2000年の3日間

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立ち上がったとたんにゆらりと大きくバランスを崩した時田くんを両腕で抱え込むと、くせのある前髪が私のおでこをくすぐった。   「俺に……さわ…ん…なぃで…っ…」   聞こえない………の手前の、小さな声。 低くて、丸くて、甘くて、緩い声。 ズキンと体の奥に突き刺さる。  『…そんなに…嫌わないでよ。』  この小さな教室で、こんなに時田くんの近くにいられるのに、手を差しのべることもせず、声をかけることもせず、ただ傍観(ぼうかん)してる生徒たちなんて全員まとめて消えればいいのに。   「ち…がぅ…むぎが…汚れちゃう。」   『な…に、言…ってんのよ。時田くん、体操着どこ?』 「持っ…てきてな…ぃ。」 『…そっか。とりあえず保健室いこう。歩ける?』 「……ん。」  保健室にたどり着くまでの間、時田くんは時々目をこすって涙をぬぐうだけで、なにも話さなかった。  『制服、上は完全アウトだね。脱いで。』 「ぇ…でも。」  いやがる時田くんの制服の上着を脱がせて、島崎先生に言われたことも忘れて素手で洗い流して、ポットの熱湯をかけて…うん…そんなに範囲は広くないから、外に干しておけば帰るまでには乾くかな。  今日は最終日だから、職員室の自席の周りを掃除して帰るつもりで持ってきていた私のジャージ。 ラインとかロゴとかピンクだけど、全体は濃い紫だから男の子が着てもおかしくはないだろう。 まぁ、この際仕方ない。 返してもらうこともできないけど、それもまぁ、仕方ない。  『これ。とりあえず私のジャージ着といて。時田くんと私って、身長だいたい一緒でしょ?おっぱいが大きい分、私の方が表面積ありそうだしぃ♪……んふ♪』  「………。」 『……。』 「…。」  『ちょっ…と。笑うところだよ。』   「………。むぎ、平らじゃん。」   無言の反撃で、ジャージを時田くんの顔めがけて投げつける。  「いってぇ!顔めがけるとかなんだよぉ…」 『知らないくせにっ!ガキがっ!』 「だって、昨日理科室で抱き寄せたときも、さっきここまで来るとき抱かれたときも……むぎ、間違いなくまっっっ平らだっ……ぃ…ってえ!叩くなよ暴力教師!」 『うるさい!着ろ!下も念のため洗うから脱げっ』 「セクハラ。」 『バカなの?元気じゃない!なんなのよほんと!』  ベッドのそばの窓を開けて、優しいアイボリーのカーテンを閉めると、カーテンはふわりと揺れて風を形にして見せた。 校庭にはもう生徒たちが集まって整列してる。  布団に絶妙にくるまって器用に着替えた時田くんは、ズボンは自分で洗うからいいと言って聞かなかった。  手際悪く制服を洗う時田くんの口に乱暴に体温計を突っ込んで、おでこと後頭部を両手でバチン…!とわざと音をさせて挟んだ。  「ぃひゃぃ…っ!…ぁんらよ、ぼーろくきょーし…」  触った感じは熱くない。 しばらく様子見で大丈夫かな。 寝なくていいっていうのを無理やりベッドに押しつけると、時田くんはしょんぼりおとなしくなった。   「全然………。平気だったんだ。」 『…ぅん?』 「俺が教室戻ったら、むぎのおかげ…って、先生たち認めるでしょ?学校の先生たちは、誰もできなかったのに、むぎはできたんだぞ……って早瀬先生も、島崎先生も、認めるしかないじゃん?」  だんだん声が震えてくるから…  「ひとり…またひとり…って登校してきて、だんだん…教室みたいになってきたら…俺……俺さぁ…」  やっと押さえつけた“ぷつ”って音が、また私の体のどこかから響いてくる。 すこし震えてる肩に手のひらを添えると、やっぱり優しくあったかかった。 保健室は、手当てをする場所だから。 こうして、そっと手を当てることくらい許してもらってもいいはずよね。   『時田くんはまだ2年生で、時間はたくさん…あるんだからさ…。こういうのは、心が捻挫しちゃったようなもんで、温めたり、冷やしたり、固定したり…色々しながらゆーっくり、治していくんだよ。』   「時間……ない」   『…あるよぅ。人生長いんだから。』   「む…ぎー…」 『…ん?』 「返事……いっ…いらないんだけ…どぉ………1回だけ、言わせて…」 『なに?』    「俺……………。明日もむぎに会いたい。」    少し開いた窓から吹きこむ風が、アイボリーのカーテンを揺らす。 太陽の光のオレンジ色をほんの少し絡めて。   「会いたぃょ…」   こんな薄い布一枚が、見えないはずの風を形にして見せるなら、時田くんの苦しみも私に見えればいいのに。 こんな薄い布一枚で、見えるはずの私たちを外から見えなくするのなら、時田くんとの間にある埋まらない差を見えなくしてくれればいいのに。 先生と生徒とか。 21歳と16歳とか。 所詮は他人とか。 そういうの、全部。   『ダメだよ。教育実習は今日で終わるんだから。先生になりたいから、明日から大学戻ってがんばらな……』   ン……チュ……ッ   ふわってくっついて、離れるとき甘くて、とろんってまとわりつくみたいに。  私は最後の日に、時田くんの先生じゃなくなった。
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