳へとひときわ鮮やかに届いた。
鈴の音かとも思ったが、少し違う。金属がぶつかり合うような音だ。
辺りがざわめき始めた。
榛は人々の間から、背伸びをして音の正体をたどる。
「なんだろう……?」
見慣れない行列に、榛は思わずつぶやき、唖然として見つめた。
先頭を行くのは二人の男だ。手ぬぐいを頭に巻き、白地に紺の波紋様の着物姿である。一人は提灯を掲げ、もう一人は錫杖のような物を手にしている。彼が宙でそれを振るわせるたびに、しゃらんと音をたてた。一歩一歩、ゆっくりと妙な行列はこちらに近づいて来る。
二人の青年は精悍な顔つきをしていて、歩きながらも前方を見据えた視線は外さない。
「おねーーりーー」
先頭の男の、威勢のいい掛け声が錫杖の音とともにアーケードじゅうにとどろく。見物人たちも続々と集まり始め、辺りはさらに人が多くなっていくが、彼らの通るであろう道は自然とひらいていく。
そこで榛はやっと行列の正体に気付いた。花魁道中だ。
昭和の香りがそこはかとなく漂うのどかな商店街に、華々しい一行が不釣合いに通っていく。携帯で撮影する音が方々から聞こえてくる。
美男二人の後ろからは、緋色の着物をまとったおかっぱ頭の可愛らしい少女が二人、表情もなく連れ立って歩いていた。桜色の髪飾りが揺れる。ふくよかな頬には白粉が塗られており、大福のようで愛らしかった。おちょぼ口に見えるのは紅の引き方だろう。
眼前をたおやかに通り過ぎていく様に、榛はただただ見入っていた。
少女たちの後ろには、一際美人が優雅に歩を進めていた。まばたきをするたびに、長い睫がぱさりと揺れ、かすかな嬌笑をたたえている。ふっくらとした唇には朱色の紅が引かれ、毒気を感じられるほどの艶麗な顔立ちによく映えていた。
近づいて来る彼女と目が合うと、謎の美女はよりいっそう艶めかしく微笑んだ。
文字通りぽかんと口を開けて硬直していると、甲高い笛の音が夏の午後の商店街に滑らかに流れ始めた。水流が通ったように、熱気を冷ましていく心地がする。いや、実際に涼しい風が通り抜けているのだ。まるで笛の音が風を誘っているかのように。
「おねーーりーー」
掛け声と笛の音に合わさるようにして、今度は三味線の音がかき鳴らされ始めた。
二人の奏者が通りすぎていく。龍笛を涼やかに奏でるのは、藍色がかった髪を後ろに高く結い上げた――少年だろうか。自分と同年代の少女かとも思ったが、凛とした横顔や、節のある細くて長い指から少年だろうと予想した。色白で華奢な、どこか儚さを感じさせる少年だ。
そして。
「わぁ!」
「きれい……!」
その後ろをゆく堂々たる主役に、周りから感嘆の溜息や、驚嘆の声が上がった。
榛もその圧倒的な美に瞠目する。
黒塗りの高下駄を八の字にくゆらせながら、傍らに控えた男の肩に手を置いて気高く進んでゆくのは花魁に扮した美女だった。
気品と優雅さで、見る者を釘づけにしていく。榛もただただ、現実を忘れて見惚れていた。
紅梅色の着物に江戸紫の打掛を合わせ、鳳凰を描いた帯を、前結びで垂らしている。幾重に髪に挿した簪にも埋もれることなく、自信に満ち溢れたその姿はまさに花魁と呼ぶにふさわしい。目尻にほどこした赤紅、凛々しい口元、どれをとっても完璧な姿だった。
榛の目の前を、くるいなく一定のリズムで歩みゆく。とても優しい香りがした。
ゆったりと時が流れていくようだった。まるで別の世界に迷い込んでしまったかのような。本当の時間を、世界をさらっていってしまったかのような。
緋の番傘を背負うように持っていた年若い少年が最後に歩んでいく。むすっと唇を引き結び、嫌々やらされているような顔をしていた。
しばし心地の良い余韻に浸りながら彼らの後ろ姿を目で追っていたので、話しかけられているのに気がつかなかった。
「あ、あの!」
声に見遣ると、うつむきがちで少々挙動不審気味な青年がいた。古臭いベレー帽をかぶり、これまた年季がはいったような丸眼鏡をかけている。着物に袴といった、明治、大正時代の書生のような格好をしていた。
「は、はい」
戸惑いながらも返事をすると、相手は深々と頭を下げながら、さっと紙を差し出してきた。
「げ、劇団嵐花(らんか)といいますっ。よよよろしければ観に来てください!」
「え、あ……はい。ありがとうございます……?」
こちらも相手のまごつきにつられるようにして、チラシを受け取る。すると青年はもう榛を見ることなく、逃げるように花魁行列を追い、また近くの人に同じ調子でチラシを差し出していた。
効率も悪いし、コミュニケーションも苦手そうだ。チラシ配りに向いていない気がするが……。
まぁいいかと、チラシに視線を落とすと、派手な着物姿の役者たち三人が目に飛び込んできた。紅緋の着物にかんざしを挿した役者は、先ほどの花魁だ。
劇団嵐花という太い金文字もあいまって目がチカチカした。
さきほどの花魁行列は、劇団の宣伝のためだったらしい。チラシを配っていた青年も劇団員の一人なのだろう。裏方担当なのだろうか。
多めにまばたきをしつつ、せっかくなので公演スケジュールや料金にも目を通す。八月一日から、三十日の昼の部まで、一か月間公演をするらしい。昼の部、夜の部公演があり、それぞれ料金は千六百円。場所はツバメ座、商店街の一角に数年前からできた小さな劇場だ。
「大衆演劇の一座なんだ……」
榛はチラシから目を離すと、ふーっと一つ息を吐いた。
演劇にはとても興味があった。小さい頃に一度だけ、東京の劇場に両親と足を運んだことがある。まばたきも忘れて見入った世界に、目を輝かせた思い出がきらりと翻った。
だが『大衆演劇』というジャンルには初めて触れた。料金もかなり格安だ。ゆっくりと、確実に胸が高鳴っていく。あの花魁行列のように華やかな役者たちが、舞台上で立ち回るのか――。なんて素敵で魅惑的な時間だろう! ……でも。
いくら格安とはいえ、榛にとっては贅沢なことだった。アルバイトをしていても、生活費と学費にあてているので自分のお小遣いとして残るのはわずかだ。それに、自分が遊びにかまけていてはいけないのだ。榛が一人だけ、楽しい思いをするわけにはいかない。それでなくても、迷惑をかけているのに。
どきどきと脈打っていた鼓動が、平静へと戻り始めた。
「そうだ。僕には別世界すぎるよ」
言い聞かせて、はっと時計を見た。バイトの時間が過ぎている……!
「うわぁぁぁ!」
榛は暑さと喧騒が戻ってきた商店街を、慌ててひた走るのだった。
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