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奇跡の島と呼んでも差し支えないでしょう。暖かな風の吹く青い空、波音まで透き通った青い海。濃い緑に土気がわずかな、切り立つ島の岸壁の陰には、白く清潔な家が低く寄せ集まって建ち並んでいます。まるで空を得た鍾乳洞のようです。石筍が積もり伸びるだけの歴史をこの島が有しているのもまた、事実でした。
ピエトロは広間の階段に座って、ぼんやりと観光客を探していました。行き交う街の人々の中に、キャリーバッグの浮ついた色と音を見出すのです。昔、まだ小学校に通うべき年齢の頃、この仕事を始めたばかりのおチビで要領の悪かった彼は背の高い大人たちのなかをかけずり回り、大変に苦労をしました。十九歳になって抜群に背が伸びてそんな悩みもなくなっても、たびたびそのころを思い返すのでした。それは習慣であって、ノスタルジックとは別物でした。
ピエトロは、すっと顔を上げます。石畳を低く荒く響く、安っぽい車輪の音が聞こえたからです。音のする方には、太った白人の夫婦が居ました。派手で窮屈そうなまっ黄色いワンピースの中年女性に、はちきれそうな太股から伸びたサスペンダーで縛られているような中年男性が、牽引されています。ピエトロはくすりと笑ってから、立ち上がりました。歩きながら少し咳払いをして「ごきげんよう、ごきげんよう」と愛想良く何度も、小さく呟きました。すれ違った島の人間は怪訝そうな顔をしましたが、無視します。やがてふうふうという息遣いが聞こえるほど夫婦の近くにまで寄ってから、彼は明るく言いました。
この島はその類稀れなる美しさから、世界中からその手の人々を呼び寄せていました。彼らはなにが無くとも、天気が良ければお日様と変わらないくらいな爛漫の笑みを浮かべ、雨が降っても窓辺で物憂げに街を見やるのがお決まりなようでした。ピエトロはそんな彼らの様子に辟易していましたが、自分が今日まで生まれ育った島を好く思ってくれていることについては嬉しく思っていましたし、ひっきりなしに入れ代わるのが面白くて嫌いにはなれませんでした。なにより、彼らがいないとピエトロはご飯を食べられないのです。
手口はこうでした。まず、観光客に笑顔で話しかけます。どの国の観光客もはじめは緊張して後ずさりします。そこを安心させるために、タバコとタバコの箱を使って簡単なマジックをします。これでほとんどの観光客は破顔して、ピエトロの自己紹介を聞いてくれます。あとは昼時まで適当に、なんでもないものをそれらしく解説しながらついて回ります。途中でジェラートを買ってあげたりするのは必要経費です。徐々に目的地へ誘導して、可能な限り歩かせたら「お腹が空きませんか?」と声をかけます。このタイミングが重要で、観光客が大事そうに握っているペットボトルが空になりかけるくらいがベストです。この問いかけに彼等は汗を拭いながら十中八九「ああ、そうかもしれない」と答えるので、「近くにいい店があるんです。少しがんばりましょう!」と励ましながら道案内をします。ここまでくればもう済んだようなものです。レストラン[G・ファルコーネ]にご招待。おっと、入店前にあの口上を忘れてはいけません。「この店の名前は、かつてマフィアと戦って暗殺された判事から来ているんですよ」
ピエトロはレストランの裏口から人気の少ない通りに出ました。涼しく暗い店内から一転して、日差しの強いそこはくらくらするほど白く蒸しています。建物の合間から見える狭い快晴の真ん中で、ぽっかり穴が開いたように太陽が輝いているのがなんともすがすがしく、けれど同じくらい憎らしいです。
「やあ」
唐突に、女性の声がしました。
ピエトロは弾かれたように肩を揺らし、声の方を向きます。
少し離れたところに麦藁帽、白いTシャツにジーンズというラフな格好の女性が立っています。遠目で一目見たときにはそのあまりに着飾らない姿に島民かと錯覚しましたが、首に吊ってある大きなカメラを一目見て観光客だと気付きました。背はそれほど高くなくおまけに痩せた女性でしたがその立ち姿は驚くほど力強く、不敵にさえ見えました。ピエトロは、少しぎこちなく微笑みました。
「こ、こんにちは。マダム」
「ふふ、わたしはまだマドモアゼルだよ」
目深に被った帽子の下に、やっと若い表情が見えました。眼鏡をかけた目元も、薄く口紅をのせた口元も、緩く笑んでいます。肌や顔つきを見ると、どうやら東洋人のようです。ピエトロはほっと息を吐き、落ち着いて言いました。
「失礼しました。けど、国の方針なんです。ええ、僕は国に雇われている観光案内人なので」
女性は、細い眉をひょいと上げて如何にも愉快そうな表情を見せました。
「おお、それっぽいことを言うね。ポリコレは地中海にまで満ち満ちてるのか。いやはやなんとも」
ピエトロは紋切り型で続けている口上の意味を理解してはいなかったので、女性の反応にはいつものように笑みを返すにとどめました。
「マダムはどこからいらしたんです?」
「日本、という国」
「ワォ。僕好きですよ」
「どこの国の人も、そう言ってくれるね」
ピエトロはいつものように無難に会話を切り出しました。女性も仁王立ちのまま、軽快に言葉を返します。不思議と話し易いこの外国人に、ピエトロは妙な胸騒ぎを覚えました。そしてふと、相手との物理的な距離に気付いて、肩を竦めました。
「ところでラガッゾ」
一歩を踏み出そうとしたピエトロに、彼女は声色をそのまま、しかしある種の底意地の悪さを滲ませて言います。
「あの夫婦はあの後、どうなるのかな」
こんなことは初めてでした。ピエトロは、胃の奥の方が急激に痛み始めるのを感じました。無意識に通りの全景へ視線を這わせてみると、ひどく窮屈な心地がして、逃げ出してしまいたくなりました。少しでも和らげたいと、右手をお腹に添えました。
女性がぎくりと身体を揺らしたのが、目に入りました。腰を少しだけ、低くしています。表情にはわずかに緊張の色が見えます。あちらも平静さを失いつつあると悟ったピエトロは、ゆっくりと両手を上げました。
「ちょっとだけ。ちょっとだけ多めに昼代をいただくだけだよ」
ピエトロは、案内された観光客のその後については詳しくありません。けれど以前にどうしても興味が沸いて聞いたことがあって、そのとき彼の兄貴分にあたる心優しいチェーザレが話してくれたのを覚えていました。彼らは非合法の組織でしたが、それでもある程度、世間との折り合いをつけてやりくりしなければ永くは保ちません。ですから決して乱暴なことはせず、相手が気付かないように、気付かない程度に要領よく多めに貰うのがルールであるようです。
「乱暴なことはしていない。聖ペトロにも、もちろんママにだって誓えるよ」
もちろん、ピエトロも善い行いだとは思っていません。けれど正しいと善いは違うものです。ピエトロは彼の生業が生きるために正しい選択であると信じていますし、チェーザレたちもそう考えていることに疑いがありませんでした。けれど、と、彼は少し前の出来事を思い返します。とある観光客が、スリに失敗した子どもの腕を掴まえた時のことです。その観光客は子どもに「おまえたちは正しい者でも善い者でもない。だからそのような憂き身にあるのだ。みすぼらしく卑しいガキめ」と口汚く罵倒しました。子どもは射竦められたように眉を下げ、泣き出しそうな顔でこちらを見ました。ピエトロは彼をたびたび街で見かけていただけあって、可哀想だという感情がありました。けれどそれを押し殺して少年を見返していました。やがて騒ぎを聞きつけてやってきた警官に少年は連れて行かれて
、それ以来、彼の姿を見ることはありませんでした。
ピエトロは女性に視線を向けました。彼も時には観光客の怒りに触れて罵詈雑言を浴びせられることがありましたが、そんな時には相手の目を見ることにしていました。自分が震え上がらなくて済むように、です。
果たして、女性は瞳を輝かせていました。そこに怒りは無く、むしろ好奇心で満ち満ちているようでした。町中にあるマヨリカの鉢のいわれを聞いている観光客たちと、同じ色を光らせています。
「ふっふふ、なぁるほど。新宿のぼったくりと大差ないわけだ」
彼女は心底嬉しそうに笑みを浮かべます。体の重心を左右にせわしなく入れ替えて揺れているので、まるでその場でスキップをしているようでした。
「ふー、いい話をありがとう・・・私は、コウメと言う。あなたは?」
唐突な自己紹介に面食らったピエトロは、素直に答えてしまいます。
「ピ…ピエトロ」
「ふーん、ピエトロ!いい名前だね」
言うやいなや、コウメはピエトロに向かって歩み始めました。思わずのけぞった彼の背中に、冷ややかな白い壁が触れました。それに気を取られて一瞬振り返り、彼がまた視線を戻すと、その彼女との距離は人ひとり分ほどに縮まっていました。
「よろしく、ピエトロ」
差し出された手の細く伸びた指に、彼は目を奪われました。
旅行ライターが仕事だと語ったコウメに、ピエトロは街中を連れて回されました。普段は自分が観光客を引き連れて回っているだけあって、変な気分でした。落ち着かないでゆらゆら揺れていると、コウメはジェラートを奢ってくれました。日が暮れるまで彼女の取材と写真撮影に付き合っている間、ピエトロの目には住み慣れた美しい町並みよりも、彼女が映っていることの方が多くありました。彼女は初めて顔を合わせたときのようなミステリアスな様子を時折見せながらも、露天のオヤジとの会話では天真爛漫に振る舞いました。また教会では言動全てに見事な気品がにじみ出て、まるで数百年の信仰を護る敬虔な家庭の人物のようでありました。そして夕刻になり、あんなに青く透き通っていた海が暗く深い紺色に身を染めて、夕陽がただ一条しがみつくように朱色の橋を水平線から渡してきているとき、風を受けて立っている彼女の姿には言いようのない儚さがありました。潮風にさらわれてしまわないかと、ピエトロは不安な気持ちでいっぱいになっていました。
コウメは身じろぎ一つせず、口を真一文字に結んでいます。顔は沈みかけた太陽に向いていますが、ピエトロには彼女が、そのずっと奥を見つめているように思いました。そして静かな波止場に、自分ばかりがひとりのような気分になって、いたたまれなくなりました。
「・・・コウメ、そうだ。コウメは、いつまでいるんだ?」
コウメは振り返りました。さっきまでの消え入りそうな情緒は眉の端にも残っておらず、あっけらかんと彼女は言います。
「明日から一週間だよ。まだ遊べるね」
ピエトロは途端に恥ずかしくなって、口元を手で覆いました。
「それはーーーキリがいいね」
コウメはにっこりと笑みを浮かべています。
ピエトロは咳払いを一つしました。
「それは難しい相談だよ。だって僕には、仕事があるんだからさ。生きて行かなきゃいけないんだ」
「タダで案内してくれなんて言うつもりはないよ。一日これでどう?」
コウメは優しくピエトロの手首を掴んで、開かせた手のひらに3枚の100ユーロ紙幣を置きました。彼はぎょっとしました。
「こんなにもらえないよ」
コウメはかぶりを振ります。
「いいんだよ、ピエトロ。きっと必要になるだろうから」
「嬉しいけど、こんなには駄目だ。だから、200ユーロは貰うよ。100ユーロは、返す」
コウメは深くため息をついて「わかった」と頷くと、ピエトロの手から一枚を引き抜きました。ピエトロはほっとしました。
「それじゃ、また明日。ここで会おうね」
身を翻して街の方へ歩んでいく彼女を、青年はただ眺めていました。気の利いた一言も返せなかったのが今になっては悔やまれますが、それも日常です。彼は同い年の青年たちと違って決定的に、私的に女性と相対する経験が少なかったのです。それゆえに、異国情緒漂う神秘的な出逢いに少なからず興奮していて、そして何より少しの間この夢が続くらしいことを知って安堵を覚えているのでした。
立ち尽くしていると、海から聞き慣れた声が耳に入りました。見ると、港の凪いだ水の上に小さな船が浮かんでいて、乗っている人物が手を振っています。目を凝らすと、それは[G・ファルコーネ]に魚を卸してくれている馴染みの漁師であるヤコポでした。ピエトロは嬉しくなって手を振り返しました。そして今日あった幸せな出来事を話しに、波止場の先へ駆けだしていったのでした。
「ヤコポから聞いたんだ、ピエトロ」
向かいの席でナプキンを首に結わえようとしているチェーザレの機嫌があまり良くないことを、ピエトロはすぐに察知しました。チェーザレは普段通りの優しげな顔つきでしたが、口からでている音には刺々しい感情が含まれています。ピエトロには心当たりが無く、なんの話かを切り出されるまでは黙っていようと思いました。彼はテーブルに用意されていたグラスワインに目を付けて、右腕を伸ばしました。
「ピエトロ。酒は話の後にしないか?」
はっ、として正面の相手の目を見ます。
「私もな、はやく口を湿らせたいんだ。今日も忙しかった。きっとお前もだ。そうだろ?」
ピエトロはゆっくりと右手を肘掛けに戻し、今日のことを振り返りました。
コウメと出会って六日目の夜を迎えようとしていました。二人の仲は一層縮まっており、一線を越えた関係にはなっていないものの、そこには非常な親密さがありました。夜になれば彼女は自分のホテルに戻ってしまい、ここ数日ピエトロは変わらず自分の住まいでひとりでしたが、昼間のことを思い返しては幸福に浸るのでした。そして日が経つにつれ、別れの時が近づくのに耐え難い悲しみがありました。今日も、「また明日」と告げるその時、自分の声が震えていないか不安でなりませんでした。
その帰りしな、夕飯をとりに[G・ファルコーネ]に向かっていたところで、偶然にもチェーザレと行き会ったのでした。
「ええ」
ピエトロは俯いて応えました。チェーザレはテーブルに両肘をついて、身を乗り出しました。
「ガールフレンドができたそうだね」
青年の顔が紅潮したのを目敏く見つけたのか、チェーザレは高く笑いました。狭い部屋にその声が反響して大きくなり、ピエトロには数百人に囲まれて笑われているような羞恥がありました。
「まだそこまでの関係では、無いです」
「妙なところで謙遜するなよ。これで一人前だな。おめでとう」
満更でもなかったので、ピエトロは青年らしく恥じらって見せました。チェーザレはその様子に満足したように息を一つ吐いて、ワイングラスを手に取りました。
「サルーテ、ピエトロ」
「・・・サルーテ」
慌てて手にしたグラスを、ピエトロは掲げました。部屋の仄暗い橙色の照明がワインの紅に輝きと陰りを与えて、グラスに満たされたそれが他に類のないほどの美酒にさえ見えました。ガールフレンド、一人前、それらの言葉でより芳醇な香りを湛えるようになったそれを一口で飲み干した時、彼は真の意味で充実した心持ちになりました。
「ああ、そうだピエトロ」
チェーザレが、何かを思い出したように人差し指を立てて言います。彼の視線は丁度今し方運ばれてきた皿に向いています。盛られていたのは簡易なサラダで、瑞々しい葉物野菜の上に小降りのトマトが半切りになって花形に並べられていました。
「お前は人を殺したことがあったかな」
突然恐ろしい言葉が降りかかったので、ピエトロははっと目を見開きました。狼狽する彼の言葉を待たず、チェーザレは続けます。
「我々は、我々だ。血の掟を誓った家族なんだ。時には家族が、危険にさらされるときもある。別な家族によって、だ。そんな時、我々は進んで血を流す必要がある」
これほどまでに恐ろしい言葉の羅列を、ピエトロはチェーザレの口から未だ聞いたことがありませんでした。その衝撃といったら、目の前のサラダに全く手が着かないほどです。空腹のタネになった昼間の幸せな時間も、今は彼からずっと遠いところにあるようでした。
「だが当然、相手の血だけが流れて終わればそれに越したことはないわけだね。こういうのを予防と言う」
もしもピエトロが目を逸らすことを知っていたとしたら、ここでその恐怖と直接向かい合わずに済んだかもしれません。しかし彼は余りに正直でした。
「この予防が、大事なんだ。そしてそれを実行に移せるのが、一人前ってものなんだよ。わかるよね坊ちゃん?」
「コウメを殺しても・・・何の予防にもなりませんよ」
「彼女はね、旅行ライターなんかじゃない。ルポライターなんだピエトロ。ほとんどスパイと同義だよ。お前からあれこれ、聞き出していたろう?」
彼はコウメの、姿形から察せられる年齢と明らかにそぐわない精神性や社会性を思い起こしました。街を回っているときに見せた、鮮やかな立ち居振る舞いの変化。それらは、一瞬の間さえ置かず、強い好意を伴って思い出すことができるのです。けれどチェーザレの言うのが、このことなのだろうか―――その自問が彼の反骨心に大きな傷を生じさせました。
「で、でもチェーザレ、しかし、おかしいですよ。だってチェーザレはそんな、意味もなく残酷なことはしなかったじゃないですか。変だ、唐突ですよ」
立ち上がった彼の口角が異様に吊り上がります。眼球が現実を捉えて離さないので、その混乱は全て口元に顕れたのです。チェーザレはそれを見て不快を隠さず、吐き捨てるようにピエトロを睨みました。刹那、その鋭さに視線を逸らすと、サラダの上のトマトはぐちゃぐちゃに潰されていました。
「馬鹿だなあ。ピエトロ、お前がここに連れてきた観光客のうち三組に一組はシチリアの海に沈んでるよ」
「悪い冗談ですよね」
「お前が六日前に連れてきたデブ夫婦ね、ゴネたからアントニオとカルロに撃たせたんだ。あいつらも初めてだったからね、ゲーゲー吐いてたんだが、もうケロっとしてる。きっとお前もそうだよ」
「・・・」
「夕方、船に乗ったヤコポに会わなかった?あんな時間に漁に出ているとでも思ったかい?」
ピエトロは泣き出したい気持ちでいっぱいになりました。あの日の美しい時間が、血に塗れていくのが、辛くて辛くて仕方がありませんでした。彼女を見送った夕陽の中に、二人分の死体を乗せた船があったという事実はとうてい受け入れられるものではありません。受け入れることは、捨てることと同義なのです。もはや葛藤はすり替わっていました。
「まあ、今晩は悩みなさい。明日の朝には殺すんだ。いいね?」
チェーザレは入室した時と変わらない面持ちで退室していきました。残されたのは呆然とテーブルを眺めているピエトロと、トマトの潰されたサラダだけでした。
未明、ピエトロは携帯電話を耳に当てていました。十数度のコール音の後、眠たげな中年男性の声が聞こえてきました。
「遅くに失礼します。あの、高速艇をお持ちだと聞いたんですが」
つとめて丁寧な態度に、しかし高速艇の主は不機嫌で、仕事の注文なら夜が明けてからかけ直せと不平を言いました。ピエトロはそれでも「ごめんなさい、どうしても」と謙虚に食い下がります。それを何度か繰り返しているうちに目が覚めてきたのか、男は金額次第で仕事は受けようという態度を示しました。
「いったいどこまで行きたいんだ?」
「アンツィオ・・・でなければナポリでも良いです。スカレアでも構いません。とにかく、700ユーロを目安に行けるところへ」
電話の向こうで噎せてせき込む雑音が聞こえます。
「馬鹿野郎、そっから話すもんだ・・・何時に出たい?」
「一時間後が」
「よし、四時半だな。波止場の東端で待機している。レモンイエローの線が入った船だ」
「ありがとうございます」
高速艇の主人が通話を切るより先に、ピエトロは部屋を出ていきました。
街は静まりかえっていて薄暗く、街頭の弱々しい灯りのせいで安っぽく見えました。建物の外壁はこれまで気にもしなかったのに塗装の荒さが目について、似たような作りの建物全てがやっつけ仕事に思われて、まるで街全体が眠れない夜のうちに下手くそなジオラマに取って代わってしまったかのようでした。ピエトロは生まれて初めて、皮肉さからくる笑みを浮かべました。
コウメの宿泊しているホテルまでは十五分ほどの道のりです。毎朝迎えに出向いていたので、最早迷うこともありません。それでも駆けて行きたい感情に揺さぶられましたが、それはぐっと堪えました。彼はあくまで、コウメの命を奪いにいく体で動かなければいけなかったからです。自然な足取りで進んで行きました。その一歩一歩ごとに増していく高揚感とともに、進みました。
彼が物心ついたときには既に、両親と呼べるものがこの世界のどこにもいませんでした。代わりにチェーザレがいました。偽の正しさが貼り付いた御面を被った悪魔が、隣にいました。彼は幼いピエトロにスリを代表する、あらゆる犯罪の手口を仕込んでいったのです。そして正しさを誤認させたまま、自らの手駒に育て上げました。昨日までピエトロはチェーザレの価値観が絶対でしたし、そして他人が言いほめたたえるパパやママという存在よりずっと尊敬の心を持っていました。それがたった一晩でこうにも裏返るのかという恐怖にも似た興奮は、しかし彼の足取りに力を与えるばかりです。コウメという存在も、そうでした。彼女には、ピエトロを焚きつけるだけの何かのエネルギーがありました。それはチェーザレには一片も無く、ただピエトロと彼女の間にだけあるものでした。それを人が見れば、あるいは情熱と名付けていたやもしれません。彼は夜を行きます。
ホテルのガラス戸を押し開けると、顔馴染みになってしまったホテルマンが欠伸をしながら手を振ってきました。ピエトロは破顔して、
「や。それじゃあ、さよならだよガルシア」
と言い放つや、モップを支えにしてだらしなく立ったガルシアの横を通り過ぎていきました。駄弁を弄するつもりだった彼は「なんだそれ」と抗議しようとした拍子に、バランスを崩して転倒してしまいます。鏡のように磨かれたエレベーターの外扉に映ったその様子を見て、ピエトロは愉快さに、声を上げて笑いそうになりました。
彼女の部屋の番号は聞いていました。五日前に「起きてこなかったらフロントマンに電話させて」と頼まれていたのです。もちろん自分で出向くつもりでしたが、今日までその機会はありませんでした。
赤い扉の前で、ピエトロは俯いて五回、深呼吸をしました。そしてひとつ咳払いをしてから小さく低い声で、「逃げよう、逃げよう、逃げよう」とそれを三度繰り返しました。意を決し、扉を正面から睨みました。
ノックをしても、反応はありません。扉に耳を当ててみると、微かに物音がします。
ノブを捻ってみると、扉は抵抗なく開きました。戸枠と扉の間から見える内部が長方形に広がっていくにつれて、物音は大きくなっていきます。それは男性同士の話し声に聞こえました。ピエトロはぐっと胃が痛くなるのを感じて、言葉にならない叫びをあげながら部屋に転がり込みました。
部屋は、おそろしく整っていました。
テーブルにはホテル側が用意した豆菓子と伏せられたガラスコップが二つ。ベッドのヘッドボードに私物らしいものは何一つ無く、広げられたシーツには皺ひとつありません。まるでここには、既に誰も泊まって居ないかのようでした。物音の出所は、備え付けのラジオでした。
ピエトロはおそるおそる、人ひとりが入れそうなスペースがある家具ーーークローゼットや靴箱、冷蔵庫やベッドの下を覗いて回りました。しかしどこにも、それらしい影はありませんでした。そこには未明の暗がりからお裾分けされたような、空虚な闇があるばかりでした。
ピエトロは部屋の真ん中まで来て、そして全体を見回した後、膝から崩れ落ちました。胃が痛くて仕方がありません。ぐぐぐ、と、右手で右のわき腹を握っています。ラジオでは男性二人を司会としたつまらないトークショーが繰り広げられていて時折、彼等が下品なネタの合間に零す唾あぶくの混ざった笑い声が部屋中に響いていました。彼はもうそれに憤る気力もなくて、ただうなだれていました。
気付くと空が白んできていて、驚くほどの快晴がカーテンの透き間から見えました。それは紛れもなくこの島の空で、ピエトロにとってはただ唯一の身内でした。
ふと、ラジオの籠もった音の合間に、耳朶を叩く規則的な音がします。それは、彼でなくとも誰もが聞き慣れた音です。コツ、コツ、コツ、と、革靴がカーペットを踏んで鳴らす軽快で愉快な音が近づいてきていました。
それを知ったとき、ピエトロは叫びを上げて部屋を探して回りました。コウメを探しているのではありません。ほんの少しでも、一言でも良いから、何か言葉を残していてはくれないだろうかと、淡く無意味な希望を持って。
やがて入ってきたチェーザレは、半狂乱で滂沱しているピエトロを指さしました。連れ立ってきた若い二人の男がピエトロを押さえ込み、猿轡を噛ませ、その上に麻袋を被せました。ピエトロはすぐに大人しくなって、けれども人形のように手足を垂らしていました。そして彼は彼等に、引きずられるように部屋を後にしたのです。
部屋に残っていたのは、ラジオの音だけでした。ラジオからは、軽快な音楽が流れていました。曲名はvitti’na crozza ―――しゃれこうべと大砲。この島では知らぬ者の無い曲でした。
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