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くさいし、暑い。さっさとすませよう。
親指に力をこめ、カッターの刃を押し出した。チキッ。暗がりを区切る乾いた音に、背筋が冷えた。天から氷が転げ落ち、背中にすべりこんだのかと思った。金貨だとよかったのに。
うかつだった。こんなに小さな音が、こんなに耳に障るとは。万事細かい私としたことが、痛恨のミス。
人が来やしないかと耳を澄まし気配をさぐる。前歯をすり抜けた浅い呼吸音だけが闇を這った。おびえるな。せっかくつかんだチャンス。音になんか尻尾は巻けない。
ゆっくりと親指をスライドさせた。カッターの鳴き声にあわせ息だけでつぶやいた。
だから……。世の中……。お金なの。
私はお金が大好きだ。命と引き換えにしてもいいと思っている。もちろん、他人の命だけど。
遠い大陸の果てで、見知らぬ子供が飢えて死んでいくことは憂うべきことなのだろうが、私は職場でのくだらない風習、駄菓子配りの資金として百円玉を週に一回、召し上げられることのほうが心に影を落とす。
他人の命よりも百円。
本音を言ってしまえば、みんなそうでしょ。
血も涙もない人間と言われた程度で傷ついたり、ミンナトモダチなどと小学校で無理やりに注入されたキレイゴトが威力を発揮したりするから言葉にしないだけで、知らない人の命に関わる不幸より、わが身のちょっとした不幸のほうが、実は気になる。
だから私は、遠い国の人々が私の不幸に胸を痛めなくても、なにも文句は言わない。怒ったりしない。
これがフェアな関係。逆・持ちつ持たれつ。持たないし、持たせない。知らない人のことは知らないし、顔見知り程度の他人のことも知らない。家族だってどうでもいい。自分にお金が入りさえすれば、私の世界は丸く収まる。
良い具合に頭を出した刃は、遠くの灯りを鈍くはね返す。
キミ、ぼけた灰色のくせに、とってもよく切れそうね。重く湿った夜の空気を切り裂いてくれようか。乙女の生き血を求めてまとわりつく蚊を叩き切ってくれようか。
いやいや。余計なことしている場合じゃないよね。みつかるといけないんだからね。早く仕込みをすませよう。マンションのごみ置き場の隣にうずくまっているのは、もううんざりだ。息をつめ、指先に力をこめた。
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