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08
由樹が部屋を出て行ってからもう二週間が経過している。
単身用1LDKだし、由樹と生活している間は手狭で仕方なかったのに…狭いからこそ…今のこの広さが辛かった。
由樹と結婚した日から今日まで大した時間は流れていないのに…ぽっかりと隙間が空いた室内と心には寂しさだけが溜まっていった。
朝起きても、キッチンから聞こえるご機嫌な鼻歌が聴こえない。
仕事から帰っても、リビングで寛で…こちらに気付いて両手を広げて抱きしめてくれる腕がない。
一緒にお風呂に入って、狭いバスタブで絡まるようにくっつく足がない。
眠る時…落ちないようベッドでぴったりと寄り添ってくれる彼が…いない。
足りないだらけの私の現状は、少し前の当たり前だったのに。
流石に二週間も一人で過ごしていると、不意に名前を呼んでしまう回数も徐々に減ってきた。由樹がいなくなった日の翌日なんて、誰もいない部屋で由樹の名前を何度呼んでしまったか分からないぐらいだった。
けれどそれは、由樹を忘れたわけでもなければ…この生活を受け入れてしまったわけでもなかった。むしろ由樹にまた会えた時に、胸を張って『私』でいられるように必要な事だった。由樹が選んだ今を、私がくよくよと生活しているわけにはいかなかった。
日々の日常を、仕事を。
一人でも精一杯生きています。
ねぇ、由樹。あなたはまた笑って頭を撫でてくれますか?
◇◇◇
「俺のこと振ったのに、幸せそうじゃないな?」
ある日の昼休憩、藤川君にそう声を掛けられた。
彼は海外への栄転を受け、暫く同期の間で持て囃されていた。最近は引継ぎ作業に追われていていつも忙しそうにしていたから、久々に話せた気がする。
あの日以降、藤川君は憑き物が落ちたようにスッキリした表情をしている。今まで誰にも言えなかった由樹と…家の問題を吐露して、気が楽になったと彼は言っていた。「泉があいつを捕まえといてくれるなら、次は安心して恋愛出来る」そう言った藤川君の横顔はやはり由樹に似ていたけれど…嫌がるからそれは言わなかった。
「…由樹、もういないから」
「え…」
何となく今まで黙っていたけど、その日は口に出てしまった。
藤川君は信じられないといった顔で言葉を失っている。
「…俺が前に、由樹から逃げたかったら協力するって言った事憶えてるか?」
不意に聞かれ、私は記憶を辿り…そして思い出した。
前にカフェで藤川君と会っていた時の話だ。あの後、嫉妬した由樹に目隠しでレイプされた怒りですっかり忘れてしまっていた。
「前から俺とか兄貴の好きな相手があいつに奪われてたのは知ってるだろ? …あいつ、好きって気持ちが本当に分からないみたいで大分歪んでてさ。言葉だけの“好き”とセックスだけじゃ相手を繋ぎ止められないと思って…寝取った相手をよく監禁してたんだ。自分としか過ごさなければ、相手も自分を好きになるし…自分も好きな気持ちが理解出来るかもって…。何度か事件に発展する前に親父が何とかしてたみたいなんだけど。…葉科には、そんな無茶してないみたいだったし、人並みの恋愛をしてるんだなって思ってた。自覚してるか分からないけど、多分あいつ…やっと好きって気持ち分かったんじゃないかな…」
それだけ言うと、藤川君は上司に声を掛けられて席を立った。
ごめん、と視線を送る彼に片手をひらひら振って応える。
頭の中で藤川君の言葉が何度も繰り返された。
GPSの追跡アプリも、目隠しレイプも(あれをお仕置きセックスだと呼ぶなら)、由樹の今までの価値観で比較するのなら大分真っ当な?恋愛観になっていた事になるんだろう。彼には好きになりたいと言われた事があったが、言葉で『好き』と伝えられたことは一度もない事に今更気付いた。
それはきっと、表面的な『好き』で誤魔化そうとしなかった彼の真摯さの表れなのだと感じる。
…無意識下でも、好きな気持ちを私に感じていたのだとしたら。
今度はちゃんと素面の時に、プロポーズをやり直したいと思った。
◇◇◇
「…この雑誌も、YOSHIKIが表紙だ」
職場からの帰り道、本屋に立ち寄る事が多くなった。
雑誌や広告で活躍が著しい彼の姿を見ると、元気なんだなと安心出来たから。
こうやって紙面の由樹に恋情を抱いていると、傍から見たらただの熱烈なファンにしか見えないだろうな。私は可笑しく感じて少し笑った。
本屋でYOSHIKIの雑誌を愛しそうに眺め、購入している女がそのモデルの妻だなんて誰が思うだろうか。
それぐらい現実感がないレベルで、私の生活から由樹は消えてしまった。
元々ゴミ捨て場で拾った男だから…部屋に持ち込んだ私物もほとんどなくて。
辛うじて彼が使っていた歯ブラシや、購入したマグカップぐらいが夢でなかった証として部屋に残っている。
無性にあの部屋に帰るのが怖くなってしまった。もし歯ブラシが消えていたら? そんな妄想をしてしまうと際限がなくなっていく。
暫く同じコーナーで佇んでいたら店員さんに訝しがられてしまったので、慌てて雑誌を購入して店を出た。
夜の街は相変わらず幸せそうな人々で溢れている。
すれ違う人を横目で見ながら歩いていると、ジュエリーショップのショーウィンドウが目に入った。
綺麗なペアリングが何種類も展示されている。
…そういえば指輪をするなんて発想なかったなぁ。
指輪を眺めながらそんな事を思った。
出会い方が出会い方だし、結婚も酔った勢いだったし。
私達には何も計画が無かったから仕方のない事だけれども…
もしここに証があったら、私は強くいられたかもしれない。
自分の薬指を握りながら取り留めのないことを思い、指輪から視線を外して歩き出す。
うん、まだ大丈夫。
まだしっかり立っていられるもの。
自分に言い聞かせるように背筋を伸ばし、前を向く。
もうすぐでマンションが見える。
家の近くのコインパーキングを通り過ぎる、そんな時だった。
車から誰か降りて来た音がしたと思ったら、突然口元を塞がれた。
「んんー!!!」
驚いたけれど声にはならなくて…
口を塞いだ布からは刺激臭がして私の視界はぐらりと反転した。
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