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この後予定があるかどうか訊かれたけど、そんなものは一切ない。
仕事も家族も友達もない無職の僕に予定なんて、ほぼない。お金を稼ぐためにときどき競馬場に行くくらいで。
夏は近くの競馬場での開催はないから、今はそれもない。
エアコン見に電気屋に行こう。って言われた。早速?
自転車で来ていた陸は、僕を後ろの荷台に載せて走り出す。
この辺りは山に近くて坂道が多い。通学用だろう陸の自転車は電動補助付きだけど、それでもしんどいと思うのに、彼は僕を後ろに載せてぐいぐい坂道を登っていく。
この辺りは住宅街とはいえ、ちょっと不便な山の中、道沿いの家の後ろはすぐ山で鬱蒼とした緑が広がっていて、蝉の声が響いてる。
ちょうどお日様は真上で、アスファルトの道路の先に逃げ水が見える。
頭焦げそうなんだけど…、陸は大丈夫なのかなぁ。
もうちょっと行ったら交番あるから、その前通るときは降りてくれよ。って、云いながら漕ぐ陸の背中に、汗で湿ったTシャツが張り付いてる。
陸のジーンズのベルトループに指を通して掴んでいた僕の方へ、汗の匂いと淡いピンクの「気」が流れてきた。
人の汗の匂いなんて、初めて嗅いだかもしれない。…思っていたより臭いものじゃないや。
マーゴの匂いとはちょっと違うけど、同じ種類の匂いだ。生きてる動物の匂い。
やっと平地に出たと思ったら、先の方に交番の丸くて赤いランプが見えた。
昼間だから電気は着いてないけど、赤いガラスが強い日差しを反射して、眩しい。
停まった自転車から降りて、自転車を押す陸と並んで歩く。陸はカゴに入れていたリュックからタオルを出して、汗ばんだ僕の首に掛けた。
「まだ使ってないから、きれいだよ」
自分の方が汗だくのクセに。と思いながら、そのまま首に巻いて、先をTシャツの胸に入れた。
後ろ首に日が当たってじりじりしてたからちょうどいい。景品や宿屋に置いているような薄手の白い浴用タオル。
ハンドタオルやカッコいいスポーツタオルじゃなくて、陸がこういうの持ち歩いてるのって意外だけど。
交番の横に自販機があったから、陸が水を買って僕にも放る。
お金を出そうとしたら、無くなったら次買って。って言われて素直に引っ込めた。この暑さだから、確かに一本じゃたりないかもしれない。
水を飲みながら歩いて交番の前を通過して、しばらく行くとまた二人乗り。
今度は少し下ってるからスピードが出て、風を受けて気持ちいい。でも、スピードが出た分、お尻に響く衝撃も大きい。
立ち乗りはちょっと怖いから、段差で少しお尻を浮かしてやり過ごす。
二人乗りなんて、おじいちゃんが畑に行くときに乗せて貰ってた子供のとき以来だ。
そうやって僕は、街中の大きな量販店ではなく、住宅街のなかのこじんまりした電器店へ連れていかれた。
店に入ると、ぴんぽーん、とのんびりした音がなって、奥からおばさんが出てくる。
「あら、いらっしゃい、陸くん。どしたん、こんな暑い時に自転車できたんか?」
いや、おばあさんかな。微妙な年頃だ。彼女の周りを漂っている「気」は、柔らかいブルーグレー。愛想のいい見た目に比べて、あっさりした寒色系の「気」。
中に入っていく陸と離れて、店の入り口辺りで止まっていた僕は少しほっとした。
「気」は生命力の現れなのか、大抵は、子どもほど広がりが大きくて、幼稚園児とか小学生の群れになると混ざり合って混沌としてるし。
十代から二十代にかけての若者が一番攻撃的で強い。
そして歳と共に弱まるのか、お年寄りのは薄くて、こじんまりしてる。
とはいえ人に依るから、お年寄りでもどぎつい「気」の人間もいるけど。
だから、僕にとっては年配の人と接する方が比較的楽なのだ。
彼女も年相応に落ち着いていて、あまり大きく広がらない「気」だから近づき過ぎなければ大丈夫。
「安いエアコンないかなって思って。型落ちとかでもいいんだけど。涼しくなればそれで」
「ほやなぁ、そやったら…、こっちのメーカーの去年の在庫が今安う入るって言うてたわ。今年新機種が出たさかい」
おばさんはそう云いながら手を伸ばして、棚からカタログを取ってぱらぱらと捲る。
表から見るより、広い店内。扇風機がたくさん並んでる。
朝顔の造花やうちわ、簾がディスプレイされていて、夏の電気屋さんって感じだ。
人の出入りはあまり多くないのだろう、「気」の残骸も少ない。このおばさんのブルーグレーの「気」と、レモン色?の「気」がほんの少し残ってる。
気配は薄いから、ここにいても酔わなさそう。
「何畳用? 洋室か?」
訊かれて、陸が僕の方を見た。
「部屋は、6畳と4畳半の続き部屋で和室」
そう答えた僕に、
「なんや、お友達のんか。ほんなら和室の12畳用やな。一台でイケるし。閉めて使うんやったら6畳用でもええけど、12畳用の方が効率がええよ。――あんまり変わらんくらいの値段にしといたげるで」
「どうする?」
「陸にまかせる。よくわかんないし。支払は、一括で大丈夫だよ。…今日はお金持ってきてないけど」
「そんなん取り付けたときでええて」
からからとおばさんが笑う。
取り付け工事はおばさんのご主人がやってくれるらしい。この時期はエアコンの取付や修理で飛び回ってるから今日は店にいなかったけど。
取付場所を訊かれて、一階で、昔ながらの木造アパートでベランダもあるって言ったら、それなら取付も簡単そうだからそう時間もかからないよ。っておばさんが言った。
僕の都合はいつでもいいから、陸とおばさんで取付日時を決める。立ち合いも陸がしてくれるみたい。
渡された工事依頼書に名前と住所と電話番号を書いて陸に返す。
なんとかしよう。って言ったのは陸だから、僕に出来ないことは陸がなんとかしてくれるんだろう。
僕は水を飲みながら、展示してある扇風機の風に当たっていた。
羽の前についた薄いセロファンのひらひらが、風で靡いてる。
これ付けたって風量も温度も変わるわけじゃないのに、なんか涼しげに見えちゃうから不思議だ。
「終わったよ。取付は四日後だけど大丈夫?」
おばさんと話がついた陸が、僕の隣に立って云う。
扇風機の風に当たった陸の「気」が広がって、僕の周りの空気が澄んでゆく。
陸って、空気清浄機みたい。
頷きながらちょっと笑ってしまった僕に、ん? て、陸は少し首を傾ける。
「なんでもない」
緩んだ頬のまま言った僕の頭を、陸は黙ってぽんぽんと撫でる。
陸の全身から、ほわほわと桃色が溢れてた。
帰りがけにおばさんが、お友達と食べって、陸にアイスを二本渡した。ファミリーパックのあずきバー。
来た道を自転車を押して歩きながら、食べる。
「美味いな。久しぶりに食べたわ。実家の冷凍庫には大抵これとチョコモナカの箱入りが入ってた」
「僕も久しぶりかな。これ好きだけど、夏はあんまり食べないし」
「夏じゃなくていつ食うんだよ」
陸が笑う。僕はアイスが好きだから、年中食べる。
「いつでも。チョコモナカも好きだよ。夏以外は」
「夏は何食うの?」
「チョコミント」
「あー、確かに夏っぽいか」
「たまに、かき氷みぞれ」
「地味っ」
食べ物に派手さは必要ないと思う。
溶けないように急いで食べたら、ファミリーパックの小さ目のバーはすぐに無くなってしまった。
帰り道、同じ自販機で同じ水を買って、僕が陸に渡した。帰りは下り坂だから、行きよりずっと涼しくて、ずっと早く帰れた。
大学の校門前。
このままバイトに行くらしい陸に、工事の立会いもあるし、もしもの連絡用にラインアドレス交換してって言われたけど。
「スマホ持ってない」
「…ガラケー?」
「それも持ってない」
陸が無言で固まる。持ってない人初めて見た。っていう表情。
「家に電話はあるよ。黒電話だから、留守録は出来ないけど」
「なんで学生の一人暮らしで、ケータイじゃなく家電…。てか黒電話って、実物見たことないんだけどまだ使えんの?」
学生じゃないし。
「使えるよ」
陸はリュックから筆箱とルーズリーフを取り出し、何かを書いて千切って僕に渡すと、ポケットからさっき電気屋さんで僕が書いた伝票の控えを出す。
「ここに書いてあるのが、家電の番号だよな?」
そうだよ。と頷く。
「登録しとくから、なんかあったらその番号にかけて。――なくすなよ」
じゃあな、って走り去る陸。
千切られた小さな紙片に走り書きされた、11ケタの数字。
服のポケットに入れたら洗濯しちゃいそうだから、リュックの内ポケットにしまう。流れ落ちる汗を首に巻いたタオルで拭って、僕は涼しい図書館を目指して歩き出した。
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