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2. 殿下の婚約者が初登場です。
「殿下、前を見て歩いてください。転びます」
「僕が転んだら、壱華が受け止めてくれるだろう?」
「俵抱きになってもいいのであれば」
ふふ、と妙に楽しそうに私を見ながら言う殿下に、ふんす、と頬を膨らませながらそう告げる。
思わぬ言葉だったらしい私の返答に、殿下はきょとん、とした顔をしたあと目元を緩める。
ほんの少しだけ、幼くなったその表情に、あ、と小さく呟けば頬に溜まった息がぷしゅ、と抜ける。
殿下がそんな幼い表情をしたのもつかの間で、気がつけばまた、黄色い歓声に応えていたさきほどまでと同じ笑顔に切り替わっている。
見間違いだったのだろう。
そう判断した私は、彼がいう先行投資の邪魔をしないよう、周りから彼が見えるよう、少し場所を動く。
「殿下と目が合ったわ……!」
「今日も格好いい……!」
そんな声が聞こえてくる中、彼に声をかけようと一歩前へ踏み出してくる人物は今朝もいないらしい。
「朝は遠目に見るだけ、って不思議な慣習ですよね」
ちら、と周囲を見渡しながら言えば、はた、と一人の女子学生と目が合う。
不自然にそらすことはせず、にこりと彼女に笑いかければ、「きゃああ」と女子学生が頬を赤く染めて黄色い声をあげる。
「殿下だけじゃなくて、壱華も黄色い声の対象だけどね」
ぐい、と私の腰に手を回しながら言った彩夏に、「解せぬ」と頬を膨らませながら言えば、彩夏が「はこふぐみたいで可愛いわ、壱華」と言いながら私の頬をつついた。
「汐崎さま」
殿下の前方から聞こえたその声は、以前に演奏会で聞いたオーボエが奏でる音にも似て、少しだけ低く、けれど艶のある声をしている。
そして今朝もまた、その声を聞き、ピタリ、と殿下の足取りが止まった。
「やあ、田崎嬢。今朝もキレイだね」
「……お褒めいただき光栄ですわ。汐崎さま」
汐崎、と殿下を呼ぶ声の持ち主の名は、田崎絵美様。
防衛局局長のお父上を持つ彼女自身もまた、成績優秀で成績は常に上位を争うとても聡明な女性だ。
肩につくかつかないか、ギリギリの長さの黒くまっすぐな髪と、意思の強さが読み取れるような少しあがった目尻に、整った目鼻立ち。
殿下の言葉に、にっこり、と笑顔を浮かべる彼女に、少し離れた場所から彼女を見ていた男子生徒が、小さく息を呑む。
見惚れるほどの美人。
思わず振り返るほどの美人。
そんな形容詞がぴったりだと言われる彼女は、一見、他人に対して冷たく接するように見られがちだが、実は真逆で、笑顔がとても多く、親しみやすい。
そのギャップに心を奪われた異性、同性は数知れず。
そして、そのうちの一人に、私の護衛対象、嘉一殿下が該当しているということは、この学院、ましてや、この国で知らない者などいないだろう。
田崎お嬢様と殿下の婚約を決まったのは、この学院に入る三年前。
この国は、夜の社交場、いわゆる夜会へ初めて足を踏み入れるのは、十一の歳を迎えた半年後、というのが慣例となっている。
殿下もその慣例に従い十一歳と半年の月に、夜会デビューを果たした。その時の周りの反応は、今朝の黄色い悲鳴や熱い視線などとは比べ物にならないほど、とても……なんというか凄かった。
大人から子どもまで。そういう表現がしっくりとくる気がする。
現国王も、殿下の母君も、弟君もそうだが、この国の皇族方は顔の整ったかたが多い。
そのせいか、初めて夜会に出たあとしばらくの間は、上は嘉一殿下の母君より少し年下ほどの女性から、下はまだ生まれていないお嬢さん、と殿下への婚約の申し出が次から次へと押し寄せていた。
「面白いくらいに毎日毎日、殿下宛に書簡が届きっぱなしでした……そういえば」
「壱華? どうかしたの?」
「あ、いえ、何でもないのです」
ぼそり、と呟いた言葉が、彩夏には聞こえていたらしく私を見た彼女が、一瞬不思議そうな表情をしたあと、柔らかな笑顔を浮かべてでこちらを見てくる。
「壱華、なんだか楽しそうね」
ふふふ、と私を見ながら楽しそうに笑った彩夏につられて、「大したことではないのですが」と口を開く。
「殿下が夜会に初めて行った時期のことを思い出しまして」
「あらあら」
私と、舘林長太郎、文堂吉広の三人が、殿下より側近、護衛を任命されたのもまた、その年のはじめ、殿下が十一歳になった日の朝。
殿下を含む私たち四人の間柄は、十一歳のあの年、同じ歳の幼馴染みという関係から、主人と護衛という関係へと変化を迎えた。
それから半年後、私たち三人の『護衛』としての初めての公の大きな任務が、殿下の夜会だったわけだけれども。
「わたしはあの時、外野で見ていたわ。もちろん、その時からわたしは壱華を見ていたけれど」
「そうだったのですか? すみません、気が付かず……」
「いいのよ気にしないで。それに、そもそもあんな厳つい大人たちばっかりが周りに居たら、壱華だって周りが見えないわ。あの時は、今よりもう少し背が低かったものね」
「あれからは私の身長もだいぶ伸びました」
「知っているわ」
「ふふ、そうですね」
彩夏の言うとおり、初めての夜会の夜は、結局は自分たちはほとんど何もできないままに終わり、悔しい思いもしたのだけれど。
大人ばかりの中で、ピシ、と背を伸ばし、対面した相手が逆に萎縮してしまうような空気を纏った殿下を見るのはなんだかとても誇らしくて。
きっと、田崎様も、そんな殿下の姿を見ていたのだろう、と私は思う。
なぜなら、殿下の夜会初登場から二ヶ月後。
嘉一殿下の婚約者に、田崎様が異例の早さで内定したのだ。
そして、そこから三年後。
殿下がここ『二之窪学院』の入学試験を無事通過し、晴れて新入生となった頃には、私たちの他に、宇井彩夏、それに今朝は別行動をとっているらしい梶原忍のふたりが、殿下の護衛役に追加され、今に至る。
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