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 海寿輝の祖父は漁師だった。歳を取って体の自由が利かなくなり、船に乗ることができなくなっても、最愛の祖母に先立たれても、決して海寿輝たちの住む家に移り住むことはなく、愛犬のカイと海辺の一軒家に住んでいた。  海寿輝が子供の頃、祖父は酒に酔うとよくクラゲの大群の話をした。流星群の輝く8月の深夜に防波堤の先へ行くと、青白く光る無数のクラゲたちに出会えるというのだ。普段は寡黙で真面目な祖父も、この話をする時はやけに饒舌になった。  ――流星群の夜にな、真っ青に光る海月の大群が出んだ。ありゃたぶん普通ン海月じゃねえべ。姿かたちは水海月だけんども、あんなに青く光るなんてこたああんのかね? 網でもって掬ってみても1匹もかかりゃしねえし、幽霊なんでねえべか。でも、とんでもなく綺麗なんだ。今まで見てきたどんなもんよりも。あれは命そのもんだ。  祖父はそう言って幼い海寿輝を怖がらせた。以来、彼女はクラゲに対してどことなく不気味な印象を抱くようになり、やがて自分からクラゲという存在に近づくことはなくなっていったのだった。  祖父は座敷に敷かれた布団の上に静かに横たわっていた。ほんのり酒に酔って寝ている時と何も変わらない、穏やかな寝顔だった。もうこの世の存在ではないという実感がまるで湧いてこない。海寿輝は祖父の顔の方へ近づいて、「爺ちゃん」と呼んでみた。声を掛ければ当たり前のように目を開けて「よく来たなあ」とでも言い出しそうな気さえした。 「寝てるようにしか見えねえのになあ」  側にいた父が消え入りそうな声でそう言った瞬間、突然大粒の涙がせり上がってきて、海寿輝はその場にいるのがつらくなった。襖を開け、クーラーの効いた座敷を出ると、庭でカイが鳴いていることに気が付いた。カイは祖父に似て大人しく利口な雑種犬だったが、この日は鼻を鳴らすような切ない声をあげ、同じところを行ったり来たりしていた。   「中に入りたいの?」  海寿輝は玄関の戸を開け、カイの首から縄を外してやった。しかし、カイは家の中には入らず、真逆の方向へ勢いよく走りだした。信じられない素早さで塀を乗り越え、あっという間に闇の中に消えてしまった。 「カイ!」  海寿輝はカイの後を追って駆け出した。彼女の声はカイの後姿と共に夜の闇の中へと吸い込まれていく。背後から母の呼ぶ声が聞こえていたが、構わず夢中で走り続けた。  橋を渡り、鉄橋をくぐり、防風林を抜けると、誰もいない静かな浜辺に出た。船着き場の奥には長い防波堤があり、その先で赤い灯台が光を放っている。カイは防波堤の上を何の迷いもなく一目散に走っていく。時折振り返っては海寿輝の方を見るその姿は、何か見せたいものがあるようにも見えた。防波堤の先に何かがある。そんな気がした。  灯台までたどり着いたところでカイは足を止め、尻尾を振りながら嬉しそうに声をあげた。
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