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あの後どうやって会社から出たのか、よく憶えていなかった。
腰はガクガクと震えて立つのもやっとだったし、涙で化粧は崩れているしで、おおよそ他人に見られれば“何かあった感”が丸出しの状態だったと思う。
残業時で他に残っている人間がまばらで本当に助かった。
こんな状態でも、ちゃんと会社のロッカーに書類を仕舞い、デスクにあるノートパソコンを手に取って帰る事は忘れないのだから習慣とは恐ろしいと思う。
何も考えられない状態だったから無意識で“いつも通り”の行動をしていた。
会社のトイレで顔を洗って、思い切って化粧を落としてしまう。
ウォータープルーフなんて使ってないから、割と綺麗に落ちてしまった。
さっぱりして、そのままスッピンで駅までの道を歩いた。
大人になったら化粧をしないとみっともなくて外を歩けないと思っていたけど、存外すれ違う人は私の事なんて見てやしない。
会社を出るまで人目を気にしていた事が可笑しくて。
“私、今スッピンなんですー!”と叫んでしまいたい気分だった。
空元気でいいから、叫んでしまいたかった。
いつもの帰路のように最寄りの駅までは電車を使ってしまったけれど。
由樹にどんな顔で会えばいいのか分からなくて、自分のマンションとは反対側の改札を出る。行く当てもなくふらふらと歩いていると、小さな公園があるのが目についた。ベンチが二脚と遊具はブランコと滑り台しかない公園。
丁度いい、と片方のベンチに腰掛けて空を仰いだ。
雨は降らない予報であったが、星を完全に覆う程の雲が空を占領している。
何となく私の心の在り様みたいだ、自嘲気味に笑った。
藤川君が自分の事を好きだとは頭では分かっていたが、私は全然藤川君を理解出来ていなかった。彼はいつだって親切で優しくて、人を優先するような所があった。いくら就業時間外とはいえ、社内であんな事をする人だと思っていなかった。自分が彼をそうさせてしまったんだろうか。
由樹にも、藤川君にも。
どうやって接していけばいいのか分からなくなってきている。
由樹が好きだ。もっともっと【高瀬 由樹】という人を知っていきたいと思っているし、愛情を与えられる袋なんて物があったら確実に破れてしまっているような傷付き易い彼を守ってあげたいと本気で思ってる。
…なのに、藤川君を気にかけてしまうこの気持ちがなんなのか分からない。
会社であんな事されても、正直まだ嫌いになれない。
単に由樹の面影があるってだけじゃない。彼もきっと内面は由樹に似ていて、満たされない何かを探し続けている人。それは私には埋められない、埋めちゃいけないって分かっているのに。邪険に出来ないのは私が優柔不断過ぎるのだろうか。
つぅっと頬を流れた涙に気づき、思わず拭おうと手が伸びかけたが…私にはその資格はないとそのままにした。
スマホには何度も由樹から着信が入っている。
あんまり帰宅が遅いから心配しているんだろう。
この電話をとったら、由樹はきっと真っ直ぐここまで来て私を抱き締めてくれる。でもそれは彼の優しさに付け込む行為に過ぎない。
何度も心が揺れたが、着信はそのままにして空を眺めていた。
今日はこのままどこかビジネスホテルにでも泊まるのもいいかもしれない。
そんな事を考えていた。
「泉…みーつけたっ…!」
ベンチの後ろから抱き締められ、私は驚いて後ろを振り返った。
息を切らせた由樹が立っている。
何で、何で来てくれるのよ。
苦しくなった私が嗚咽を漏らすと、由樹は顔をスリッと寄せて優しいキスをくれた。流れる涙を舐めとって、そのまま唇を塞がれた。
優しく慰めるようなキス。私は堪らない気持ちになって自分から唇を追いかけた。
「…泉、帰ろ?」
きっと、何かを察しているはずなのに。彼は何も聞かないで私の手を握った。
導かれるままに、私はベンチから立ち上がる。
由樹はにこっと微笑んでくれて、もう一度だけキスをくれた。
二人でマンションまでの道を手を繋いで歩きながら、私はどうしても気になっていた事を聞かずにいられなかった。
「…どうして、あの公園に居るって分かったの?」
「ごめんなさい」
由樹はちょっと悪びれた顔をして、スマホを見せた。
私の現在地が表示されている。どうやら前に消したフリをして、残していたらしい。
「…ね、あると便利でしょ?」
あざといような表情でそう言った由樹に、私はちょっと笑ってしまった。
「…そうかも。便利だね…ありがとう」
私は握っていた手を離して、ギュッと腕に抱き着いた。
さっきよりちょっと歩き難いけど、何だかそうしたくて堪らない気持ちになっていた。
夜の帳は私達を優しく包んでいる。
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