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ビコーズアイラブユー
――星を観に行こう。
突然の彼女の提案に、俺は頷くことも首を振ることも出来ず、引き摺られるようにして無理矢理車に押し込められた。いたいけな少年とは言わないが、仮にも恋人である俺にこの扱いはないと思う。
ひとこと物申してやろうと息を吸った。が、声は出なかった。ハンドルを握る彼女は何処か物憂げで、言葉を発することが出来なくなってしまった。
車を流して数十分、車内はノイズ混じりのラジオから流れる洋楽に支配されていた。俺も、彼女も、口を開かなかった。
⊿
「着いたよ」
エンジンを切った車内は、突然静寂に包まれる。あたたかくも冷たくもない声が鼓膜を刺激する。
車を降りる彼女につられて、俺もドアを開けた。
「見て、綺麗」
思わず息を飲んだ。
雲ひとつない、満天の星。
空を横切るように、天の川が煌めいている。
冷えた空気を肌に感じながら辺りを見回すと、草っ原の奥に鬱蒼と木々が生い茂っているのが見えた。足元には枯れた草の隙間から地肌が覗いている。
彼女は躊躇いなく地面に腰を下ろした。にこりと微笑んだ彼女は、小さく手招きをした。仕方がないので俺もその隣に腰を下ろす。とうとう地面に背をつけた彼女は、空に向かって人差し指を突き立てた。
「あれがシリウス。斜め上にあるのがプロキオン。その上にあるのがポルックス。それからカペラ、アルデバラン、リゲル。冬のダイヤモンド」
「三角形じゃねぇの」
「冬の大三角はシリアスとプロキオンとベテルギウス。確かにこっちの方が有名だけど、わたしは冬のダイヤモンドが好き。大きすぎて注目されない、ちょっと可哀想な星たち」
指差しながら、星の名前を教えてくれる。正直、星の名前なんかに興味なんざない。それでも、彼女があまりにも瞳を輝かせて言うから。だから気になるだけ。そう自分に言い聞かせた。
「あれがベテルギウス。赤い星」
天の川の中で一際輝きを放つそれの名前を呟く彼女の唇は、微かに震えていた。
ごろん、と急に俺の方へ向かって寝返りを打つ。
「ごめんね、付き合わせちゃって」
「別に」
「この空、まこちゃんに見せてあげたかったの」
「へぇ」
存外気のない声が出たものだ。
彼女はことあるごとに俺を子ども扱いする。五つも年が離れていれば当然といえば当然なのだが、腑に落ちない。
「どうしても、最後に一緒に見たかった」
彼女の声は、震えていた。
「……最後、に?」
絞り出した声は、思いの外情けのない音になった。
「わたし、イタリアに行く」
「は、――え?」
「留学するの。出発は来週。五年はこっちに戻らない」
「なっ……!!」
「わたしの夢、知ってるでしょ? 世界で通用するデザイナーになるためには、やっぱり世界を知らなきゃいけない。本場で揉まれて来なきゃ」
「だからって、なんで、今まで」
「すぐ引き返せる状態で言うと、決心が鈍るから。もう、戻れない」
「……っ!」
「ごめんね、まこちゃん」
頭を鈍器で殴られたような衝撃。
彼女の言葉が反芻出来ない。
「泣かないで」
「泣いてなんか、ねぇし」
嘘だ。
現に俺は、両の目から溢れる塩水を止められないでいる。
それを隠すように、力任せにぐいと目を擦った。
「擦らないで」
彼女は俺の手を掴んで、上体を寄せた。まるで俺が彼女に押し倒されているかのような格好になる。シャンプーの香りがふわりと漂う。
「赤くなってる」
そう言うと、彼女は俺の目尻をそっと拭って、まるで毛繕いでもするかのように舐め上げた。
「く、すぐった、」
「んー、しょっぱい」
「当たり前だろ……っ」
振り払おうとしても、この体勢では適わない。
「もっと顔、よく見せて」
彼女は両手で俺の頬を包み込んだ。
「ふふ、まこちゃんの泣き顔、そそる」
「変質者か」
「だって、わたしの前でしか泣かないでしょう」
「……」
「ほら、図星」
「――るせぇな」
次から次から溢れてくる涙を、当然のように舐めとる彼女。年上の余裕というやつだろうか、翻弄されっぱなしなのが気に食わないが、俺になす術はない。
「まこちゃん」
不意に名前を呼ばれ、瞑っていた目を開けると、
唇を塞がれた。
なににとは言わない。柔らかくて、熱くて、ほんの少しかさついたもの。初めは触れるだけだったそれは、次第に濃度を増し、潤いを伴っていく。ときどきぶつかる歯。絡み合う舌。貪るという表現が最適だと思った。
悩ましげな吐息と共に離れた唇は、蠱惑的な弧を描く。
「待ってて、くれるんでしょ?」
乞い願うように、それでいて確信を含んだ音色で囁かれた台詞は。
いつか、お前に釣り合う男になってやる。
だから、
首洗って、待っとけ。
「――当たり前だ、馬鹿」
唇に思い切り噛み付いてやった。
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