依存すら愛だった

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 窓の表面を流れる雨粒が、なんとなく好きだった。  高速道路を走るとき、車の窓ガラスに留まる雨粒をものすごいスピードで置き去りにしていく。助手席に座り、渦を巻くように流れてゆくサイドガラスの細かな水滴を、何気なくみる瞬間が好きだ。あえて誰かに打ち明けるほどのことでもない、黙って、その様子を見て、すこし幼心に返ったような気持ちになる。  アクセルを踏みこむ、加速する、そのエネルギーはごく静かに車体から私に伝わってくる。  弾かれる雨。  フロントガラスの視界が濁ってきた頃合いにワイパーが動く。雨と速度と視界の調節を程よい感覚に保っている。たまに思い切りが良くて、無茶なこともするけれど、私はヒロが運転する車に乗るのが好きだった。助手席にいる私はいつも無になって、ヒロの運転に身を任せている。それは、私にはどうすることもできない、窓の表面で起きている雨粒の現象とどこか似ていた。 「お好み焼きが食べたい」 「うん、私も食べたい」  夕方、テレビをつけた部屋で、適当にそのチャンネルを眺めていたら、ヒロは唐突に言った。  先日髪を短く切ったばかりで、触れると芝生みたいな頭が、可愛げがあって愛おしい。  私はヒロの発言に、考えることもせず即答した。  なんでもいい。  なんだっていい。  ヒロとおなじ空間を共有できるなら、私は迷ったりしない。 「本当にー?」  と、揶揄するようなヒロの声。  ちょっと疑っている、呆れた声。  私はやっぱり考えることが面倒で、お腹がすいているから食べられるなら食べたい、メニューまで思いつかないからそれでいい、ということをうまく伝えらない。 「うん、たぶん」 「何やそれ」  本当に本当かよ、というような感じで、ヒロが単純に笑っているのをみて、私はほっとする。  私の本心は、どこにあるのか、今もまだ考えないようにして生きていた。  順応するの。  ヒロと一緒にいると、自分がやさしさの塊で出来ているんだ、と想像するの。  案外悪くない。そして今日はヒロが言うお好み焼きを食べに行く。予定が入った。  私は心と胃袋と、身支度に準備が必要だ。  ヒロはソファに寝そべって、スマホを眺めている。気が変わらないうちに、また余計な選択肢が増えて悩んだりしないうちに、さっさと決定してしまいたかった。  ヒロの膝元に座りこみ、頭をもたげて、私は彼の顔色を窺う。 「ねえ、ヒロ、もう出かける準備する?」  するなら私も急ぐよ、というニュアンスを込めて尋ねる。  ヒロはスマホから目を離さずに、黙ってうなずいた。   「わかった、豚玉もいいけど、たまにはエビ玉もいいかなあ」  ヒロに聴こえるように言って、服を着替えにクロゼットのある部屋へ行く。想像するとさっきよりも空腹を感じた。動くのに楽だからデニムをはきたいけれど、スカートが好みのヒロに合わせて、外出時はいつもスカートをはく。  買ってもらった鞄をいつでも愛用するように、今日も彼の好みに合わせていく。  準備にあまり時間をかけないこと。  頭のてっぺんから足の爪先まで、私はヒロが肯定してくれたもので固め、ヒロの専属のような恰好ができあがる。  そんなことにも、もう慣れた。  疲れたのに、疲れたと言えない。  たった一言、ヒロを困らせてしまうかもしれない言葉を、言うことができないまま、私たちの関係は何年も続いた。  靴を選んでいると、「本当にお好み焼きでいいの」と、ヒロは聞いた。その瞬間、私は何も思いつかなかったので、うん、と深く頷いてみせた。  やっぱり、よくわからない。  私はどうしたいのか。  ヒロの愛する音楽を、ギターを、お酒やたばこを、私は一通り知っている。  特に愛する音楽については、彼の深淵に迫りたくて私も自然にそこに詳しくなった。しかし、私がほんのすこし好きな音楽や、映画や、レトロな鞄について、語ったことはほぼない。  彼には彼の興味がないモノに対しては、蔑む言葉に躊躇がない。  私が大切に扱っているものに、彼の興味がなければ、私は私を否定されたと思う。  なんだか怖い。否定されたら悲しい。悲しいという事実を上手に伝えられない。  だから言わない。  言えなかった。  私はヒロの愛する趣味が好きで、私はあまりにも都合よく順応していくことしか、それしかヒロの隣に居続ける方法を思いつくことができなかったのだ。  嘘で塗り固めた滑稽な女みたいになりたくない。  でも、私は本心を隠しているような後ろめたさに苛まれている。  ヒロが大好きだということ以外は、どうだっていいのに。  最近は、「本当に?」と、ヒロに聞き返されることが、増えたように感じる。本当に思っていないことを吐く。できるだけなにも感じないように、マネキンのように、心とは別の言葉を吐く。  無口で、黙っていると怒ってるのかと勘違いするような容姿だけど、ヒロは案外、繊細だから、私の心の機微を、無自覚に察知しているのかもしれない。  部屋の窓を開けて、外気に触れる。  もうすぐ冬がくる。きっと、あっという間に。  厚めのカーディガンを羽織って、夜の冷え対策にタイツを纏って、鞄に胃薬の錠剤が入っているか、確かめる。あまり履いていなかったスニーカーを箱から出して、玄関に置いた。  しゃがみ込んで、すこし目を閉じる。  倦怠感が押し寄せてくる。  本当は今すぐ横になりたい。  私は休みたいのだ。おそらく。本当は。  今週は職場の飲み会もあったから、疲れているんだな、と指でこめかみを押す。  そこでも私は楽しいフリを続けていた。酔いつぶれないように、これ以上胃を痛めないように。上司の鋭利な言葉のナイフに、胸を刺されたりしないように。細心の注意を払って、それなのに、 「本当に?」  という言葉がまた、私を刺した。見事に私を窮地に追いやった。  これほどみっともない、みじめな話を、ヒロに話したり、泣きついたりしたくない。  私はヒロの前で、どんなに痛くても口角を上げて、目元を緩める。  必死で繋ぎとめる。あなたのことを、傷つけたりしない。  私はいつだって、あなたの味方でいるのだと、伝わるように願いながら。 「車、少ないね」 「平日だしな」  車で小一時間かかるお好み焼き屋に行って、無事に食事を済ませた。  帰り道は暗くて、街灯が少ない山沿いの道をゆく。車がないとどこにも行けないような田舎だから、私は車やバスに乗る。歩いていくことは滅多にない。お腹は満たされていて、後は無事に帰宅するだけ。私は、お好み焼きを食べているあいだも、帰りの車の中でも、「美味しい」と、当たり前みたいなことを馬鹿みたいに繰り返した。  本当に美味しい、と、思っていることを、まるで自分に確認させているみたいに。  信号が赤に変わり、停車する。  そこはいつまでたっても信号が変わらないことで私たちの間で話題で、時折、奇跡のようにさっと変わることもあった。気分屋すぎる信号。歩行者のカップルも、車通りはまったくないのに、いつまでも信号待ちを続けている。そのときは永遠のように思えるほど、待ち続けた。  ヒロが、「まじふざけんな」「おかしくない!?」と、苛立ちながら、「あきらかにおかしい」と、真剣な顔で訝しみ、それでも迂回せずに待ち続けるので、私はヒロとの会話で、飽きることはなかった。 「あ、雨だ」  ヒロの声に顔を上げた。  ぽつり、ぽつりとガラスを打つ。信号はまだ変わらなくて、そのうち本降りになった。 「ほんとは今日、映画も観たかった」  ヒロはぼそりと言う。  今頃になって、初耳すぎる発言に、えっとなるものの、「何が観たかったの」「今日はもう間に合わない?」と、自身の体力も考えずに問いかける。実際、レイトショーなら、間に合わなくもない。  ヒロはハンドルに手を置いたまま、ゆっくりと語りだす。その横顔を、彼の真意をできるだけ理解して、寄り添いたくて、私は食い入るように見つめる。  そう、私は、ヒロが映画を観たいと言ったら、行きたいと答えるし、お好み焼きが食べたいと言うなら、食べたいと答える。  すべて本心だ。  私はヒロから目を離したくない。  計画を立てるのも、ネットを駆使するのも、時間配分も、私は苦手で、ヒロは得意だ。どこにでも連れていってくれる。私と過ごす時間に、手間に、食事代に、お金を惜しむことはない。そういう、誰かのために、「惜しまない」ことを当たり前のように、ヒロは私に与えてくれた。血の繋がった、肉親ですら、私に与えることを渋る人間が居たことを思うと、私はもうじゅうぶん過ぎるものを、彼から貰ってきたのだと、思うようになったのはつい最近のことだった。 「その映画、私も観たいよう」 「おれも観たい」 「怖いかな? なんか怖そうだよね」 「まあ、行きたくなかったら別に」 「やだ、行く! 私も観る!」  ヒロは事あるごとに、私をおちょくって遊ぶ。  ヒロにとって私は、すとれす発散、のおもちゃなのかもしれない。いつまでも、こんなやりとりをして、肝心な事は、何一つ確認せず、言葉にせず、互いの差異を認識し合うという作業をしてこなかった。だけど、喧嘩もしないで、ずっと楽しく過ごしてきた。楽しい、という気分の強さに、あまりにも甘い糖質を摂取し続けて麻痺してしまったのだと思う。  私たちはもう、じゅうぶん社会的に、大人だという認識の欠如。  自分の気持ちの面倒は、自分でみるものだと、ヒロはとっくに、そうしていたこと。  私だけ、置き去りだった。  私はヒロを優先しすぎた。  自分を喪失するほど。  だからあれは、自分を大切にしなかった、ヒロに寄りかかった罰なんだと、思う。  なかなかしぶとい信号をじっと見ながら、私はヒロの左手を握った。膝上に置かれた温かい手を、そっと握る。いつでもハンドルを優先していいように、控えめに、だけど甘えるように。  信号が変わる。「やっとかよ」と悪態をついて、ヒロは右手だけで器用にハンドルを回し、交差点を曲がる。ずっと手を繋いでいてくれる。  無理に会話を探さなくていい、無になれる瞬間。  手のひらから伝わる、親密な温かさ。  これがあるだけでよかったのに。知らなかったよ。こんな気持ち。どうして、たったそれだけを維持することが、こんなにも難しかったなんて。 「しかしよく食うよな、ミンは」 「だって美味しーんだもん」 「ブーミンになるぞー」 「な、ら、ない、よう!」  私には「未来」っていう名前があるのに、ヒロは私をそう呼んでくれない。ミライって、ちゃんと呼んでくれたことがない。そのことが少しだけ寂しいことを、ヒロにきちんと伝えられない。今さら、とも感じる。  ただ、美味しい、と感じる。私は五感が発達している、と誰かに言われたことがある。だからだろうか、ご飯の味がしなくなった。何を食べても味がしない。胃が、焼けつくように痛い。笑えないのに笑顔を作って、美味しいはずの唐揚げを、美味しいと言いながら、喉に押し込んでいく。  あの日のみじめさ。手紙を見つけた日の、虚脱感。  ヒロ、ヒロ、ヒロ。私の大切な人。  ねえ、ヒロ、「さやか」って、だれ?  こじんまりとした丸文字の、親しい言葉。ヒロくん、と愛称をつける、女の字。  あまりにの虚脱感に、バスルームで崩れ落ちるように泣きじゃくったのは、生まれてはじめての経験だった。干していたヒロの服を取りこみながら、情けなさや、くやしさや、絶望感に心臓を切り取られたみたいに、心が機能しなくなった。 「映画は来週かな、録画してるドラマ、観ないと」 「うん、そうだね」  マネキンみたいに、「うん、そうだね」と、唇が動く。  私はいつから何も言わずにそれに耐えてきて、少しずつ味覚を取り戻したのか。  今でも親しい誰かがいるの? 愚問過ぎて、そんな陳腐な言葉を投げかけるのはプライドが許さなくて、私は自分を殺してきた。  私たち、もう何年、夫婦やってるのかなあ。  私もヒロも、おままごとみたいに、子供だったのかな。  言葉で傷つけ合うのを避けて、肝心なところは話せなくて、あなたも私も、楽しさだけを頼りにくっついていた。  へんてこで、信頼関係もまともに築けないまま、何年も、何年も、過ぎていた。  もう、どこにも戻れないよ。  あまりにも遠くへ、来てしまったよ。  気づいてる? ヒロくん。  手を取り合って、車を走らせる。スピードの出し過ぎだなんて、余計な口は挟まない。私はヒロの味方だから、ヒロを否定しない。  人間は脆い。精神よりも肉体が。こんな柔さで、どこまでも速度にこだわる。何よりも速く、もっと速く、遠くへ行きたがる。飛行機も新幹線も、潜水艦も車も、私たちは凶器のような速度の箱を好み、便利だという。気軽に乗って、どこかへ行きたがる。  ヒロとなら、私もそうする。ヒロの運転と、車に、すべてを預けているから。何が起きても、どこまでだって、遠くまでついていく。  夫婦だから。  遠い未来まで、ヒロと一緒がいい。だから。  未だに子供みたいなふたりの関係に、信頼を、築いていきたい。  雨粒を置き去りにするような、異様な速度で私の心もヒロも、置いていったりしない。ゆっくりでいい。また遠くへ旅行に行こう。  今度は、すれ違わないように。
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