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  そんな勝手知ったる資料保管室にて、乙哉と宏行はまたしても少々揉めることとなった。この期に及んで乙哉が宏行を置いて行こうとしたためだ。ここまで来てそれはないだろうというのは宏行にとっての言い分で、乙哉はやや気圧されながらも、冷静に、常世の境界は底が知れない、危険だと繰り返した。  しかし、宏行もまた強気に、そんなことは百も承知だと言い返す。自分はなんせ、件の事件において得体の知れない教団の手の者に攫われ、境界に引き込まれる経験をしたのだ。あそこが現実世界とはっきり様相を異にする不明瞭な空間であることは理解していた。  しかし実際のところ、本当に身に沁みてわかっているのかと追及されると少々弱い部分もあった。なぜなら迷い込んだ先で宏行は、ほとんど怖い思いをしていないからだ。そのうえ、散々事前に生と死の狭間の世界なのだと言い聞かされておきながら、一時は恐怖心すら彼方に置き去りにして、夢心地のぬるま湯に身を浴そうとしたのだった。しかし今はそんなことをおくびにだって出すわけにはいかない。少しでも隙を見せたら、たちまち乙哉にそこを突かれ、言い負かされるおそれがあるからだ。  それに思い起こせる今となっては、あれがいかに自分の命を危ぶませる行為であったかは、恐ろしさとともに理解しているつもりだった。  口を真一文字に引き結び、絶対に譲らないぞとの態度をとる宏行に、乙哉は渋々観念したようだった。  わかった、一緒に連れてく。と、溜め息交じりに呻いた乙哉に、勝利を勝ち取った宏行は諸手を上げて喜んだ。 「……トラウマになっても知らないからな」 「え?」  ぼそりと呟いた乙哉の独り言は、宏行の耳には届かなかった。 「――そこに立て」  表情を改めた乙哉は、宏行を目の前に立たせると、両手を組んで印を結び、左の眼を閉じた。  以前話に聞いたような、湍がやったような場のお清めや、呪符を用いたりはしないんだな、と宏行はこっそり思ったが――ふいに自分と乙哉の周囲のみが切り取られ、変質していくのを感じた。  じわじわと頭皮に鳥肌が立つような奇妙な感覚に襲われる。霊感がなく一般的な感性しかもたない宏行でも、それがひどく力任せな――きちんと丁寧に封された箱の内側から、鉄の槌を振るって無理矢理こじ開けようとするような荒業であることは感じとれた。  歪みを修正し正常に保とうとする空間の動きすら押し退けて、乙哉の膨大な霊力は無遠慮に注がれ続ける。  周囲の景色がぼんやりと不明瞭になってきたかと思うと、ある一定を超えたあたりで、突如として平衡を失い、空間がぐにゃりと歪みはじめた。 「――反転する」  宏行は耳の奥で何かが弾ける音を聞いた。身体中の皮膚が裏返り、内側から引っ張られるような奇妙な感覚に襲われ―― ――気がつくと、冷たい黒土に枯れ木が無造作に突き刺さったような、不吉な匂いのする場所にふたりは佇んでいた。
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