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扉を開けて右手側にある席で小島は授業資料を片付けていた。江戸の時代が終わって明治に入ろうとしている。刀で争っていた世界から銃弾が飛び交う世界へ。戦争を扱うのはどこか気が引けるものの、小島の気分はいつになく高揚していた。それは紛れもなく片岡の存在である。 もちろん確信はないものの、彼は童貞で間違いはないだろう。だからこそあの反応のどれもが素晴らしかった。大人には出せない純粋無垢なリアクション。情けなくもあり可愛らしくも聞こえる喘ぎ声。果てしない充実感に浸った小島は鞄に授業資料を詰め込んで立ちあがった。 「今日はもう上がりか。」 背後から声をかけてきた塾長の重田和史は53歳ながらにして張りと艶のある肌をしていた。機械で焼いた褐色の肌。短い黒髪をジェルで掻き上げてネクタイを緩ませている。 「はい。次は明後日ですよね。」 「いいなぁ、俺明日も詰め込みだよ。」 隣のデスクで背を伸ばす田淵謙一郎は2歳上の先輩で、小島がこの塾でアルバイトを始めた当初様々な指導をしてくれた。茶色がかった髪はふんわりと眉上で靡いており、少しぱっちりとした目は女性から見て羨ましくもある。彼は数学を担当していた。小島は笑みを浮かべて言った。 「じゃあ、私は田淵さんの分まで平日を満喫しますね。」 「分かったからとっとと退勤しろー。」 ブーイングに似た田淵の声に笑いが起こった。改めていい職場だと感じる。人情味に溢れていて暖かい場所。都会では味わえないであろう空気感から抜け出すように、小島は非常口の扉を開けた。ずらっと並ぶ自転車の中に飛び込んで思わず微笑む。片岡へ会いに行く、それが今の自分にとってささやかな喜びだった。
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