1.トラウマの再来

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1.トラウマの再来

 コンディションは悪くない。むしろいつもと比べて良好だ。静けさの中、多くの人々に見守られながら一人試合に臨む。道着の襟を正し、黒帯を強く締め直す。同時に気合も入れ直す。  目の前には、同じく白い道着に黒い帯を締めた装いに身を包み、自分よりずっと背の高い少女が相対する。  その少女は長い黒髪を一つに後ろに結んでいて、一見してあどけなく可愛らしい顔をしている。しかし凛としたその表情、こちらが一瞬でも隙を見せると、瞬く間に打ちのめされてしまうのではないかという恐怖心を抱いてしまう。  すり足で前へと進みつつ、両手を構えいつでも相手の攻撃を受けられる姿勢をとる。そしてこちらもまた相手の隙をうかがい続ける。  張り詰めた空気。けれどもいつもこの瞬間のそれが心なしか心地よく思える。判定での点数はこちらの方がまだリードしているはず。  相手を見据えながらその出方を観察する。ほぼ互角の勝負。呼吸を整え精神を落ち着かせようと試みるが、なぜだか今日は心が高揚している。この勝負を無意識に楽しんでいた。  刹那、時が止まった。そして次の瞬間には、相手が仕掛けてきていた。右の上段蹴り。空かさずそれを回避。次の瞬間、今度は左の後ろ回し蹴り。大きな体格なのにも関わらず相手は動きが速い。また次の瞬間には右の正拳突きがこちらの顔面を襲ってきた。  少し首を右に傾けそれを回避した。そして次の瞬間、カウンターに転ずる。こちらも右の正拳突きで相手の顔面を狙う。  とは言っても、試合では実際に相手の顔面に拳や蹴りなどを当てたりはしない。寸止めの状態にすると点数が加算され、合計八点を先取した方の勝利となる。  相手は少し後退し、こちらの攻撃を回避した。そして距離をとってきた。  そうやって逃げられると、追いたくなるのが心理。ますます勝負への興奮が高まる。更に左の掌底で相手の右脇腹を狙う。しかし今度も見事に避けられた。  再び右の正拳突きを打ち込む。相手は自分が先ほどしたのと同じく回避した後、こちらの顔面か胴へのカウンター攻撃を仕掛けてくるかに思われた。  しかし相手は予想外の動きをしてきた。どういう訳かこちらの道着の襟元を掴んできたのだ。  その予想外の動きに思わず動揺。無意識に防衛本能が働いてしまい、打ち込んでいたはずの右正拳突きが転じて、そのまま間違って右肘を相手の顔面に打ち込んでしまった。  相手の少女は膝から崩れ落ちて、俯きながら両手で自らの左目を押さえている。そしてその左目を押さえている両手の指の隙間から、どんどん血が滴り落ちてくる。  わざとじゃない。これは事故だ。けれども動悸が治まらない。頭の中が真っ白になり何もできなくなってしまった。ただ茫然となりその場に立ち尽くす。周りにいた人々が次々と騒ぎ始める。  目の前でうずくまっている少女は、流血している自らの左目を押さえながらも、ただ黙ってこちらを睨めつけてきている。  彼女にとんでもないことをしてしまった。謝らないといけないのに、全く身体が動かない。動悸ばかりが激しくなる。頭の中は真っ白。襲い掛かる激しい目眩。  流血しながら睨みつけてくる少女のその恨めしそうな顔。お前が憎い。何も語らずとも、こちらを睨んでいる彼女の眼はそう語っていた。
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