2006年の3日間

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ファーストキスは高1の夏休み。 まだ教室にも、部活にも普通に行けてた頃。 軽音部の大江先輩の元彼女と。 完全にノリで。 でもあれは“かわいい女の子とキスをする”っていう行為に興味があるだけだった。 そりゃもう、初めて交わしたキスの、その気持ち良さったらたまんなかったけど。 お互いに気持ちなんかひとかけらもこもっていないあのキスは、初めて飲んだビールみたいにチクチクと苦い思い出だ。  そのあともいろんな人とたくさんキスはしたけど。  忘れられないキスはそのファーストキスだけじゃない。 あれはたしか、高2の春だ。 しばらく学校に行けなくなって、保健室にいるのがやっとで教室に戻れなかった頃。 気持ちが溢れだして行動を越える 気づいたら抱きしめてキスしてた そんな経験が、ボンヤリとした記憶の向こう側にいる。  風に遊ばれる保健室のカーテンが(かたど)る優しいゆらぎ。 朝まだ早く鋭角に射し込む、太陽の光のオレンジ色。 無機質に白い薬棚の、ツンと尖った消毒薬の刺激臭。 廊下をランダムに反響する、走る生徒の上履きの音。  どん底を這い回って、どこが上かもわからなく途方にくれていたとき、そっと隣にいてくれたから。 夢に破れ深く傷を負う瞬間を目の当たりにしたから。 期間限定の教育実習というパッケージに燃えただけ。  きっとそれだけのことなんだろう。  たったの3日間。 だから美化されてるだけなんだろう。 むぎって呼んでいたあの人のフルネームは覚えてない。 だけど、なんの利害関係もない赤の他人から、初めて大切に思われたあの心地よいあたたかさと、大事にしたかったのにできなかった自分の絶望的な無力さは、はっきり覚えてる。  あの頃の記憶はどれもこれも、クソみたいなことだらけだから、自分の身を守るためにおぼろげにしている。 こんなに大変で、こんなに楽しい今の毎日に、どうやって繋がってきたかすら、全く記憶がない。  昼近くまで寝て、バイトして、ファミレスでネタ合わせして、小劇場の舞台にも立って、ライヴ開演前とかテレビ収録前の前座に呼ばれて、自分の部屋で一人でネタ書いて、荷台に乗せられて売られていく牛みたいにあちこち知らない町に営業に行って………。 高2の頃の俺がいまの俺を想像できるわけがない。 俺なんかのことをファンです応援してますとか言ってくる奇特な女子を、たまにテイクアウトして美味しくいただいたりもして…。 こんな日々が続くわけないとか、将来どうなるのかとか、不安が全くない訳じゃないけど、気づかないフリだって超簡単なレベルに忙しい。  「おつかれさまっすうぅ…」 「おぅ!遅いぞ時田。今日は大人数の予約入ってて忙しいっつったろ。」 「そーでしたっけ?」 「一晩寝たら何でも忘れるんだな。ほら、とりあえずそこのゴーヤ切って。」 「え?調理させてくれるんスか?」 「猫の手も借りたいんだよ。とりあえず猫より役に立つだろ、時田だって。」 「にゃーっ!」 「…………あほか。」   中野のブロードウェイのさらに先、アーケードが続く商店街を抜けて、見落としそうなほど控えめな階段をあがったところにある沖縄料理の居酒屋が俺の生活と芸人活動の資金源。 ここの店長は、俺のとんでもないわがままの数々を、理由を問いただしもしないであっさり聞き入れる、どこかネジのぶっ飛んだおっさんだ。   「店長………」 スライスしたゴーヤを次々塩水にさらしていると、なんだか俺がオーナーな気になってくる。 このまま居座ってスキル全部盗んで居酒屋の店長人生も悪くはないな… 中野だけにこの店、ヘンテコで面白いひとばっかり来るから、下手なお笑いライヴよりよっぽど面白いし。 「…なんだ?」 「明後日の土曜日、バイト休んでいいスか」  「……………は?」 「スタンダードブロックさんのライブ、前座やるはずの人たちがダブルブッキングしちゃったんですって。そんで、急遽その枠だけ埋めてくれないかって、俺らのとこ連絡きたんすよ。もしウケたら幕間でコントもやらしてくれるっつって。」 「……え、スタンダードブロックってM-1出てスベりすぎて逆にテレビ出まくってるあの…………?すげーな。でも時田たちのコンビを知らないやつらばっかり来るんじゃねえの?引っ込めーとかいって生卵投げつけられたりしねえ?」 「ダイジョブダイジョブ。見たら好きになるから。俺ら大江戸キュービクルのこと。」 俺の1.5倍速で動いていた店長の手がピタリと止まる。 「お前…なんでそんなポジティブなの?」 「そりゃあ、お笑い芸人ですもん。仕事っすよ。それに人生楽しんだもん勝ちでしょ。」 「…それを言うなら明後日土曜のバイトも仕事だっつーの。…………しらんわ。勝手にしろ。」 「あざっす。」 「時給なんだから、払わんぞ。」 「ふぁーい…」 「また電気止まっても知らんぞ。」 「…………ぁ…。」 「知らんぞ!」 「…………はぃ…。」 塩水にさらされたゴーヤは店長の両手に握りつぶされて、灼熱の中華鍋に投下されて、湯気をもくもくと上げた。  湯気みたいな 蜃気楼みたいな あの3日間はそんな儚い幻想だったのかもしれない。
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