遠くよりも近くは見えない

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 ちらりっ、と見た壁掛け時計は、終わりまであと五分であることを示している。  それを確認した本間佳珠葉は、鼻歌が漏れそうなのを必死に隠しながら、キーボードを休みなく叩いた。  これさえ終わればーー。  最後の書類の処理を終わらせると同時に、五時を告げる電子音が響く。  佳珠葉だけではなく、仕事の終わりを告げる音を待っていたフロアの人間からは、もれなくため息が聞こえてくる。  その中でいそいそとパソコンの電源を落とし、足元から鞄を拾い上げて中から手帳を取り出し今日の予定を確認すると、思わずニヤけずにはいられない。  今日の日付のところには、ハートマークと共に十九時と書かれている。 「本間先輩、今日は予定があるんですか?」  隣から聞こえてきた声に、慌てて手帳を閉じれば後輩の望月要が椅子に座りながら勢いよく背中を伸ばしていた。 「ど、どうして?」 「いや、珍しく時計を気にしているし、今日は一日中……なんだか嬉しそうだったんで」 「えっ!」  どちらかといえば、表情や感情が分かりにくいと言われる方なのに、それが漏れ出ていたなんて自分は一体どれだけ浮かれていたのだろうか。  突然、恥ずかしくなって、佳珠葉はパソコンに隠れるように身を屈めた。 「私、そんなに分かりやすかった? 他の子たちも気づいてると思う?」  声を潜めていえば、同じような体勢にになった要も、声を潜めて笑った。 「いえ、気づいてないと思いますよ。相変わらず、先輩の顔にはなにも出てませんもん」 「え……じゃあ、なんで?」 「うーん、空気感っていうんですかね。ほら、僕って先輩の指導でここまできたじゃないですか。だから、なんとなくわかるんですよ」 「そう、ならよかった。一日中、だらしない顔でもしてたのかと思って焦ったじゃない」  想像しただけでもぞっとする光景に、これからはもう少し気をつけなければと気を引き締めた。 「それじゃあ、帰るわ。お疲れ様」 「お疲れ様でした、先輩。また明日」  涼やかに微笑む要に背を向けると、全く急いでいませんという体で部屋を出た。  廊下は、同じように帰りを待ちわびていた人で溢れている。  いつもなら、ここまで混む前に部屋を出ているのに、要と話していたせいで遅くなってしまった。  佳珠葉はエレベーターを待つ列には並ばず、手前の階段を使って一階へと下りた。案の定、五階のフロアの人間でエレベーターがあるのに階段を使う人間はおらず、階段には彼女の靴の音だけが響いている。  階段を駆け下り、一階までくると速度を落とし人の波に乗った。  こういう時に苛つくのが、歩きスマホをしている人と、友人同士で話しながら歩いているせいで遅い人たちだ。  湧き上がる苛立ちをどうにか飲み込みながら、スペースができるたびに追い越していく。  さながら、何かのゲームかというほどの集中力だ。  けれど、今日は遅れるわけには行かない。  どれほどこの日を待っていたか。  六ヶ月ぶりの時間を誰にも邪魔させるものか。  それでも全く表情に出ていない佳珠葉を訝しる人は誰もいない。  そして、彼女は普段よりも数分速く改札をくぐり抜けた。  
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