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乙哉には生まれつき特殊な力が備わっていた。悪意、不信、嫌悪、不安。そういった負の感情を他者と無意識に共有し、周囲の人間をも巻き込んで増幅させる力だ。何のために存在するのか、本人すら苦しめるその力は、眼帯に隠された右眼に宿っている。邪視という、忌まわしいそれを乙哉や『御三家』の人間は〝呪い〟と呼んだ。
呼び名にふさわしく、それは乙哉の心を削り摩耗させ続けてきた。家族とも学校ともうまくいかず思い悩み、荒れて喧嘩三昧だった過去は地元の人間なら誰しも記憶に新しいに違いなく、高等部に進学した今もって、乙哉は、周囲から腫れ物に触るように扱われることの方がずっと多かった。
そんな中で、躊躇なく乙哉に絡む宝田はかなり稀有な人間といえたが――何か裏があってのことではなく、彼が生まれついて気の良い人物であることは、ふたりの間の穏やかな空気感が証明していた。
乙哉もまた、以前とは違う。無作為に発現され対処なしと思われていた呪いの力が、どうやらいくらか制御可能であることが判明したからである。これは乙哉にとって希望となりうる大きな成果だった。
以来、これまでは洟も引っかけなかった実家の修行や瞑想に、彼は真剣に取り組むようになった。重要なのは如何にして乙哉が己の精神状態をコントロールするかという点にあったからだ。
――彼は変わった。もしかするとそれは本人自身よりも、宏行のように近くにいる者の方が肌に感じてわかるものかもしれなかった。修行の成果もそうだが、例の事件で悩み苦しんだ物思いをひとつ乗り越えられたことで、彼は根底から少し明るくなったようだった。他を排す険のある目つきが和らぎ、まとう空気はいくらか穏やかとなった。
成長とも呼べる乙哉の変化とほとんど時期を同じくしてクラスが再編成され周囲の環境が変わったこともまた、彼にとっては幸いだった。
激情家な面ばかり表に現れていた乙哉だが、喧嘩をやめ、穏やかな時間が増えるにつれ、冷静で理知的な面が現れてくる。
宏行や宝田達を筆頭として、乙哉のことを頼ったり好意的に接する生徒が少しずつ周囲に増えてきていた。付随して、原田達のような女生徒も出てくるようになったわけだが――概ね、乙哉の最近の学校関係は良好に廻っていた。
――その一方で。
「緋桜さんはしかし、今日も寝てるなぁ」
榎本が紫衣の方を見て、いっそ感心したように呟いた。
「寝不足なんかな。見たら見たぶん、寝てるようだけども」
「うーん」宏行は曖昧に首を揺らす。
乙哉とほぼ同時期に知り合ったはずなのだが、紫衣に関しては宏行もそれほど深く知るところではなかった。
「原田達みたく悪口言うわけじゃないけど、何考えてるかわからないっていうのは理解できちまうな……」
「――誰だって、考えてることが透けて見えるやつなんかいないだろ」
素朴な榎本の発言に、ぶっきらぼうな声がぶつかった。丁度宝田の腕をすり抜け、疲れた顔の乙哉がどさりと席に座るところだった。眉間に常設された皺の影が濃くなっていることに、宏行は目敏く気がついた。榎本はそれに気付いているのかいないのか、のんびりと言った。
「まぁ…確かにそうだよな。わるい」
「……」
別段空気が悪くなったわけではない。ないのだが、一瞬空いた沈黙の空白に宏行の気持ちは妙に焦ってしまう。
「――ま、でも。そうは言ってもさ」
深く考えぬままに、宏行は明るい調子で間に割り入るように口を挟んでいた。
「緋桜さんは彼女らの言うことなんて相手にしてないみたいだよ。まわりの悪口なんか、気にならないんじゃない?」
話題はすぐに別のことに移っていった。ほっとした宏行のことを、乙哉は感情の読めない左眼をちらりと向けるに留めた。
「――どうだかな」
水に油を落とすような乙哉の呟きは明るく雑多な喧騒の波に呑まれ、誰の耳にも拾われることはなかった。
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