桃色のファンタジー

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 昼間に食べたケーキ、何味だったっけ。  深夜にリビングでうとうとしていたとき、ぼんやりとスイーツ屋のなかで話していた記憶がよみがえってくる。ナズナが私に言った言葉が、頭のすみにこびりついて離れない。 「ノアちゃんは、まっすぐだよね。一本筋が通ってるっていうか、あたしがこうして話してても、だれになにを言われても、自分の決めたことは曲げないっていうところ」  褒めているのか馬鹿にされているのか、それとも私のどこかが妬ましいとでも思ったのだろうか。  どうでもいい、そんな顔して聞いていた私が悪かったのかもしれない。  でももう慣れた。  私はたぶん、決めたことを曲げないんじゃなくて、そこから別の道を作ることができないだけだ。慣れたから、慣れている道のほうが楽だから、考えなくていいから。 「それは違うんじゃない?」 「どうしてそんな人、選んだの?」 「ノアちゃんが、幸せになれないよ」  そっちじゃない、こっちだよ、でもそれもどうかな。  友達って、いったい何者なんだろう。私はそんなことを考える。  テーブルに置いたグラスをみる。レモンスカッシュの炭酸も、氷も溶けてしまっている。  飲んだらきっと生ぬるいだろうな。  ダイニングのソファで、ヤマトくんが寝返りをうった。私の視界のすみで動いた彼を見やって、私の胸はじわりと甘い痛みを伴って、うずいた。  いつもの場所にヤマトくんがいるだけで、私はほっとしている。  ケーキ、何味だったっけ。  私は思いだせない。ナズナの顔と言葉が、私を褒めるか詰るか、どっちつかずの態度で私に謎の罪悪感を押しつけてくる。どうして私が悪いことをしたような気になるのか。  ヤマトくんについて、相談したからだ。  ヤマトくんが、いかに金と女にルーズで、欲が深くて、そのためよく働く。傍目にはよく働く好青年と映るだろう。私たちの経緯を話せば話すほど、まるでヤマトくんが暴君であるかのように、ナズナには伝わった。 「ひ、ひどくない? まるで暴君だよ」  私が言うのはいい。おまえが言うのは違う。  ナズナが可哀そうな者をみる目で私にそんなことを言ったのは、いつだったっけ。憶えていない。  とにかくナズナに何を言われても、私が一人でどんなに途方にくれて、泣いても、悲しんでも、私はヤマトくんを見限ることはできなかった。好きなんだろうな。どうしようもなく。どうすることもできないほど。  つらいのかな。可哀そうなのかな。ヤマトくんは、そんなに暴君なのかな。私はこの人と一緒にいられれば、なにもこわくないと思ったの。社会にうまく溶け込める頭の良さが、私にはない逞しさが、私の人生に欲しかったの。 「ヤマトくん」  私はソファに近づいていって、無防備に眠る彼の顔をのぞいた。目を閉じている。唇がゆるいカーブを描く。ちいさなえくぼ。幸せな夢でも見ているんだろうか。そんな顔に、私はむず痒い気持ちになって、そっと唇を合わせた。  ヤマトくんは起きない。深く眠っているようだ。  彼は自由奔放なだけだ、と言い切りたいのに、胸にわだかまるものが消えない。それでも、どこへいっても、なにをしていても、ヤマトくんは私のもとへ帰ってくる。男と女はゴムバンドみたいなものだって、なにかの本に書いてあったっけ。ぐんぐん引っ張って、引っ張って、これ以上のびないってくらい離れても、ぱっと手放したら、今度はすごい勢いで引っ付くの。元どおりなの。何も問題なかったみたいに、続いていくの。  それが私たちだ。 「ノアちゃん、こっちおいで、抱きしめたい」  ヤマトくんの声で、ヤマトくんじゃない人が、ヤマトくんの身体を借りて、私に言った。大らかで、それなのに強制力のあるつよい声。私は背筋を粟立てて、ヤマトくんが目を開けるのを見守る。瞳に宿る意志はヤマトくんではない。瞳孔が、赤みがかった茶色になっている。気のせいかもしれないけれど。 「ハヤトくん、おはよう」 「おはよ、ノアちゃん、こっちおいで」 「ハヤトくん、何もしない?」 「……たぶん、何もしない」  たぶんじゃ、困る。ヤマトくんを媒介にして浮遊していたハヤトという青年は、ヤマトくんと同級生だった。昔から、よく遊んだことがあるから、身体が馴染みやすいんだっていって、ヤマトくんが眠りついたとき、その身体を乗っ取って、起き上がる。  この事実を知っているのは私とハヤトくんだけだ。乗っ取られているヤマトくんは何も気がつかないらしい。すぐ眠くなる、という言葉を聞くことがあるのは、ヤマトくんが眠っている間に、ハヤトくんが起きているからだ。  私がとまどっていると、ハヤトくんはくすくす笑い、私を引き寄せた。 「あったかい。ノアちゃん、桃の香りがする。さっきキスしてくれたでしょ。もう一回してよ」 「お、起きてたの、ハヤトくん」 「うん、ノアちゃん、常習犯だよね、ヤマトが寝入ったときこっそりキスするの。オレ、そういうのめっちゃ可愛いと思うから、すきだよ」  すきだよ、と言われても困る。  私が好きなのは、ヤマトくんなんだから。  ハヤトくんにキスしたら、だめじゃないか。 「オレとはそんなに嫌かな」  嫌っていうか、顔も体もヤマトくんだから、なんともいえない。 「ヤマト、今日も女の子とお茶してたよ」  ハヤトくんは笑って、私をぎゅっと抱きしめて、私の耳に言う。息がかかって、ぞくっとする。  お茶だけ?   聞きたいのに、それを聞くのは反則のような気がして聞けない。ハヤトくんは思わせぶりに言って、それ以上のことは、ぜったい教えてくれない。私を不安にさせるのが楽しいのかもしれない。  どうして成仏してくれないのか。  ハヤトくんには心残りがあるらしい。  女の子と恋をすること。  トラックと乗用車の正面衝突で、魂がぽんっと抜けてしまって、実家の近所でさまよっていたところを、ヤマトくんの二階の部屋の窓から、眠る彼の身体に潜りこんだのだと言う。  だけど、ヤマトくんには、私という恋人がいる。  ハヤトくんが勝手に恋人を作ることはできない。そんなに長い時間、ヤマトくんの身体を自由に動かせるわけではないらしい。それが一番の理由。私は、ちょうど起きたら目の前にいた女の子、というわけだ。  こうして何度も会話をしてきた。会話以上のことをされたこともある。  これって、裏切りなんだろうか。  ちがう、私は犠牲になっただけだった。  ハヤトくんはすごく強引だ。ヤマトくんより、ずっと欲が深い。女の子に対する執着が、ハヤトくんをこの地にとどまらせているくらいなのだ。  ヤマトくんの身体でハヤトくんに触れられるなんて、こんな未知の体験をしている人間、そういないと思う。だれにも言えない。 「ケッコンするんだよね。ほんとにヤマトを選ぶの?」 「……うん、そうだよ」 「オレはまだ、ここにいるよ。それでもいいの?」 「……ハヤトくんは恋がしたいんでしょ」 「そうだね、したいよ。ノアちゃんとがいいって思ってるよ」 「私はヤマトくんと結婚したいの、ずっと一緒にいたいの」 「ノアちゃん、ほんとにそれでいいの?」  やさしく頭をなでられる。ハヤトくんは、私の体温がお気に入りらしい。どうしてそんなふうに言うの。私の決意をみんなして、揺るがす。今まで結婚したことないんだから、どうなるかなんて知らないよ。知らないことは、こわいに決まってるよ。  自分の決意が正しかったかどうか、わかるのなんて、いったい何年後になるの。それか、わからないまま、死んでしまうかもしれない。 「本気なんだね。オレも本気だよ。ノアちゃんのそばにいるとほっとして、すごく居心地がいいんだ。ずっと一緒にいたい」 「私が大切なのは、ヤマトくんだけだもん」 「……ひどいなあ。大切なひとって、世界にたった一人しか、いちゃいけないの? 親は? 友達は? ノアちゃんの大切な人の中に、オレは入れてくれないの? いやだよ」  ぐっと腰を抱かれる。これ以上、ハヤトくんを感情的にさせると、私がどうされるかわからない。緊張する。ヤマトくんとハヤトくんでは、身体は同じでも、抱き方が違う。ああいうのは、もうやめたい。やめてほしい。私が裏切っているみたいで、苦しい。 「ああ、でも、今日会いに行った子、あの子は大切にしなくていいと思うな」 「……ナズナのこと?」  ハヤトくんは、ヤマトくんが起きているときも、彼の内側から私たちをみている。今朝、ナズナに会うとヤマトに言ったのを思い出した。  桃の香りがすると言われて、そうだ、私は桃のタルトを食べたんだと、とつぜん思いだす。 「……私はまっすぐなんだって、ナズナに言われた」 「そう、ナズナちゃん。あの子はノアちゃんに嫉妬してるだけだよ。ノアちゃんがまっすぐなのは、打算で動いたりしない素直な子だからだよ。なにをされても言われても、ノアちゃんはひとを恨んだりしないでしょ」 「そんなことは……よくわからない」 「ノアちゃんは、自分以外のだれかになりたいと思う?」 「……思わない、けど」 「そういうところだよ。ノアちゃんは自分が自分でいることに迷いがない。ほかの誰かが羨ましいと思わない。自分を大切にしている。そういうの、まぶしいんだよ。ああいう子には」 「そうなの……?」 「わかってないところも可愛いよね。だからオレ、好きだよ、ノアちゃん」  もし、生きて出逢って恋をしたのが、ヤマトくんではなく、ハヤトくんだったら、私とどんな恋愛をするのだろう。一瞬、ありえない未来を考えた。ヤマトくんが、ヤマトくんだから私は好きになったのに。   「どうしてオレじゃだめで、ヤマトならいいの? どうしてヤマトを選ぶの?」    まるで私の心を読んだかのように、ハヤトくんは質問した。 「そうやって、かんたんに好きだっていうところが、ハヤトくんのよくわからないところだよ」 「オレ?」 「うん、ヤマトくんはそういうこと、めったに言ってくれない。お願いしても、はぐらかされる。照れてるんだってわかる。私の好きなお皿、いつも集めてくれる。あれって、コンビニのパン、いっぱい食べないとだめなんだよ、私にもくれるけど……そういうところ、まめな人なの。記念日とか誕生日とか、近づくと、なにかしようとしてくれる。はっきり言葉にしてくれることはないけど、私のために行動してくれる。思い出を大切にしてくれる。小さな幸せの積み重ねをしてくれるの。だから、言葉がなくても、いいの」 「す、ストップ、ノアちゃん、オレまで妬けてくるから、もういい」 「理屈じゃないの! ヤマトくんじゃなきゃだめなの! それが私の本能なの! 本能がこのひとだって叫んでるんだから、どうしようもないの、ヤマトくん、あなたを選んだのは、私なの! だからずっと、私だけをみていてほしいの!」 「……くやしい。オレのこと少しくらい、みてよ」  みえないよ。  私には、ヤマトくんしかみえない。   「ヤマトくん、今度、同窓会に行くって言ってた」 「知ってるよ」 「じゃ、別の人に移ってよ。もうヤマトくんから離れて」  身勝手な話だ。ハヤトくんがそもそも身勝手だけど、どうしようもないなら、別の人に乗り移ってそこで恋をしたらいいなんて考えた。その別の人には迷惑このうえない話だ。 「仮に別人に乗り移ったとして、オレはノアちゃんを忘れない、いつかうまく成仏できたとしても、来世でノアちゃんを探すよ」 「私の来世もヤマトくんだと決まっているので」 「ええー、そこは視野を広げようよ」  私たちの会話は不毛できりがない。  はやくヤマトくんに会いたい。きっとヤマトくんが魅力的だから、ハヤトくんは乗り移ろうと決めたんだ。そうに違いない。  だって、私が心の底から惹かれる、稀有なひとなんだもの。
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