90人が本棚に入れています
本棚に追加
四日後――。
念願の?エアコンがうちに来る日。エアコンなんてなくても死なないって豪語していた僕だけど、いざ来ると思うと、この暑さが耐え切れなくなるのはどうしてだろう。――単純にここ数日、猛暑日と熱帯夜が続いていたせいかもだけど。
図書館通いを始めたのは今年に入ってからだけど、去年までは昼間のこの暑さをどうやって耐えていたのかすら、思い出せない。
もう明後日から図書館が休館してしまうから、エアコンが間に合ってよかったとしみじみ思う。もしかしたら陸は命の恩人なのかも。
そうして、首に掛けたタオルでダラダラ流れる汗を拭いながらエアコンを心待ちにしてる僕の部屋に、陸がやってきた。
部屋の扉は開けっ放しだ。
「ソーヤ、いる?」
住所を頼りにやってきた陸。表札も掲げてないから、アコーディオンカーテンになってる網戸越しに、陸は確かめるように声をかけてきた。
「いるよ」
出てきた僕の顔を見て、陸はほっとした顔をした。
「もうすぐ、来てくれると思うけど。俺が先に着いてた方がいいと思ってさ」
電気屋さんが来る予定の時間の15分前。
「暑いけど…。どうぞ」
狭い玄関に招き入れると、陸は興味深そうに、でもあんまりじろじろ見るのは失礼かと思ったのか、遠慮がちに目を動かす。
「気」は口ほどにものを言う。玄関に入った途端、陸の「気」が広がって、奥の方へと流れていく。興味津々だ。
あまり物のない、ガランとした部屋。
奥の6畳間にベッドと、テレビと黒電話。四畳半に年中使ってる炬燵テーブルと小さな茶箪笥。服や他の諸々は押入れの中。
パソコンもスマホも持ってないし、新聞もとってないから、小さなテレビが唯一の情報源。
マンションに住んでいるらしい陸からしたら、こういう古いアパートは珍しいんだろうな。と思う。
お茶とか水とかのペットボトルがいくつも入ったコンビニ袋を、はい、って渡されたけど、
「麦茶、あるよ?」
夏は、毎日麦茶を沸かして冷蔵庫に冷やしてる。
冷蔵庫からお茶のポットをだして、ガラスコップと一緒にこたつテーブルに置いたら、まめだなぁって感心された。
家で飲むお茶をわざわざ外で買う気がしないだけだけど。持って帰るの重いし。
コップに麦茶を注いで陸の前においたら、美味しそうにごくごく飲む。ほんとに、ごくっ、ごくって音がした。
自転車で来たみたいだし、外は今日も暑い。部屋の中もだけど。
陸の喉仏って、よく目立つ。
ごつごつして骨っぽい身体だからかな。飲み下す度に、大きく上下にうごく喉仏。けっこうでっぱってる。
じっと陸の喉元を見ていた僕に、
「何?」
陸が、不思議そうに訊いてくる。
「喉仏、おっきいなって思って」
「――そう? うーん、言われたことないな」
陸が自分の喉を触りながら言う。その首を汗の雫が伝った。扇風機の風だけじゃ、じっとしてても汗が滲む。
「アイス、食べる?」
「あるんだ。ほんとは買って来ようかと思ったんだけど、この暑さじゃ、コンビニからここまでの間に溶けちゃいそうでさ」
確かに。僕は夜中に買いに行くし、冷凍庫にたくさんストックしてある。
居間にくっついた板間の小さな台所。冷凍庫を開けに立ち上がった僕に、陸が付いてきた。
「何がいい?」
振り返って訊いた。
「おー、いろいろあるな。…って、ほとんどチョコミント?なんだ」
さして大きくも無い冷蔵庫を覗き込んだ陸の、驚いた顔。いつも行くコンビニに置いてるチョコミントは3種類。たまに行く反対方向のコンビニにはそれと違う2種類がある。なので今、冷凍庫には5種類のチョコミントアイスが押し込まれていた。
お気に入りのも、イマイチだったのもあるけど、なんとなく種類を揃えておきたくて。
暑くて食欲のない夏の朝は、朝ご飯代わりにチョコミントアイスを食べると、一瞬だけど汗が引く。
スースーする後味が涼しく感じる。
マーゴは嫌いみたい。
バニラ系のアイスならときどき舐めに寄ってくるけど、初めてチョコミントアイスをくんくん嗅いで変な顏になって以来、チョコミント食べてるときは絶対寄ってこない。
「…うーん」
冷凍庫内を見て唸る陸。僕は最近お気に入りのカップタイプの奴を出した。
「ミントアイス苦手?」
「…歯磨き粉思い出すんだよな」
あー、分かる。けど、僕は好き。
僕は手前のチョコミント群を除けて、奥の方にあったチョコモナカジャンボを引っ張り出した。大分前のだけど、アイスだから大丈夫。
「これは?」
「あ、それがいい。頂きます」
和室に戻って、藺草の薄っぺらい座布団の上で麦茶を飲みながらアイスを食べる。
お茶を飲むと、喉がすーすーした。
「そういえば、この喉仏ってさ、焼き場で拾うお骨の喉仏とは違うんだってさ」
アイスを食べながら、陸がそんなことを言い出した。
「そうなの? ――陸の喉仏おっきいから、焼いたらさぞかし立派な仏様が出てくるだろうなって思ったのに」
「…まだ焼かれたくはないけどな。仏様の方は第二頸椎っつってちゃんとした首の骨だけど、こっちは軟骨なんだって。だから燃え尽きちゃうらしい」
「もったいない」
「ははっ、こっちはただのでっぱりだよ、仏様じゃねーし」
何が可笑しいのか、陸が笑いながら云った。
でも――、そっか、そういえば、喉仏なんか無いはずのおばあちゃんのお骨拾ったとき、ちゃんと仏様の形の骨あったなーと思い出す。
小さくて、ちょっと崩れかけてたけど、ちゃんと仏様の形をしてた。葬祭場の人が丁寧に説明してくれていたのをなんとなく思い出す。
おじいちゃんと二人だけのお葬式だったから、僕もちゃんと焼き場までついて行けた。おじいちゃんのお葬式の時は行けなかったけど。
そんなことを考えていると、アパートの前に軽トラックが停まったのが見えた。
「お、来たみたいだな。取付場所って、あそこでいいのか?」
陸がベランダ側の窓の上を指さして言った。
「うん。任せる。これお金」
僕は慌てて、用意していたエアコン代の入った封筒を陸に渡して、おじさんが入ってくる前に部屋を出た。
電気屋さんの軽トラが見える辺りからは離れずに、日陰を探して、外でぼんやり待つ。途中で、陸がお水のペットボトルと部屋にあったうちわを持ってきてくれた。
涼しい場所を求めてアパートの裏に回ったら、空いてる部屋のベランダの下、日の当たらないひんやりしたコンクリートに囲まれて涼んでるマーゴを見つけた。
いいなぁ、そこひんやりして涼しそう。僕の身体じゃ入れないけど。
「もうすぐ部屋も涼しくなるよ」
そう話しかけると、物陰の奥でマーゴが顔を上げた。こんな中でも光る目が、綺麗。
そのうちに、バタンと車のドアが閉まる音がして、エンジン音が聞こえる。僕の部屋の方を伺うと、掃出し窓は閉まっていて、鉄柵越しにベランダに設置された室外機が見えた。
表に回るとトラックはもう無くて、僕の姿を見つけた陸が、おかえり。って笑った。
部屋に入ると、冷たい空気が戸口まで流れてくる。
「生き返るだろ?」
「うん。――でも、ちょっと空気入れ替えたい」
「え? ああ、どうぞ」
「ベランダの窓、開けて」
玄関から中に入ろうとしない僕に、怪訝な顔をしながらも陸はベランダ側の窓を開けた。
空気が流れるから、僕は外に出てドアの横の壁に凭れる。
電気屋のおじさんの、レモン色の「気」の片鱗が流れて消える。年の割に元気な人みたいで、意外と強くてちくちくする感じだった。
「大丈夫?」
玄関から顔を覗かせた陸が、心配そうに僕の顔を覗きこむ。陸の「気」なら、こんなに近くても平気なのにな。
柔らかい桃色が僕を包むように漂ってくる。うん、もう平気。
部屋に入ると、外の熱気とエアコンの吐き出す冷たい空気が混じりあって変な感じ。
でももう知らない人間の「気」はどこかに消えた。部屋には人間空気清浄機な陸もいるし。
玄関扉を閉めて部屋に上がった僕は、そのままベランダへ出て、さっきの場所に声を掛ける。
「マーゴ、涼しくなったよ」
のそのそと這い出てくる、黒い塊。背中に葉っぱが付いてる。
鉄柵をすり抜けてベランダに帰ってきたマーゴは、今までなかった室外機に興味津々。
うぃーん、と案外静かな駆動音と振動に、腰は引けてるけど。
「やっぱり猫いたんだ」
陸が嬉しそうに、僕の後ろからマーゴを驚かせないように覗き見る。台所にマーゴの水と餌の皿と猫トイレがあるから、気付いてたよね。
部屋の中に見知らぬ人。逃げちゃうかな?って思ったけど、マーゴはするりと部屋に入り、かがんで差し出した陸の手をふんふんと嗅いでる。
その隙に掃出し窓を閉めた。柱に取り付けられていたリモコンを見て、設定温度を28℃に上げる。
「初めまして、マーゴ。綺麗だね」
みゃ。と小さく返事をするように鳴いたマーゴは、褒められたのが分かったのか、ぴんと立てた尻尾が少し揺れて、ふわふわと桃色の気が広がった。ご機嫌なマーゴの色。
陸の桃色も、指先からふわりとマーゴの方へ流れる。
陸の指が、マーゴの顎を軽く掻く。二人の「気」の白っぽい部分とピンクの濃い部分が混ざり合い、きれいなマーブルが出来てる。ふふ、なんか美味しそうな色。
やっぱり、同じ「気」だ。
色や質感は体調や感情で、幅というか揺らぎがあるけど、同質というか同類って感じ。魂が似てるのかな。
「抱っこしてもいいかな」
僕に、というよりマーゴに断ってから、陸がそっとマーゴに手を伸ばす。
すんなり陸に抱き上げられて、彼の大きな腕にすっぽりハマった。抱かれるのが嫌いなマーゴが。
背が高くて安定感があるから、居心地良さそう。いいな、羨ましい。
「可愛いなぁ」
陸が目を細める。猫の扱いに慣れてるっぽい。
「猫、好き?」
「ああ、動物はたいてい好きだよ」
そっか。陸は友達も多いから、きっと人間も好きなんだろう。
不意に、ぶーぶーぶーって、振動音がした。何だろう? マーゴが反応して、ひょいっと陸の腕から飛び降りた。
「あ、――もう。タイミング悪いなぁ」
陸がボヤキながら、ジーンズの後ろポケットからスマホを取り出した。ふうん、これがバイブとかいう奴か。音がしない訳じゃないんだ。
陸は画面を見て、ため息を吐いた。
「バイト先で欠員出たみたいだから、助っ人行ってくるわ」
そう言って、電気屋さんから貰った領収書や説明書や保証書の入った袋を僕に渡すと、陸は居間に置いてたリュックを拾い上げて玄関に向かう。
「チョコミント好きなんだったら、今度俺のバイト先おいでよ。オゴるよ」
?、コンビニでバイトしてるのかな?
玄関でスニーカーを履きながら、
「夏休み中は、けっこうシフト入ってるから。近くにきたら覗いてみて」
そう言うと、財布からショップカードを出して、僕に差し出す。
一ヶ月毎日違う味が食べられるという、アイスクリーム屋さん。
住所は大学の最寄駅前近くのショッピングモールだ。モールの中ではなく、歩道に面した側の店舗だから前を通ったことはある。
駅とか人が多いところには普段あんまり近づかないけど。
「人気のフレーバーだから美味しいと思うよ。俺は食ったことないけど」
ショップカードに目を落としていた僕の頭をぽんぽんして、陸がじゃあな、とドアを開ける。顔を上げた時には、パタンと扉が閉まった後だった。
陸に頭を撫でられるのは、嫌じゃない。
動物好きの陸だからか、怯えさせない優しい触り方をする。降りてくるほんわかした「気」も気持ちいい。
おじいちゃん以外に触れられた記憶はないから、他の人間の触り方がどうなのかは知らないけど。
部屋の中に戻った僕の足下に、マーゴが擦り寄る。蹴っちゃわないように気を付けながら、テレビ台代わりに横倒しに置いたカラーボックスの上、テレビの横の黒電話の後ろの壁に、そのショップカードを画鋲で貼った。土壁だけど、画鋲はささる。
隣には、11ケタの番号が書かれた小さな紙きれ。
他には、アパートの管理会社の名刺、もしもの時の公共機関の電話番号表、その他いろいろ。失くしちゃいけないもの、いざという時に必要な連絡先を、貼りつける場所。
涼しくなった室内。マーゴが久しぶりに、ベッドの肌掛けの上で丸くなった。
図書館はお休みに入るし、この部屋も涼しくなったから、もう昼間に無理して出掛ける必要はないけど。
チョコミントアイスの、ミントのスースーする感覚と、チョコの甘さの混じりあった、不思議な味が好き。
夏しか食べないアイスクリームだから――。
夏休みの間に、一度くらいは出掛けてみようかな。
* fin *
最初のコメントを投稿しよう!