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最近、キレイになった?
「ただいまーーって誰もいないか」
内藤七瀬は誰もいない部屋に向かってそう言うとすぐに、ヒールを脱ぎ捨て、冷蔵庫に直行した。そして、ビールを取り出してぐぐぐっと体に流し込んだ。
はあ~〜という声とともにその場になだれるように座り込む。
「いてててて……。えっ! やばっ! 」
カーテンの隙間から白い光が差し込んでいるのを発見して慌てて飛び起きる。私が突っ伏して寝ていたフローリングの上には、空のビールの缶が一本転がっていた。慌ててかばんからスマホを取り出して時間を確認する。いつも通勤に使っている電車は10分前に行ってしまったようだ。
「大丈夫、大丈夫、全力で走れば間に合う」
自分を落ち着かせるようにそう言って、メイクポーチとクレンジングだけでも持っていこうと思い洗面所に向かった。
鏡に映るシワシワのスーツを着て、よれたメイクでは隠しきれていないニキビ肌でおまけに二重顎が立派な自分に衝撃を受けながらも、家を飛び出した。
OLになってから5年目。大学時代の私は美容オタクで週3でジムに通い、引き締まったスタイルを維持し、スキンケアも念入りにしていたしエステにも頻繁に通っていた。周りの友達からも美容についてよく尋ねられていたし、綺麗で大学内では結構有名だった。だから、しょっちゅう告白もされたし、スポーツマンの私にベタ惚れのかっこいい彼氏もいた。
しかし、その彼氏にも大学を卒業し、就職してから1年たった頃に振られた。
「ごめん、もう七瀬のことのこと、女として見れなくなった」が別れの言葉だった。
その当時は、あんなに仲が良くて自分のことを好いていた彼氏がそんなひどい言葉を使って振るなんて、男として信じられなかったし、腹が立って仕方がなかった。
けれど、今になって考えればそう言われたのも当然だと思う。
社会人というものは私が学生時代に想像していたものよりずっと大変で忙しかった。昔から要領の悪い私は仕事を覚えるのも人一倍遅く、先輩にたくさん迷惑をかけ、叱られてきた。
毎日、叱られてはやり直し。叱られてはやり直し。の繰り返しで疲れ切ってしまい、ジムやエステに行く余裕などあるはずもなく、着替えるのもメイクを落とすのも忘れて冷たいフローリングの上でうなだれて眠ることもしばしばある。
そんな社会人1年目の私は休みの日も家でぐーたらして、スキンケアもせず、仕事へのストレスを食べることで発散するような毎日を過ごしていた。なので、当たり前のように体重はどんどん増えていき、肌もニキビだらけでぼろぼろだった。
そんな頃に、彼氏に振られたショックも重なり私の女子力は益々0へと近づいていったのだった。
5年目にもなると、仕事にもだいぶ慣れてそのようなことも随分と減ったが、昨日のような長い接待にはいつになっても慣れることができず、接待の日はフローリングの上で朝を迎えてしまうことが多々ある。
私は顔を見られないようにうつむきながら出社した。時間はギリギリセーフ。ほっと一息ついていたら、後ろから肩をとんとんと叩かれた。振り返ると、そこにいたのは先月の4月から異動してきた多田洸希だった。年は私より2つ下の年下だが、すらっと背が高く、社交的で仕事もできる好青年でもうすっかり周りに馴染んでいる。
「おはよう多田くん。どうしたの。」
「ちょっと動かないでください。」
そう言って、多田くんは私の髪に手を伸ばした。そして、糸くずを取って、ついてましたよ、と優しく微笑んだ。優しく爽やかな香りがした。
私は、トキメキのドキドキよりも1日お風呂に入っていなくて洗っていない髪に触れられたことにドキドキしてしまった。臭くなかっただろうか、そんなことよりこんな顔を見せてしまうなんて自分が情けなくて、恥ずかしくてたまらなかった。
私は、クレンジングとメイクポーチを持ってトイレに駆け込んだ。そして、すぐさまメイクを落とした。ふと鏡に映った自分の肌はニキビだらけだった。こんなに肌が荒れているのは思春期のとき以来ではないだろうか。いそいでコンシーラーを顔に塗りたくってその上からファンデーションをはたいた。かなり厚化粧なことはわかっているが、あのニキビ肌が見られるよりはましだと思い、いつも私のメイクは厚くなっていく。
すると、同期の吉田莉乃が入ってきた。
「あ、七瀬また寝坊したんでしょ。女子力なさすぎだよ〜〜」
「しょうがないじゃん。昨日遅くまで、接待だったんだから。」
「しょうがなくないよ〜私達もうそろそろアラサーだよ?今のうちに美容に気をつけていかなきゃ、10年20年後化け物になっちゃうよ。ほら〜~
こんなニキビだらけだからメイクに時間かかるんだよ。」そう言って私の頬を人差し指でツンツンとつついてきた。
莉乃は機嫌のいいときと悪いときのギャップが激しいが今日はすこぶるいいようだ。
「私なんかね、小野先輩に最近キレイになったねって褒められたの。それで小野先輩がスキンケアグッズプレゼントしてくれたの。今日の朝も塗ってきたんだ〜〜」
ああ、それで機嫌がよかったのか。
小野先輩とは、この部署の3歳年上の先輩で服装は基本パンツスタイルにヒールを履いていてショートカットで前髪をかきあげ、いつもほぼすっぴんといっていいほどのナチュラルメイクだ。しかし、誰よりも華があるみんなのあこがれの先輩だ。
「七瀬も頑張りなよ。じゃなきゃ一生彼氏できないよ〜」
「でも、私はそういうのいいかな。」
「…………」
「莉乃?」
どうせ合コンに連れてかれて引き立て要員に回される流れだろうと予測していたのに突然莉乃が無言になったので驚いて莉乃の方を振り向くとキョトンとした顔で莉乃が鏡をじっと見ていた。
「ねえ、どうしたの?なんかあった?」
「七瀬最近、キレイになった?」
真剣な顔つきでまじまじと聞いてくるので、私もつられて顔をしかめて莉乃の顔を見つめた。
「え? なに、いきなり」
「あ、いやよくよく見たらキレイになってるなって」
「嘘だー。だってさっきまで色々言ってたのに……」
「あ、、だよね、、じゃあね私もう行くね。」
「え、ちょっと待ってよ」
莉乃は駆け足でトイレから飛び出していった。鏡に映る私は先程と何も変わらずぽっちゃりで顔色の悪いアラサー女子だ。よく見てみてもやっぱり綺麗になったとは思えない。
けれど、何年ぶりに容姿のことを褒められただろう。綺麗になった、なんてはるか昔に聞いた響きで少し心が弾んだ。
特に向上心があるわけでもないし、目標があるわけでもないけれど綺麗になったと言われるのは嬉しかった。
その日の帰り道の道中、シャンプーの詰め替えを買いに行くついでにスキンケア用品を買った。別に、綺麗になったと言われて浮かれたわけではないが、莉乃の言う通り肌が綺麗になればメイク時間も短縮できて、寝れる時間が増えるかもしれないと思ったのだ。
「世界の大人ニキビを撲滅する! 」「あなたをキレイにする! 」というポップが一番に目について、とりあえず、とその商品をすばやく買い物かごに入れた。久しぶりに美容用品を手にとってちょっと恥ずかしかったからだ。
今日は早めに仕事をあがり、帰宅した。すぐに缶ビールをぐいっと飲み干し、お風呂を沸かして、お湯がたまるまでにカップラーメンを慌ただしくすすった。相変わらず女子力のない生活だが、お風呂上がりのスキンケアはしっかりこなした。何年ぶりかに潤いを取り戻した肌を5分ほど鏡で色んな角度から眺めていた。
次の日の朝、うきうきしながら洗面台に向かったが特に変化はなかった。当たり前のことだが一日で改善するわけない。でも、うきうきと心を弾ませた私は、分かっていながらもがっかりした。
そのままいつものようにファンデーションを何層にも重ねて化粧をした。いつもは大して気にしていなかったポツポツとした赤いニキビが気になって仕方なくなってしまい、いつもより増してファンデーションをはたいた。
その日の夜も、次の日もその次の日もニキビを撲滅するために、スキンケアを続けた。
2週間後。私の大人ニキビはすっかり姿を消した。
「すっご! ほんとに撲滅された! つるつる! 」
私はペタペタと頬を触りながら部屋で一人、興奮していた。あっという間に雑誌の表紙のモデルのようなぷるぷるつやつや肌を手に入れた私は、久しぶりに美容のスイッチが入った。
毎朝出勤前にランニングに行き、筋トレをして、自炊をしたりと、自分磨きに必死に取り組み、めきめきと過去のキラキラ女子の姿を取り戻していった。
そして、とうとうある日の帰り際、会社のエレベーターで多田くんと二人きりになった。
前までは、どうやって顔を見られないように隠すか必死だったのに肌も綺麗になって、痩せて、香水なんかもつけるようになった私は思い切って多田くんをご飯に誘おうと試みていた。
「内藤さん、最近キレイになりました?」
「え、あ、そうかな」
私より先に多田くんから声をかけられて、心臓が飛び出しそうだった。でも綺麗で男慣れしている年上女性を装って
「このあと一杯飲み行く? 」とさらっと誘った。目線も合わせず、当然先輩としてよ?と強気な態度が精一杯だった。
「はい! もちろん! 」と食い気味に返事してくれてほっとしたのも隠して、ふふっと笑った。
「あの七瀬が多田くんと付き合うことになるなんて……」莉乃はトイレで化粧を直しながらため息交じりにそう言った。
「莉乃がキレイになったって言ってくれたからだよ」
「え、私そんなこと言ったっけ? 」
「言ったよ! 」
「全然覚えてないなーー」
莉乃はとぼけている様子もなく本当に忘れているようだった。
「えー大丈夫? もう老化が始まってんじゃない? 」
「うるさいなー。ねえ、こんな時間だよ。次打ち合わせじゃないの? 」
「あ、そうだ、ありがとう」
私は足早に会議室に向かった。今日は初めて私に任された大事なプロジェクトの打ち合わせ。
会議室の扉を開くと、打ち合わせに使う資料の準備をしていた後輩の悠里ちゃんがこっちを向いてお疲れさまです、と小さくお辞儀をした。
悠里ちゃんは今年の春に入社した田舎育ちの芋っぽい女の子。上京して半年以上たつのにまだ訛りが抜けないらしく、生まれてからずっと東京育ちの私には意味のわからない言葉を話すこともよくある。服装もだいたい黒、紺、灰色で固められ、髪はいつもひとつに縛って気持ち程度の化粧しかしていない。慣れない東京での生活のストレスからかいつ見ても頰にニキビがあった。
「悠里ちゃんありがとう」
「いえ、そういえば部長がこのプロジェクト期待してるって言ってましたよ」
「やっと任せてもらえたからねー。あっ痛っ! 」
「どうかしました? 」
「目にゴミが入っちゃったかも」
私はポケットにしまっていた小さな手鏡を取り出して、自分の顔を映した。
「なにこれ」
目のゴミなんて忘れちゃうくらいに釘付けになったのは私の頰だった。誰かのいたずらかと思ったが、さっきトイレの鏡で見たときは何もなかった。わずか2、3分の間にこんなことできないだろうし、心当たりが全くない。触っても消えないし、私の内側から出てきたみたいに、まるで魔法のように私の左頬から鼻をまたいで右頬へとネオンピンクの文字が浮かび上がっていた。
「撲滅完了」
と四文字。
すると、次の瞬間には自分の意図しない方向に体が動いて、勝手に口が動き出す。
「悠里ちゃん、最近、キレイになった? 」
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