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1. 護衛の対象は、皇太子殿下なのです。
「殿下、講義に遅れる。起きて」
「んー……」
「また制服で寝てるし。また風呂入らずに遅くまで本読んでただろ」
「お爺様の本が面白いのが悪い」
「ったく」
んー!とベッドの中で大きく伸びをする青年にはあ、と彼に声をかけた人物が大きく溜め息をつく。
「もうみんな揃ってるんだけど?」
「おや、それはマズイね」
よいしょ、とベッドから腰をあげた青年は、全くそんなことを思っていないような顔をしながら、声をかけた人物に答える。
「三十分。三十分経って終わっていなければ先に行くよ」
「おやおや。護衛対象を置いて先に登校だなんて、全く僕の護衛たちには驚かされるね」
「はいはい。こちらも講義が詰まっているんだよ。分かったら、さっさとシャワーを浴びて出てくること、いい?」
「りょーかい」
そう言って、部屋を出ていった青年に代わり、「おはようございます、坊ちゃま」と一人の老齢の男性がティーカップセットを持ち室内へ足を踏み入れる。
「おはよう。起きられなくてすまなかった」
「いえ、昨晩は遅くまでお疲れさまでございました。まずはさっぱりとしてきては如何でしょう?」
「そうする」
ばさり、と着たままに寝てしまった制服のシャツを、カゴの中へと脱ぎ入れる。
さぁぁぁ、と室内に聞こえてくるのは、きっとさきほどの執事が出してくれているシャワーの水音だろう。
新しい制服にタオル。それから下着。
すべてを用意してくれている執事に感謝をしつつ、風呂場へと急いだ。
「やあ、お待たせ」
ガチャリ、と扉を開けた瞬間、いくつもの視線が僕へと向けられる。
「お、ちょっと早かったな」
「ふふ、そうだろう?」
時計をちらりと確認した一人の青年に、笑いながら答えれば、「いや、髪乾ききってないし」と先ほど僕を起こしにきた人物が呆れた顔をする。
「だって長太郎が早くこないと僕を置いて行くと言ったんじゃないか。だから例え髪がまだ濡れていたとしても早く来たんだぞ?」
「舘林、そんなこと言ったんですか?」
僕の言葉に、室内にいた一人の女性が、ジロ、と眼鏡越しに呆れた視線を僕が長太郎と呼んだ青年、舘林長太郎に向けて言う。
「ああ。ぼくが殿下のところに行く直前に吉広がそう言っていたからな」
「え、オレ?!いや、確かに言ったけど! それはアレだろ。言葉のあやというか!」
「……ふうん?」
カチャリ、と眼鏡のズレを直しながら低く、静かに言った彼女に、「宇井!ちょっと待て、あれはなんていうかだな?!」と吉広、と呼ばれた青年が慌てた様子で一歩下がる。
そんな様子を見て、室内に「ふふ」と楽しそうな声が響いた。
「おはよう。壱華」
「おはようございます、殿下」
僕の言葉に、壱華、と僕が呼んだ少女の、一つに結ばれた癖のない真っ直ぐな髪が揺れる。
「今日はその色なんだね」
壱華の動きに合わせて、ひらりと動いたほんの少しだけ茶色が混ざる黒い髪には、明るい松葉色のリボンが結ばれている。
指が絡まることのないサラリとした髪は、よく結ばれたリボンが落ちないものだ、と毎回、不思議に思う。
そんな僕の思案を知ってか知らずか、僕の言った言葉に、「彩夏が結んでくれたのです」と壱華が嬉しそうに笑いながら、僕と、彼女の横に座る眼鏡の少女を交互に見て笑う。
「松葉色は、殿下のお色ですしね」
リボンを結ばれている壱華本人ではなく、壱華に彩夏と呼ばれた少女もまた、壱華を見て楽しそうに笑う。
僕が与えられた色。
その色をつけて、壱華が嬉しそうに笑っている。
そんな些細なこと、と言われそうなことではあるものの、ほんの少しの独占欲も相まって、その様子に思わず頬が緩む。
「うん、いい朝だね」
壱華の笑顔を見て、頷きながら呟けば、彼女が「なにがです?」不思議そうな表情をして僕を見やる。
「何でもないさ」
じい、と見てくる彼女に、ふふと笑いながら言えば、壱華は「そうですか」と僕を見て笑った。
◇◇◇◇◇◇
「殿下がいらっしゃったわ!」
「今日もステキ……!」
彼を見て、同じ制服を着た女子生徒たちが、キャアキャアと黄色い声をあげる。
もはや毎朝の恒例行事と化したこの光景に、殿下、と呼ばれた青年の少し後ろを歩きながら、小さな疑問を口にする。
「毎日毎朝、彼女たちは飽きないのでしょうか?」
「恋は盲目、ってことなんじゃない?」
私のつぶやきに、私と同じように、殿下と呼ばれた青年の少し後ろを歩く、舘林長太郎が答える。
「殿下もマメですよね」
「ま、僕は将来のための先行投資って考えているからね」
「投資……」
通り過ぎた学生に手を振るかのごとく、殿下こと、我が国の皇太子殿下、嘉一が後方に振り返りながら、私の言葉に答える。
「好感度はあげておいて損なことなんて無いだろう?」
すらりとした体躯に、茶色が混ざる私と違って少し癖のある黒い髪。
薄めの唇に、黒目の大きな瞳。
学院の女生徒たちに、甘いマスクと言われる殿下は、普段は格好良く、笑うとより強調される涙袋が可愛らしいとも、よく言われている。
そんな彼は、黄色い声の彼女たちには聞こえない大きさの声で、そう言って口元を歪める。
声色も使い分ける、そんな殿下の外面と、私たちに見せる態度の差に、私は一人、「またそんな事を言って」と小さく呟いて、息をはいた。
「まあいいじゃん? 嘉一のあんな胡散臭い笑顔ひとつで人間関係がうまくいくんなら」
「……確かに、そうとも言えますね」
「おい、吉広、壱華。聞こえてるぞ」
「あ? 聞こえてたか」
「殿下、地獄耳ですね」
「お前ら、あとで覚えてろよ」
何やら悔しそうな表情をして文堂吉広の脛を軽く蹴った殿下に、吉広が「いったあ?!」とその場に蹴られた脛を抱えてしゃがみこむ。
「何をやっているの? 邪魔よ文堂」
「ちょ、おい?! 今オレ蹴られたんだけど?!」
「だから何」
「絶対零度?!」
一番うしろから歩いてきていたもう一人の少女、宇井彩夏が吉広に冷ややかな視線を投げつけながら口を開く。
「あなたに零度以上を与える必要がどこにあるのかを教えて欲しいくらいだわ」
そう言って、相変わらずしゃがみこんでいた吉広の横を、彩夏はさらりと通り過ぎ、私のすぐ隣へと並ぶ。
そんな一連の流れに、ふふ、と小さく笑えば、彩夏が「行きましょ、壱華」と微笑んだ。
「というか、彩夏は何をさも自然にさり気なく、壱華の手を掴んでいるんだ」
周辺の女子学生への先行投資を終えたらしい殿下が、ほんの少しむす、とした顔で彩夏へと問いかける。
「あら、殿下。わたしも先行投資のつもりですけど?」
「なんのだ」
「わたし自身の将来のため、ですわ」
うふふふふ、と笑いながら、握ったままの私の手を持ち上げて、彩夏が微笑む。
「その先行投資は、全くの不要物だ」
そう言って、私と彩夏の手を引き剥がして、殿下が歩きだす。
その様子に、「殿下、なんか不機嫌ですね?」と彩夏に問いかければ、彩夏は「うふふ」と楽しそうに笑うだけで何も答えようとはしない。
そんな彩夏に、首を傾げて立ち止まった私を、「壱華」と前方から彼が名前を呼んだ。
「なんでしょう?」
とと、と少しだけ空いた距離に小走りで近づけば、殿下の尖りかけていた口元がもとに戻る。
「なんでもない」
そう言って笑った顔は、登校する直前に見かけた顔と、同じくらい柔らかなもので。
思わず、「あ」と呟いた私に、殿下はほんの一瞬だけ目元を緩めたあと、またいつもの学院での顔つきを取り戻している。
何だったんだ。
ころころと変わる表情の意図をつかもうと殿下を見やるものの、あのあとから一向に変化する気配がない。
「変なの」
私がそう思う不思議な彼、仮名 汐崎嘉一は、現在、この国の皇位継承順位 第一位、正真正銘のれっきとした皇太子殿下であることに間違いはない。
そして、私、有澤壱華のすべてをかけてでも、その身を護ると誓った、唯一の相手である。
「このお話は、そんな私が、殿下の護衛の使命を果たすのはもちろんのこと、同じ学院に入学された殿下の婚約相手のお嬢様と、殿下の激甘な4年間の学院生活を記した物語で、」
「壱華ちょっと待って」
「何でしょう? 殿下」
「二人の時は嘉一って呼んでってば」
「いや、でも殿下は殿下ですし。他のところでうっかり呼んじゃったら私、国外追放されそうですし」
「されないし、させないから大丈夫だよ。それより壱華」
「はい?」
「説明を間違えているよ」
「間違いなんてありませんよ? ほら、ここに書いてある」
「僕は、あいつと甘い雰囲気になるだなんてことは絶対ありえない。なるくらいなら死んだほうがマシだ、本当に。壱華にだけは、分かっておいて欲しい」
「え、どういうことですか? だって殿下が、相思相愛になったから婚約するって」
「とにもかくにも、皇太子の護衛役ービッグカップルは偽装婚約?! 始まります」
「え、あ、ちょっと、殿下?!」
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