漆黒と紫 ~小説家と少年による前日譚~

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 夜に、雨の気配が近づいている。  花蔵(はなくら)旺司(おうじ)は湿った空気を頬に感じながら、行きつけのバーのドアを開けた。 「いらっしゃい」  カウンターから声をかけるのは、店員でもあり知人でもある、和泉(いずみ)倫一(りんいち)だ。  開店したばかりで、まだ花蔵以外に客はいない。カウンター席に腰掛ける。  いつもの、と頼まずとも、しばらくしてバーボンが出てきた。 「あんた、最近外でもその格好なのか」  和泉が花蔵の装いを見て言った。  紫の生地に、黒い百合をあしらった派手な着流し。下手をすれば滑稽味すらあるそれを、花蔵は己が一部として着こなす。しかも最近黒髪に白金のメッシュまで入れて、ますます派手になった。  これが実はそこそこ人気のある耽美小説家であることなど、誰が思うであろう。 「この格好だとな、外でもより強くなれると気づいた」  花蔵は笑い返して、グラスを手に取る。 「ま、武装みたいなもんだ。担当の戸惑う顔も面白い」 「さすがだ」 「なんだよさすがって。お前に言われたくはない」  和泉だって黒髪の一部を赤く染めて、金色のカラコンまで入れており、遠目に見ても派手な容姿である。  そんな派手なふたりが向かい合っている光景が、薄暗いバーの景色を妖しくする。 「それで、偉大なる花蔵先生、最近仕事の方はどうだ」  ひとくち酒を含み、花蔵はつまらなそうに声を低くした。 「仕事はあるが大して売れない。いつものことだ」 「まあ、あんたの書くものは大衆向けとは違うだろうなってのは、俺にもわかる」 「俺は、俺が美しいと思ったものだけを書く」  花蔵はつい口癖を出す。 「そんな面倒くさいこだわりを持ってるから……」 「お前だって男しか縛らないだろ」 「同列に語るかい」  和泉がすました面の、頬をほころばせた。  今こそこうしてバーにいる和泉だが、月数回はその手の店に勤める縄師だ。  男しか縛らない。そんな信条を、なぜだか持っている。  花蔵は懐から煙草とライターを取り出すと、「ちょっと吸ってくる」と言って完全禁煙の店内から出た。  表は人通りが激しいので、静かめな店の裏手にまわって吸おうとした。  雨の匂いを感じながらライターに火を付けたとき、気の滅入る泣き声を聞いた。  咥えた煙草を箱に戻し、ライターも消す。  泣き声はすぐ傍でする。裏手の闇に目を凝らせば、誰かが室外機の陰で蹲って泣いている。  面倒なことになったと確信したのは、それが少年だとわかったからだ。  これから酒で気分がよくなろうというときだ。見なかったことにして立ち去ろうとはした。だが何かを踏んで余計な音を立ててしまった。  少年が顔を上げる。長めの前髪がうっとおしく顔にかかっていた。  みっともない子供、という第一印象しか、花蔵にはなかった。  ふたりの目が、合う。 「……え、花蔵旺司?」  高い声による少年の驚嘆。  想定外すぎる先手を討たれて、花蔵は凍りついた。
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