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少女は、全てを知っていた。
5分後に電話が鳴ること。
ママが本当は男の部屋にいること。
明日も雨が続くこと。
瞼を閉じるだけで、全てが見通せた。
駅前の交差点が見える。
間もなく、車が突っ込んで、人が死ぬ。
悲鳴、混乱、サイレンの赤い光。
携帯を手に取る。
例えば、私が警察に、これから起こるであろう事故のことを知らせたら。
SNSで情報を拡散させたら。
私には、この不幸な事故を止める力があるのか。
少女は、全てを知っていた。
私が通報しても、誰も信じない。
無駄なことだ。
少女は、携帯をソファに投げ出す。
窓の外には、雨の音。
私は、何もしない。
何もしない。
事故は、起こる。
携帯の着信音。
ママからの電話だ。
内容は分かっている。
少女は耳を塞ぐ。
ソファに転がった携帯は、やがて鳴り止んだ。
背もたれに寄りかかり、呆けたように天井を見る。
呼吸の音。
心臓の音。
薄暗い部屋に、それだけがある。
この心臓が、あと何回脈打つのか。
少女は、それすらも知っている。
その日、ママは帰らず、少女はソファで丸くなって眠った。
翌朝も雨。
ベーコンエッグを作って食べた。
そのベーコンの豚が屠殺される様子。
目の前に再生された。
むしゃむしゃと、咀嚼する。
人間という生き物の性質。
瞼を閉じれば、少女には自明だ。
醜い、汚い、そんなものばかりが見える。
いつでも、見てきた光景。
人類の、最期。
止めることは、できない。
一つだけ、方法があった。
いつしか行かなくなった学校。
雨の中、そこへ向かう。
鮮やかな紫陽花。
水たまりの、丸い波紋。
赤い傘を、ぎゅっと握った。
校舎の屋上に来た。
傘をたたむと、服から染み込んだ雨粒が肌を濡らす。
元々、立入禁止の屋上だ。
柵など無い。
だから、少女が宙を舞うのに、時間はかからなかった。
簡単なことだ。
どさりと音を立て、少女は土に横たわる。
見上げる灰色の空から、雨は少女を濡らしていた。
病院の集中治療室で、少女は死んだ。
死の間際、混濁する意識の中、何かが欠落している。
私の知る、全てのこと。
何も無かった。
少女の中には、もう何も無かったのだ。
明日の天気。
駅前の交差点。
いなくなったママ。
それらは全て、少女の心を侵すものではなくなっていた。
薄暗いソファの部屋を、少女は知らない。
あと何分間生きられるのか、少女は知らない。
涙が溢れる。
その瞬間、少女は確かに生きていた。
人間という生き物だったのだ。
ただ一つの救い。
それは、たった数分間、少女が命を賭して得た、幸福な忘却の時間だった。
勿論、その運命さえも、少女は知っていたのだけれど。
完
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