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「……ええと、とりあえず……今日は無事でよかった、ね」
蒼衣は淹れ立ての紅茶のカップを手にして、なんとか一言目を言い出すことができた。
うつむく幸久の前には、ブラックコーヒーが湯気を立てている。手を付ける様子は、ない。
時刻は十八時。早めに仕事を切り上げ、喫茶の席を借りて幸久と昼のことについて話をしようとしているのだが、なかなか本題を切り出せない。
なんで、どうしてと詰め寄るのは簡単だが、それは問われる幸久への心理的プレッシャーが大きい。過去、蒼衣がされて一番苦しかったことだ。
ええと、とか、あの、と歯切れの悪いことばかりつぶやいていると、幸久が顔も上げぬまま「俺、クビなんでしょう」と言葉を落とした。
「……えっ?」
「あんな爆発起こしてますし。これからそういう話をするんですよね?」
表情は見えないが、声からふてくされている様子はわかる。
「そんなこと……。ただ、僕は君と――」
ガタン、と椅子を乱暴に引く音が響く。
「もういいです」
幸久が立ち上がった。
「――待って!」
蒼衣は通り過ぎようとする幸久の腕を、とっさにつかむ。少々強引ではあることはわかっていても、今ここで彼をひきとめないといけない。蒼衣は強く思っていた。
だいたい、逃げ出したいひとは、助けてくれが言えないだけだ。
蒼衣は、腕をつかんだまま席を立つ。
「こ、こっちに来てくれる?」
なんだよ、ちょっと、と戸惑う幸久を、ショーケースの前に連れて行く。
「八代、ミニフィナンシェの試食ってまだある?」
カウンター内で二人の様子をうかがっていた八代が「あるよ」と壺を差し出した。 蒼衣は幸久の腕から手を離し、壺を受け取る。そして、
「僕の作った金のミニフィナンシェ、食べてみて」
と、幸久に向かって、きっぱりと言い放った。
「……は?! なんでこんなときに」
あからさまに不快な顔をした幸久にひるみそうになるが、それでも蒼衣は「こんなときだから」と押し切る。
「もしハズレなら、今すぐ帰ってもいいし、本当に辞めたければ辞めてもいい。好きにしてもらっていい。師匠になにか言われるのが怖ければ、僕が全力で盾になる。僕も一応、あのひとの弟子だからね、話はできる。だけど……僕の味を確かめずに辞めるのって、悔しくない?」
突然の言葉に、顔をこわばらせる八代を蒼衣は制す。
自分でも、ずいぶん挑発的なことを言ったとは思う。しかし、蒼衣は彼を帰らせたくないのだ。無理やり引き留めるには、どんなにくだらなくても、彼の心の琴線に触れる「きっかけ」が必要だった。
対話するには、自分を……『ピロートのシェフパティシエ・天竺蒼衣』を知ってもらう必要がある。
「……シェフ」
今まで蒼衣をまともに見ようとしなかった幸久が、初めて蒼衣の顔を見た、気がした。
「当たったら少しでもいいから、僕の話を聞いてほしい」
幸久を再度見上げ、蒼衣は言う。そして、壺についていたトングで一つ取り出すと、幸久に手を出すよう促した。
戸惑いながらも、幸久は手を出す。ころん、とフィナンシェが手の中に転がる。大きな手でフィナンシェが割られた。
ほんのりと、割れ目から光が漏れる。
――金の粒の姿が見えた。
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