07

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結局部屋に戻った後も、由樹は何も聞いて来なかった。 ただギュッと抱き締めて、頭や頬を撫でて… 二人で寝るには狭いシングルベッドで身体をくっつけ合って眠って過ごし… 翌朝には姿を消していた。 目が覚めて、私はただ涙を流した。 それがただ仕事に行った訳じゃないのは、部屋に残ってた書置きのメモが物語っていたから。 “ごめんね” ただ一言だけ添えられたメモと、郵便受けに入れられた合鍵。 今夜だけじゃない。もうここへ帰って来ない、そんな意思があった。 “どうして?” 私の心はその言葉しか浮かばなかった。 由樹の優しさに甘えないで、全部隠さず伝えれば良かったのだろうか。 でも結局、二人共に違う種類の好意を感じてしまっている自分が一番悪いんだ。それを全部藤川君の所為にして泣きつける程、悪い女にはなりきれない。 由樹はそれでも…悪くてズルい女でも、受け入れてくれたかもしれない。 最後に気持ちが自分にあるって思えたら、優しい由樹ならそれで良いって言ってくれたのかもしれない。きっと見透かされていたんだ。最後の最後で、二人の手をどちらも握り切れないだろう私の内心を。 …もう、泣くのは最後にしよう。 前を向いて、自分に向き合わなきゃ。例え、もう遅かったとしても。 グッと涙を拭うと、私は半休を取って今更ながら銀行口座や保険の氏名変更をしようと住民票の取得をした。そして分かったのは、由樹は婿入りをしていたということだった。『婚姻後の夫婦の氏』の欄で私の性“葉科”を選択していたらしい。そこにどんな思いがあったのか、私には計り知れなかった。たまたま結婚に乗り気だった女に縋りたくなるぐらい、“高瀬”と“藤川”の家と関係を切りたかったのかもしれない。 …結局、名前の変更をする必要は無かった。 不要になった住民票をくしゃっと握り締めて、まだ時間には余裕があったけど出社する事にした。一人で居ると考えがマイナスになっていく。 仕事をしている方がましだった。 ◇◇◇ 「…泉、半休取ってたけど体調悪いの?」 出社してすぐ、泉にそう声を掛けられた。 顔を洗って化粧で取り繕っても、きっと酷い顔は治ってないのだろう。 私が曖昧に笑って返すと、エミは「…無理はしないでね」とそれ以上の追求はしないでくれた。私は本当、人に恵まれている。優しい人しかいないなぁと、素直にそう思えた。 うん、大丈夫。人の優しさが感じられる内は、きっとまだ心に余裕がある。 私はまだ大丈夫。 そんな事を自分に言い聞かせて社用メールを眺めていると、同期の中で頻繁にやり取りがされていて気になってクリックした。自分も含まれたメンバーのメールで、どうやら今夜急遽飲み会を計画しているようであった。 社用メールで何やってるんだと呆れながら、私は辞退をしようと返信の文面を入力していた。もうすぐ送信しようとしたその時、他のメールを受信したので先にそちらを見た。 …今日は外出になっている藤川君からだった。 “今日の飲み会、同期からの俺の誕生日祝いなんだ。…この間のこと、ちゃんと話したい。泉に参加して欲しい” 見計らったようなタイミングで、私は驚いて周りを見渡してしまった。 勿論藤川君がいるはずもなく、隣のエミに怪訝な顔をされてしまった。 由樹といい、藤川君といい。何か不思議な力でもあるんじゃないかと勘繰ってしまう。 私も自分の気持ちをはっきりさせる為にも、あまり藤川君を避ける真似はしたくなかった。けど、流石に今日は…そう意気地なしになった私の気持ちを追い詰めるように、もう一通メールが、今度はスマホに届く。 “卑怯な事はしたくないんだけど、絶対今夜泉に会いたいから、ごめん” “この間、泉の声を録音してたんだ。可愛かったから、写真も一枚あるよ” 添付された写真は、私が会議室で執拗に攻められて…潮を吹いて腰が砕けた時の姿のそれだった。 私は慌ててスマホの画面を消した。 顔が熱いような、血の気が冷めるような相反する感覚で脳みそがくらくらした。 …私、あんな蕩けた顔で藤川君を見てたんだ。 そんな顔してたら、次は抱く。そう耳元で言われた事を思い出し、私は熱くなった耳を抑えた。ちゃんと、藤川君にも向き合おう。そうしないと…例えいま由樹に会えたとしても…きっとすぐダメになる。由樹にちゃんと気持ちを伝えられるような自分になりたい。 これが本当に正しいのかは分からないけれど。 私は参加の旨をメールに記載して返信をした。
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