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日の出前の山頂へ向かって、山の谷間をケーブルカーで上がっていく。断崖絶壁と、遠くに広がる海も、日中には良い景観だが今はまだ薄暗い靄の中だった。
山頂に降り立って、わたしとノブくんは真っ直ぐに小道を掻き分けて行く。行き止まりと仕切られた道の柵をこっそり潜って、むき出しの斜面を、手を取り合って進む。雲が流れてくる。後ろを見る。誰もついてきていない。ガイドの人に気付かれたら大慌てで𠮟咤の叫びが上がるだろう。
絶壁に雲を集めて真っ白い塊が浮かぶ。ちょうど二人がけの椅子の広さにノブくんは座って、わたしを見る。わたしは誘われるまま、雲に乗った。ふわふわと、心地よく揺れる。とても楽しくて、地面から離れた脚先を、ゆらゆら揺らす。
かつて訪れた修学旅行先の雲海が、今、日の出とともに輝き広がってゆく。
修学旅行、ユイとノブに起きた出来事。それからの日々を、ユイが思い出すには涙ぐましい紆余曲折があったのだが、今日ここに二人でいることが、ユイのこころとからだを温めた。
修学旅行三日目の早朝。
ユイは女子のグループに混ざってケーブルカーに乗った。何度も往復するそれに、多くの生徒が詰め寄って、山頂広場は人でごった返していた。何の進展もないままユイは、彼の姿を探した。思いのほかすぐに見つかった。そこらじゅうで男女の二人組が出来上がっていく、異様な賑わいの中、「うるっせえ!俺に近寄んな!来んな!」という一際でかい声で、ユイは見つけた。 周りの女子が、潮が引いていくように遠ざかる。人波のなか、ノブの強い眼力が、ユイを射抜いていた。ユイは当然びっくりして、一歩も動けなかった。目が合った。それから、ノブは言ったのだ。ユイだけを見て。怒り狂ったように、声を張って。
「一度しか言わねえ! 来るならさっさと来い!」
周囲が唖然とする。いったい誰に言ったのかと。ノブの鋭い視線を皆が辿った。道が開ける。ユイは、ノブの言葉が自分に向けられている奇跡のような事実を、顔じゅう真っ赤にして、知る羽目になった。緊張と混乱で一歩も歩けないユイが、ノブのもとへたどり着けたのは、大勢の同級生たちの温かい手に背中を押されていったからである。
多くの誤解と混乱を招きながら、すこしは大人になったのかな、とユイは思う。いつかの約束を、何度目か、叶えてくれる隣の男の子。
「なんだよ」
と、ユイが見つめている横顔が、視線に苛立ったように吐く。「ん」と、ユイは手を差し出す。手をつなごう。そう瞳に語りかける。
「これほんとにたのしーね、ノブくんの雲、ふわふわして、最高だよ」
「あっそう」
素っ気なく答えたノブの手が、さり気なくユイの手をすくいとる。ちゃんとお願いを聞いてくれる。ノブくんはやさしい。ただ、ほんの少し、シャイボーイなんだよね、と、ユイはこころの中でつぶやく。昔だったら、そう、初めてここで二人きりになったときなら、「恥ずいだろが!」って、怒られただろう。懐かしさに、思わず笑いが漏れた。
ノブの視線が頬にささる。
「ノブくん、チューしようよ」
「はっ!?」
「誰もいないよ?」
絶景だよ。わたしだけが知ってるノブくんの表情。とびきり楽しい超能力。そんなに怒んないでよ。照れ隠しが可愛い人。
隣に並べるくらいには、ノブくんに追いつけたかな。昔よりは分かりやすいのに、やっぱり難しい。
あなたに憧れて、今のわたしがいる。
そのことをいつまでも忘れずに、ついて行きたい。
時々、空に浮かびながら。
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